第74話 恋文

 恋心をしたためた文をそっと忍ばせる。気付いて貰えるかどうかは賭けで、それで振り向いて貰えるかどうかも分からない。

 それでも、溢れ出て止まらない想いがあの人へ伝わりますようにと願ってしまうのは、勝手な我が儘なのだろうか。


 結婚して家庭を持ち十数年が経った。

「この部屋とも後もう少しでお別れなのね」

 段ボールの口をガムテープで塞ぎながら、妻が寂しそうにそう呟く。

「新しい家でのスタートが楽しみじゃ無いか」

 乾いた食器を丁寧に新聞紙で包み段ボールに収めながらそう答えると、同じように作業を行う妻が「そうね」と柔らかな笑みを浮かべ頷いた。

 妻とは学生の頃からの付き合いだ。

 切っ掛けはたった一通の手紙。所謂ラブレターというやつで、妻から僕に当てたその手紙は今でも良く覚えて居る。

 可愛らしいキャラクターがプリントされている便箋に、可愛らしい柔らかな文字で綴られた好きという気持ち。それを見たときとても恥ずかしかった。でも、それ以上に嬉しくて、誰も居ない所で飛び上がって喜んだのは此処だけの秘密だ。

 その恋文は、何通か私の元に届き、私自身も彼女の事を強く意識するようになるまで時間はかからなかった。

 改めて妻に手紙の返事と告白をし、正式にお付き合いすることになり、紆余曲折を経て結婚というゴールテープを切る。それに対してマイナスな意見をいう者も居はしたが、私にとってそれは幸せへの一歩であることは間違いが無かった。

 勿論、双方価値観の違いというものはある。常に順風満帆というわけでは無いが、それでも夫婦仲は良い方で、子宝にも恵まれている。決して裕福というわけでは無いが、この度念願のマイホームも手に入れたのだ。充実している人生と言っても過言では無いだろう。

「この家で色々あったよね」

 梱包の終わった段ボールが積み重なるにつれ、家の中に有ったものが姿を消していく。

「お世話になったんだから、最後はしっかり掃除をしてやらないとな」

 ワレモノと書かれた段ボールを慎重に玄関先に移動させて一息。今まで色々なことがあったこの家がもう少しで他人の物に変わるのだと思うと、妻ほどでは無いがやはり寂しいと感じてしまう。

「業者さん、いつ来るんだっけ?」

 電気ケトルに水を溜めながら妻が問う。

「明後日。明後日の午前中だよ」

 妻の動作を見てレジ袋から二つ、カップラーメンを取り出し蓋を開いた。

「あの子達、今日何時に帰ってくるんだっけ?」

 時計を見ながらケトルのスイッチを入れ、カップラーメンの容器に加薬と粉末スープを移してお湯が沸くのを二人して待つ。

「学校が終わってからだから、夕方だろう?」

「そうか。今日、平日だっけ」

 平日に休みと言うのは中々無いもんだから、二人して感覚のズレにクスクスと笑い出す。

「何か懐かしいね」

「ん?」

「こうして、二人でカップラーメンを食べるのって」

 言われて見ればと思った。

 金のない学生時代は、よくこうやって二人でカップラーメンを食べたものだ。田舎から出てきたばかりだったから節約しなければいけなかったのも大きいが、単純に料理をする事が不得意で即席やレトルトに逃げてしまっている部分も大きかった。

 結婚して家庭を持つと、妻が毎日食事を作ってくれるようになった。勿論、休日は私も妻の隣に立ち、叱られながらも手伝うのが定例で。いつの間にか家庭の味が普通となり、こう言うインスタントを二人で口にする機会は減ってしまった事を改めて自覚する。

「いつもありがとう」

 だからだろう。感謝の言葉が素直に出てしまったのは。

「な、何よ、一体」

 妻は真っ赤になって顔を背ける。

「僕のことを幸せにしてくれて、ありがとうって。そう思ったから言ってみただけだよ」

 普段は中々言う機会の無い言葉は、やっぱりちょっと照れくさい。でも、それを受け取った妻はとても嬉しそうに笑いながら「どういたしまして」と返してくれる。それがとても可愛くて素敵だと感じた。

「そう言えば」

 湯気を上げるケトルの注ぎ口を眺めながら妻がふと口を開く。

「荷物を片付けていたら、大量の手紙が出てきたけど、あれも持っていくの?」

「手紙?」

「なんか、私達が学生の頃に流行ったキャラクターの絵が描かれた封筒のやつ」

 まだ湯が沸かないからだろうか。妻が一度キッチンを離れ姿を消す。戻ってきた彼女の手には、懐かしい手紙が数通。

「これ」

「ああ、これか!」

 それは、私が受け取った彼女からのラブレター。彼女からの大好きという気持ちが込められた大切な思い出の品だから、ずっと大事に仕舞っていたものだ。

「懐かしいね。これ、君が僕にくれたラブレターだよ」

 彼女からその手紙を受け取ろうと手を差し出した時だった。

「え?」

 彼女の動きが一瞬止まる。

「どうしたの?」

「ちょっと待って」

 彼女は私に手紙を渡すこと無くそれを机に置くと、その中から一通広げ文面を読み始める。

「この手紙……私、書いてないよ?」

「え?」

 次々に封筒から取り出され広げられていく便箋たち。どれもこれも「違う、私じゃ無い」という言葉と共に机の上に山を作る。

「この手紙誰から貰ったの?」

「君じゃ無いのか?」

「違う! 私じゃ無い!!」

 妻は知らないと首を振る。でも、私はこの手紙はずっと妻からの物だと思い込んでいた。

「だって、ここに君の名前が有るじゃ無いか」

 想いを綴った文章の最後には、必ず一人の名前が記されている。一字も違えることの無い、確かに彼女の名を記す文字がハッキリと書かれているのだ。

「確かにこの名前は私だけど、この手紙、私じゃ無い」

 だが、それでも彼女は違うと首を振りそれを否定した。

「私が出したのはこの一通だけ」

 そう言って差し出されたのは、シンプルな無地の封筒と綺麗な花の描かれた上品な便箋。

「それ以外は私じゃ無い。私、こんな字書けないもん」

 確かに。言われて見ればこの二つの便箋に書かれた筆跡は随分と異なっている事に気が付く。

「ねぇ……これ、一体誰から貰ったの?」

 そう呟くと、彼女はカタカタと震えだしてしまった。

「この手紙、何か、怖いよ」

 彼女の持っていた一枚の便箋。それを彼女から受け取り目を通す。

「ずっと一緒って……どう言うこと?」

 そこには見た覚えの無い言葉がびっしりと書かれていた。私の事が好きという文面はいつもと同じなのだが、その後の内容が異常と感じる程怖い。

「これ、送ってきた人に会ったことあるの?」

 妻が不安そうにそう訪ねる。

「いいや……無いよ」

 それには直ぐに即答できる。

「だって、ずっとこれは君からの手紙だと思っていたんだから」

 何十年も疑う事の無かった人違い。でも、それを意識することは実に難しい。女性の字なんて綺麗、可愛いという認識しかないし、何よりラブレターを貰ったという事で有頂天になってしまっていたのだから、深く考えたことは無かったのだ。

「……この手紙の相手……今、何してるんだろうね……」

 妻は何となくそう呟いたのだろう。

 それに深い意味は無かったはずだ。

 それなのに…………


『カタン』


 誰も居ないはずの部屋から聞こえてきた小さな物音。

 それは、今呟いた言葉に対する返事のように、とても自然にその場所から聞こえてきたのだった。

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