第98話 約束

 一番古い記憶で覚えて居るのは、祖母と交わした約束だ。

 ただ、約束の内容自体はもう覚えて居ない。

 約束を交わしたという事実だけが、妙にはっきりと残っていた。


『指切りげんまん、嘘吐いたら針千本のーます』


 よくある約束の儀式を祖母と二人で行い、離れた小指。

「忘れたらいかんよ」

 そう言って私の頭を優しく撫でてくれた、祖母の皺だらけの手は、どこまでも温かかった。


 祖母が亡くなってから数年後、老朽化した家を建て替えると言う話題が頻繁に出るようになった。

 良い意味で風合いのある建物ではあるが、確かに利便性には欠ける。それに対しては家人は皆不満を感じていたのだろう。それでも、中々建て替えを決断出来なかったのは、単純に経済的な事情が大きかっただけ。それが解決した瞬間、この建物は跡形も無く消えて無くなることとなった。

 正直その選択が良かったのかどうかは分からない。それでも、生きている以上、生活をより良く安定した物へと変えていく努力は怠るべきでは無い。そうやって引っ越しを済ませ、建物を取り壊すために重機を入れたところで初めてその存在に気が付いたのだ。

「ねぇ……これって……」

 それは、とても古い井戸だった。

 既に蓋がされ、使われる事の無くなってしまった古井戸の存在は、家人の誰も知らなかった。もしかしたら、祖母だけは知っていたのかも知れない。だが、そのことについて誰にもその話をした形跡は無い。

 どうするべきか悩み、古い迷信だと口々では言いながらも神主を呼びお祓いをして貰う。そして開かれた井戸の蓋は、思ったよりも呆気なく壊れてしまった。

「あっ」

 つい興味で中を覗き込んでみるが、予想に反して井戸の深さは無い。その証拠に、目視で底が確認出来る状態だった。

「水、一滴も残ってないみたいだよ」

 言葉の通り、この井戸は完全に涸れてしまっているようで、底には干からびて堅くなった土が敷き詰められている。

「まぁ、つるべもないし、長い間使われてなかったしなぁ」

 壊れてしまった蓋を見て大きな溜息を吐きながら父が呟く。

「お祓いも終わったし、埋めてしまおうか」

 その言葉で呆気なく決まった井戸の未来。そのことについて意義を申し立てる者は一人も出ること無く、重機が井戸を壊し土の中へと埋めていく。

 少しだけ迷信を信じ怖いと思ったが何も起こらない。

 そう。何事も無く、この場所に在ったものは全て姿を消し、綺麗な更地となってしまったのだ。

 そこから地鎮祭を行い、着工に入り少しずつ出来ていく建物。

 初めの頃こそ以前あった古巣を懐かしんだり、取り壊してしまった井戸のことを気に掛けたりはしていたものの、建物が少しずつ形になってくると次第にそれすら忘れていく。

 結局は古い物よりも新しい物の方が興味は惹かれるし、記憶という物は次々に新しい情報に上書きされていくのだ。それはそれで仕方の無い話だろう。

 そうやって完成した建物は、以前の姿からは想像出来ないほど立派で近代的なものだった。


 そこでの生活は快適過ぎるほど完璧だった。真新しい木造の香りが心地良く、ついつい入り浸ってしまうリビング。大きく開けた窓から吹き込む心地良い風がカーテンを揺らし、忍び寄る睡魔に意識が囚われる。贅沢な時間を独り占めしながら、ゆらりゆらりと船を漕ぎ始めた時だった。

『ゆーびきーりげーんまん』

 どこからともなく聞こえてくる子供の声に、はっと目を見開き起き上がる。

「な、何だ?」

 本日、家人は全員出払っているはずで、この家には留守番を買って出た自分一人しか居ないはずなのに、そこかしこから感じる人の気配に立つ鳥肌。

「何だよ」

 それは次第に、よりハッキリとしたものへと変わり怖気を連れてきた。

 何かが居る。

 その気配だけはしっかりと分かる。目に見え無い恐怖。どうして良いか分からず一人狼狽えていると、耳元で懐かしい声で囁かれた。

『忘れたらいかんよ言うたのに……』

 それは、多分、呆れだ。

 その言葉を聞いた瞬間、古い記憶の全てを思い出す。

「そう……だ……」

 それは、祖母と交わした古い約束。

 彼女は私に忘れるなと何度も、何度も釘を刺していたというのに。

「あの井戸……」

 私は祖母との約束を、今の今まですっかり忘れてしまっていた。

「井戸……あれ……」

 あの時に彼女が言ったのは、井戸を開いてはならないと言うこと。

 それが何を意味しているのかを知るのは、井戸を解放してしまった後だ。


『もう、これで終わりじゃあ……』


 それはとても悲しそうで、どことなく寂しそうで。

 ふっ、と懐かしい気配が消えた瞬間、家全体がざわめき出す。


 開いてはいけない封印というものがある。

 それを守るのは土地の守人。

 その術は口伝という形で後世に伝えられていたのに、私が約束を破ったばかりに壊れてしまった。

 もう二度と繁栄は戻らない。

 代わりに解き放たれた業を、今後はずっと背負い続ける事になるのだろう。


 もう、全てが、後の祭り。つまりは、そういうことなのだ。

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