第76話 渇き

 こんなにも喉の渇きを覚えたのは始めてだった。

 朝からずっと水を飲んでいるというのに、全く喉の渇きが治まらない。

 摂取しすぎた水分のせいで気分は大分悪くなっている状態。腹もぱんぱんで何度もトイレに駆け込んでるはずだが、それでも喉の渇きが癒える気配は、全くと言って良いほど無かった。

 水だから駄目なのだろうかと考えお茶に変えてみたが全く効果無し。コーヒー、ジュース、アルコールに炭酸水。果汁を絞ってみたり薬膳を試してみたりと思い付く限りのものを口に含んでみたのだが、全く改善されない状態にうんざりする。

 空腹は感じているのに水分のせいで食欲が湧かず、ベットとキッチンをただひたすら往復している。

 こんな状態になったのは何故だろう。

 原因を考えてみるが、何一つ思い当たる節がない。敢えて言うならば数日前体調を崩して病院に駆け込んだこと。それだけが日常の中で唯一『いつもとは異なる出来事』である。

 しかし、体調不良で病院に行くなんて、誰にでも起こりうることだろう。受診は一般的な内科、診断内容は自律神経の乱れによる体調不良からきた風邪で、処方箋もごくごく一般的なものではある。いつも通り安静にし、出来るだけ食事をして薬を飲むよう心がけ、一日も早く体調を回復させることを優先しただけなのに、予想外の副反応が出ているのは本当に頭が痛い。

「……はぁ……はぁ……」

 また一本、空になり床の上に転がるペットボトル。買い置きのミネラルウォーターなんてもう在庫も数本限り。小さいボトルは呆気なくゴミとなり、大きなボトルが冷蔵庫の中で開栓を待機している状態。

 これ以上水分をとりたくない。

 身体はそう悲鳴を上げているはずなのに、無意識に手はペットボトルに向かって伸びる。腕を持ち上げるのも億劫と感じているが、それでも指に力を込めキャップを捻って栓を開ける。閉ざされていた中の湿気が外に溢れ出すと、鼻孔を擽る水の香り。

 ああ……堪らない……。

 無意識に注ぎ口が唇に触れ、傾いたペットボトルから流れ落ちる雫を舌で受け止め喉を鳴らす。

 水を飲んでいるときだけはこの渇きは癒される。

 驚くほど充たされていくと感じる瞬間。

 これが一時的なものだと判っては居ても、その手を止めることが出来ない。

 まるで麻薬のように、中毒に冒され判断が鈍っていく感覚。

「……うっ……」

 空になった新しいペットボトルが床に転がったと同時に、押さえた口元から大量の水が溢れ出る。指の隙間を縫って次から次へと逆流していく水分は、一時の潤いを全て流し去るように我先にと身体の中から逃げだそうと溢れ出てしまう。

 それを止める事が出来ず、泣きながら嗚咽を零すことしかできない。

 苦しい、気持ち悪い。

 それでも、それを嘲笑うように、大量の水は私という器の中から溢れ出てシーツの中へと消えてしまうのだ。

 これではまた渇いてしまう。

 怖い。何故かそう思ってしまった。


 どうすれば渇きを潤すことが出来るのか。

 その方法は未だに見つからない。

 ただ、ペットボトルが空になる度、水道水で満たされ冷蔵庫へと逆戻り。

 気が付けば、私の腕も身体も、随分と細く鳴ってしまっているのだが、それをどうすることも出来ない。


 食べる物よりは飲むものを……。


 骨と皮ばかりになった身体の中で、唯一丸く膨らんだ腹を眺めながら、今日もまた、終わりの見え無い渇きを満たすべく、重たくなったペットボトルを傾けるのだ……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る