第99話 エメラルド
結婚指輪にあしらった宝石は、私の誕生石であるエメラルド。
永遠の愛を誓い、幸せの絶頂だった結婚式のフォトグラフは、今でも一番目立つ場所に飾られている。
共に過ごした時間、共に築いた思い出。どれもこれも大切で暖かい。それは、私の一部で誰にも分け与えるつもりなんて無かった。
変わる事なんて無い。
そう信じていたのは、どうやら私だけだったようだけれども。
それに気が付いたのはいつの頃からだっただろう。
夜に求められることが無くなり、少しずつ帰宅の時間が遅くなる。
すれ違いの毎日が続くことで、日々積もる寂しさと虚しさ。一人きりの食卓も、随分と回数が増えた。
それでも待ち続けているのは、未だに彼の愛情を疑いたくないと。そう自分自身が願っているからだろう。
すっかり冷めてしまった料理は今日もまた、ラップを掛けて冷蔵庫へ。次の日もそのままそこに居座る事になるなんて本当はもっと前から気が付いて居る筈なのに、それでもそれを止められない。
温かいお風呂も、友達からの電話も、この隙間を埋めてくれるものは何一つとして存在しない。
せめて子供が居れば何かが違ったのかも知れないが、それももう、敵わない夢と諦めた方が早いと感じてすらいる。
それでもそれを認める事は怖かった。
縋っていると言われれば確かにそうなのだろう。
だからこそ、薬指で輝いたリングを外す勇気は未だに持つことが出来ていない。
「この石も、今になってみたらただの皮肉…………ね」
プラチナのリングの一番目立つ場所に鎮座している緑色の宝石。
「一番好きな宝石……なんだけどな」
その石が持つ意味はどれもこれも幸福を願うものばかり。
恋人の時は確かにその石の持つ意味の通り、愛を成就させてきたのだろうが、今は時が経つにつれ段々と枯れて乾いていく。
冷たいシーツにはたった一人の温もりしか移さず、寝返りを打つ度にその冷たさに凍えることしか出来ない。
それでも……私はまだ耐えることが出来ると思っていた。
彼がまだ、私に平気で嘘を吐き、私の元へ帰ってきてくれる間は。
久し振りに友人から誘われた食事会。朝、彼に遅くなるかも知れないという旨を連絡し、行ってらっしゃいという淡泊な返事に涙を呑みながら家を出る。
既に駅前で私を待っていた彼女達は、嬉しそうに駆け寄りはしゃいでいる。充実していてキラキラと輝いている友人の姿に、少しだけ痛みを訴える胸。でも、そんな仄暗い感情など気付かせてはいけないと平気な顔の仮面を被り、私はその食事会を楽しもうと決め、無理矢理笑顔を作った。
あれから何時間経ったのだろう。
楽しかった時間なんて、呆気ないくらいあっという間に過ぎて行ってしまう。
楽しければ楽しいほど、別れというものが辛くなるせいで、思わず彼女達を引き留めて「助けて」と叫んでしまいたかった。
でも、そんな言葉は言えない。言えるはずが無い。
だから「またね」と行って手を振り別れる。
足取りが重い。家までの距離が憂鬱。
それでも私は、あの家に帰ると言うことを選択した。もしかしたら、今日は彼が私を見てくれるかも知れないという小さな希望を持って。
「……ただいま」
明かりの消えた玄関に向かって、小さな声でそう呟く。
「え?」
見慣れないもの。知らないアイテム。それが此処にあると言う事実が私の心をざわつかせた。
「……そん…………な…………」
考えたくない。考えるつもりも無い。それなのに、なんて神様は意地悪なんだろう。知りたくなかった現実を突然突きつけられ、目の前が真っ暗になる。
ふらつく足をなんとか動かしキッチンへと移動すると、愛用している包丁を手に廊下を歩く。どこに居るかなんて考えなくても分かる。薄く開いたドアの隙間。そこから漏れる小さな明かりがその行為を行っている確かな証拠に違い無い。
部屋に近付くにつれそれはハッキリと耳に届いた。
男女の交わす睦言。それは主に「私」という「妻」への夫が抱く不満と、「愛人」である「彼女」がいかに素晴らしい女性なのかを解いた言葉で、それを確かめるように笑い合うと、直ぐにそれは彼女の上げる喘ぎへと変わったのだ。
許せなかった。
私はいつも独りぼっち。
寂しい思いをしながら彼をずっと待ち続けていたのに、彼は私を見ることをしてくれない。
永遠の愛を誓っておきながら、簡単に他へと目移りをして交わした言葉の意味を忘れてしまうなんて。
たった一枚の扉の向こうでは、私が一人冷たさを味わっていたシーツの上で、愛した相手と泥棒猫が営みを続けている。
もう、何だって良かった。
どうせ、誰も私を助けてはくれないのだ。
もう、限界だった。
これ以上は自分を偽ることは難しい。
だから、私は決断する。
大きく扉を開き、鈍色に光る刃物を片手に、二人を睨み付ける。
予想外の展開に、二人とも目を丸くして固まっているのはとても滑稽だ。
やがて私の手の中で光る刃物に気付き、男は怒りを顕わにし、女は恐怖で震え上がるだろう。
だが、それも全て貴方たちが導いた結果論。
「後悔させてあげる」
絞り出すような声でそう呟いた私は、力なく笑う。
「一生忘れられないように、貴方たちに背負わせてあげるから」
やめろ!
そう言って伸ばされる手よりも早く皮膚に当てた刃物を横に動かす。
上手く切れない肉の感触と、鋭く走る痛み。
絶望の色を浮かべる彼の表情が、とても嬉しくて仕方ない。
上がる血しぶきと暗くなる視界。
遠くなる音は、あと少しで何も聞こえなくなるだろう。
でも、これで良い。
永遠を誓った緑色の宝石。
何一つとして私の願いを聞いてくれることは無かったけれど、私には一つだけ希望が出来た。
そう。それは……
彼の犯した罪として、私の存在が一生重荷で残る事。
私は貴方を永遠に愛してる。
だから、貴方はその罪を死ぬまで背負って後悔し続けてくださいね。
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