第75話 週末

 金曜日は不思議だ。

 一週間の憂鬱が、この日が来るとどんどん消えていくのが本当に面白い。

 前日の木曜日と業務内容はそんなに変わっている訳では無いはずなのに、この日が来ると自然と頑張ろうって思えるのは素直に嬉しかった。

 今週末の予定は、一ヶ月ぶりに会う約束をしている彼女とのデートがメイン。就職をしてから遠距離になってしまったため、学生の頃のように頻繁に会うことが難しくなってしまった分、こうやって共に過ごす事の出来る時間が何よりも大切だと強く感じてしまう。

 朝起きて、支度をし、少し早めに家を出る。時間に余裕を持って出勤した分、電車に揺られる時間もいつもよりは大分気が楽。ラッシュの時刻から少し外れているとは言え、都会の人の多さは田舎と比べて遥かに多く常に鮨詰め状態の車両ですら、今日と言う日に限ってはまぁいいやと思える程、心の余裕がある。既に始まったカウントダウンは、明日の朝起床するまでずっと続く。出社してからの十数時間が勝負というところだ。

 何事も順調に。思った以上に仕事がサクサクと進むから、段々と調子が上がっていく。このままだとひょっとしたら定時で帰れるんじゃないかとか、そんな都合の良い事を考えて無意識に緩む口元。気のせいかキーボードを叩く音は軽やかなリズムを奏で、小さな声で口ずさむ最近お気に入りの曲が耳を擽る。


 だが、それも、数時間後には絶望に変わるのだった。


「ちょっと良いかな?」

 順調に進んでいた作業を止めたのは上司の一言。

「はい」

 こんな時間に一体何だろう。一抹の不安が過ぎるが、ここは素直に応じ手を止める。

「これなんだけどね」

 手渡されたのは一つの仕様書。

「申し訳ないんだが、これ、今日中に修正って対応してもらえないかな」

 見てみると、それは後輩が行っていた作業内容のようだった。

「これって……」

「言いたいことは分かるんだが、彼に任せると来週までかかっても終わらないと思うんだ」

 申し訳ないがよろしく頼む。異議は認めないと一方的に突きつけられた残業という二文字に、思わず眉間に皺を寄せてしまった。

「あの……俺……」

 出来る事ならば断ってしまいたい。何と言っても今日は金曜日なのだ。明日の予定は既に決まっている。だからこそ、早く帰宅して部屋の片付けをし、早めに就寝してゆっくりと眠りたい。

「この埋め合わせはキチンとするから! 頼む! この通りだ!!」

 しかし、NOという答えを相手は求めていないようで、都合を付けるのは本日のスケジュールではないと言い放ち仕様書だけを残して自分のデスクへと戻っていってしまった。

「…………なん……だよ……」

 突然決まった残業に、せっかくの気持ちも一気に急下降。早く帰りたいという思いだけが時間と共に大きくなる分、作業効率は反比例するように悪くなる。

 後輩の作業を引き継いで仕様書と見比べながら修正を進めていくと、思った以上にミスが多い。ここまでミスが多いのなら、いっそのこと一から作り直した方が早いのではと思える程の修正箇所にうんざりしながら一つ一つ直していく間に、時計は何周も回ってしまっていた。オフィスからは人が一人、また一人と消えていく。それでも残って作業をする者が居るのは当然で、最終的には上司と部下、そして自分の三人だけが薄暗いフロアに残される。

「すまんな。残業になってしまって」

 定時を大分過ぎた頃、一度上司が缶コーヒーを差し入れにと差し出してくれた。

「仕方無いです。仕事ですから」

 そうはいってはみたものの、それについて完全に納得出来ているわけではない。未だに腹の虫は治まらないし、そのせいか修正作業に対してのミスも少しずつ多くなっていることに気付き大きな溜息が出てしまう。

「私も同様に修正作業を進めているから、もう一頑張り、よろしく頼む」

 そんなことを言われると、益々怒りのぶつけどころが無くなってしまう。どちらともとれない「はい」という言葉を最後に、再び作業に戻り手を動かす。

 時計の針は相変わらず回り続け、あっと言う間に一時間、二時間と時間を刻んでいった。


 全ての作業が終わった頃には、時刻は既に日付変更線を当に越え、すっかり町は眠りに就いてしまっている頃だった。


「タクシー代は会社が持つから、領収書を後日提出してくれ」

 会社の前でタクシーを捕まえ、上司に手を振られ帰路に就く。予想外の作業に疲労はいつもの倍以上。無意識に零れる欠伸を堪えることなく吐き出すと、自宅付近のコンビニを指定し窓の外をぼんやりと眺めた。

「明日、早起きしないと……」

 このまま寝た方が良いのか、起きていた方が良いのか。正直どちらが良いか悩む所。

 コンビニの駐車場でタクシーを降り、無くさないように領収書を鞄にしまうと、店内に入り眠気覚ましのドリンクとミントタブレットを購入。出来るだけ早く帰宅し玄関のドアを閉めたところで、ぶっつりと記憶が途切れてしまった。


 気が付いたときは携帯が煩く鳴り響いていた。何事かとディスプレイを確認すると、大量の着信と一通のメッセージ。

 寝ぼけた頭で開封したメッセージの内容を見て、一気に頭が冷え飛び起きる。

「え? 何で!?」

 メッセージの相手は週末に会う予定の彼女。その内容は、このようなものだった。

『何回も連絡したけど全然繋がらないから、心配になってきました。でも、ドアを叩いても鍵を開けてくれないし、誰か他の人が居るみたいなので今日は帰ります。今度会うときに話が出来るといいけど……』

 一体何の事を言っているのかが分からず慌てて押したリダイヤル。無常にも聞こえてくるのは『この番号は、電波の届かない場所に在るか、電源が入っていないためかかりません』というアナウンス。何度かけても変わらないアナウンスに泣きそうになりながら、話がしたいから連絡が欲しいとメッセージを打ち祈るように携帯を握る。


 しかし、その日を境に、彼女からメッセージが届くことは一切無くなってしまった。


 週末という日はとても楽しいものだった。

 あの日までは。

 でも、今は、週末という日がとても嫌で仕方が無い。


 未だに待ち続けているのは、消えてしまった恋人からの連絡。振られたと考えればいいのかも知れないが、ハッキリと分かれたいと告げられたわけではなく、一切の消息を絶ってしまったため何とも歯切れが悪い。

 そして何より、謝ることも怒られることも出来ないこの状況が気持ち悪くて仕方が無い。


 今日もまた、週末がやってくる。

 金曜日の夕方に入れるメッセージは決まってこの言葉。


『連絡を取りたい。気が付いたらメッセージを下さい』


 でも、このメッセージに既読マークが付くことは、あの日以来、一度も訪れる事は無かった。

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