第67話 友愛

 仲の良い友達と言えば分かりやすいが、友愛と言われると首を傾げてしまう。

 多分それは、言い慣れない、聞き慣れないせいなのだろう。むず痒く耳がくすぐったい。

 友という響きはまだ良いが、そこに愛と付くのが苦手と感じるのかも知れない。

 でもまぁ、そんなことはどうでも良い話である。


 私には、とても仲の良い友達が居た。

 彼は親友と呼ぶに相応しい存在で、なにをするにも常に彼と友に行動をしていたように思う。

 彼は、私から見てとても魅力的な存在だった。彼の見て居ること、考えていること、一つ一つが新鮮で、常に私の心を刺激してくれる。何もない退屈な田舎に住んでいたせいか、刺激をくれる相手はとても魅力的に映っていたのかも知れない。

 そんな友達だが、不思議なことに、彼との思い出は全て遊んでいる時のものばかり。彼の家の部屋だったり、近所の空き地だったり。神社、山、海など、様々な場所で楽しい悪戯を行った記憶はあるが、学校という環境での思い出は一つも無かった。

 それでも、私にとってはそんなことは些細な問題。もう、名前もよく思い出せない彼ではあったが、彼との楽しい思い出だけははっきりと記憶の中に存在している。授業の内容なんてこれっぽっちも思い出せないのに、不思議とそのことだけはしっかりと覚えて居ることが出来た。

 別に、永遠を求めている積もりは無かったし、楽しかった頃のままで居たいと強く望んでいた訳では無いが、年齢を重ね、環境が変わると、少しずつ余裕というものが無くなっていくような感覚がある。苛々することは確かに増え、毎日が溜息の連続。授業について行けない焦り、受験に対して感じるストレスは学生の頃は常に感じていたし、大学を卒業しいざ就職となったときの、求人の少なさに言葉を失った事は記憶に新しい。

 望まない結果。

 自分で選択して選んだ未来は、これで良かったのだと納得出来るようなものでは無く、あの時、もう一つの選択肢を選んでいたらという常に後悔の念が付きまとうものになってしまっている。

 そうは言っても、私は弱い人間だ。こうだと頭で思っても、強く主張することが出来ず、結局は楽な方へ逃げてしまう。その結果が、今、この状況。入った会社がブラックだとは気付かず、毎日が残業の繰り返し。睡眠不足に食欲不振。人間関係は最悪で、気持ちの浮き沈みが激しく制御出来ない。

 必死になって働いているのは、社会という枠にしがみつき、自分はまだ人間なんだと主張したいからであって、本当はずっと前からボロボロになってしまっていたのかも知れない。

 会社に行って、上司に呼び出されて。何かを説明された気がするが、それに適当に答えていたら、深い溜息と共にこう告げられてしまった。


「もう、来月から来なくていいから」


 一瞬、言葉の意味が分からず、頭が真っ白になった。


「…………それは、どいういう事……です……か……?」

 信じたくない。そう思ってしまうのは当たり前事だろう。

「言葉通りの意味だよ」

 上司は手にもった資料を捲りながらこちらを見ること無くそう答える。

「…………くびって……ことですか……」

「そう」

 言葉にしても未だ実感の湧かない通告。

「あっ。勘違いしないでね。別に私が独断で決めたことじゃないから」

「……………………」

「さっきも説明した通り事業を縮小するから、社員一人一人に説明してるんだけど、君、最近業績が芳しくないようじゃない。でも、それを何ヶ月も挽回出来てないのは、数値でハッキリ出ちゃってるわけ。……まぁ、私個人としては君にこういうことを告げるのは心苦しいとは思うよ? でもね、会社もそんなに余裕が有るわけじゃ無いの。売上げが上がらない以上、給料を払うのは難しいって、分かるよね?」

 一方的に告げられるのは、何もかもそちらの都合の良いことばかりだ。私に対してのメリットなど一つも無いのが悔しくて仕方が無い。

「でもね、さっき君と話してみて、君にやる気があるのなら、一応上に掛け合ってみるつもりではあったんだよ。それなのに君は上の空。何を聞いても間の抜けた返事を返してきたじゃない? これじゃあねぇ……流石に私もフォローできないんだわ」

「……はぁ」

「ほら、また」

 伏せた顔の向こう側で上司が嫌そうに溜息を吐く。

「やる気の無い人を置いておけるほど、うちも余裕が有るわけじゃ無いの。ごめんね」

 全く悪びれる様子のない物言いで、一方的に言いたいことだけ告げて上司はその場を去って行く。

「……………………くしょう……」

 握りしめた拳は小刻みに揺れ、視界がぼんやりと滲んで行く。全て私が悪い様に言われたことも、一方的に雇用を破棄されたことも、何一つ納得はいっていないのに。それでも、私という存在を残して未来へと時は進んで行ってしまうのだ。

 この決定は覆すことが難しいだろう。誰も居ない部屋で私は声を殺して泣いた。


 あれから、どれくらいの時が経ったのだろうか。

 会社を辞めたことで気力の糸が切れてしまったのか、体調を一気に崩した私は、それからずるずると何も出来ない日々を過ごしている。辛うじて行くことが出来た病院で下された診断は『鬱病』。その診断も、何ヶ月もかけてやっとおりたもので、その頃にはすっかり鬱状態が当たり前になってしまっている。

 頭のどこかでは社会復帰をしなければと思っているのに、体が社会に戻ることを拒否している。そのせいで余計に何も出来ず、飲酒の量だけが増えていた。


 そんな時に思い出したのが、懐かしい友人の存在だ。


「そうだ。帰ろう」

 なけなしの貯金を卸し、着の身着のまま飛び乗った電車。正直まだ鬱の症状が落ち着いたわけではないから、外出すること自体は辛いと感じる。それでも、都会の喧噪の中に居るよりは、何もない田舎に行く方が心は軽くなるというもの。郷里が近付くにつれ、少しずつ気は楽になってきたように感じられる。

 駅から出て実家への道とは逆方向へと歩いて行く。その道は、私が覚えて居る友人との懐かしい思い出の在る場所。正直、その友人に会えるかどうかは分からない。それでも、戻ってきた地元で彼以外の友達に会いたいとは思わなかったし、そのまま実家に帰る気にもなれなかったのだから、それは極当たり前のように取った行動だったのかもしれない。

 彼との思い出を辿るように、彼と遊んだ場所を回る。

 彼の面影をもった人間であることは無く、他人のようにすれ違う故郷に暮らしている人達。誰一人として、私がこの町の出身で在る事に気付かないのは、私の風貌がとてもではないが素晴らしいものでは無かったからかもしれない。

 ひょっとしたら、気が付いてはいたが声を掛けにくい。そういう可能性も考えられたが、そんなことはどうでも良い。誰からも話しかけられないのなら、返って好都合ではある。


 一つ一つの場所を巡る度、懐かしさが込み上げてくる。

 私の心は大分弱っていたのかも知れない。

 始めて、あの頃に戻りたい、と。今はそんな風に感じていた。


 神社へと続く階段の前に立ったとき、何かしら予感らしきものを感じた。

 嗚呼。彼は此処に居るのだろう。

 不思議とその感覚には自身があった。

 ゆっくりと石段を登る。体力の落ちた体は直ぐに悲鳴を上げ、開いた口から苦しそうに吐き出される息が荒い。簡単に限界を迎えてしまう今の自分を見て、彼はもしかしたら笑うかも知れない。でも、それでも構わなかった。

 彼に会ったらどうしよう。何を話し、何を聞こう。休みを挟みながら上がる階段の上で、私はそんなことを考える。

 彼は私の生き様を笑ってくるだろうが、それを否定することはしないだろう。もしかしたら、慰めてくれるかも知れない。逆に叱咤し「元気を出せ!」と背中を蹴り飛ばされるかもしれない。それでも、私にとっては彼のくれる思いが何よりも有り難いと感じるのだろう。それだけは間違いなく確実な事である。

 やっとの思いで石段を登り切ると、しんと静まりかえった境内に冷たい風が吹いた。

「…………あ」

 賽銭箱の横。懐かしい姿が目に止まる。

「……………………くん」

 忘れていた名前を確かに口にしたのに、その音はとても濁っていて、私の耳には届かない。

「久しぶりだね」

 痛みを訴える足を引きずるようにして彼の元へと近寄ると、彼は私に気が付き驚いた表情を見せる。

「なんだ? 随分と大きくなりよって」

 次の瞬間、嬉しそうに満面の笑みを浮かべて勢いよく立ち上がった。

「久しぶりじゃのお。元気しよったか?」

 よく通る声が、楽しそうにそう告げる。

「…………うん」

「なんじゃぁ? 全然元気そうに見えんのは気のせいかぁ?」

 隠し事なんてできっこない。彼に会った瞬間、私は大粒の涙を零し情けなく泣き出してしまった。


「…………そっかぁ。大変じゃったのぉ」

 今まで有ったこと全て、時間をかけてゆっくりと吐き出していく。それを黙って聞いていた彼は、複雑そうに表情を歪めながら、そんな言葉を私にくれた。

「随分頑張ったんじゃな」

 それに対して、私は何度も頷いて見せる。

「そかそか。お前も立派な大人になって、頑張ってきたんじゃなぁ」

 彼は私の事をからかわなかった。怒る事もしない。ただ、頑張ったねとそんな言葉を掛け、優しく肩を叩いてくれる。

「みんな変わっていく。お前もそれと全く同じじゃぁ」

 その言葉に僅かに混ざるのは寂しさだろうか。涙を拭い顔をあげ彼の方へと視線を向けると、彼は寂しそうに笑いながら、私に向かって手を差し伸べていた。

「お前、今、辛いんか?」

 その言葉に、私は思わず言葉を失った。

「辛いんだったら、儂と来るか?」

 その誘いはとても蠱惑的に聞こえた。

「選ぶんはお前じゃぁ。儂はただ、誘ってやることしかできんからの」

 彼の小さなてが私の前で返事を待っている。

「行ったら、辛いの無くなるかなぁ?」

「さぁな。そりゃあ、分からんて」

 生きていて、良い事なんてどれくらいあるのだろう。辛いという思いでばかりが多すぎて、楽しかった頃の記憶は彼との時間だけしか思い出せない。

「行っても良い?」

 それは愚問だ。そう分かっては居るのに、思わず聞いてしまう。

「決めるんはお前じゃと言うたじゃろ?」

 彼は、嬉しいとも悲しいとも言えない笑みを浮かべながら、私の返事をただ、ただ、待っていた。

「…………くん。ぼくね、…………くんと一緒に遊べたときがとっても楽しかったんだ」

 ゆっくりと持ち上がる私の手。

「どの友達よりも、…………くんと一緒に居るときが一番楽しかった。多分、…………くんが一番大好きな友達なんだよね」

「ふぅん」

「だから、ずっと忘れなかった。名前は忘れちゃってたけど、君との思い出だけは絶対に忘れることが出来なかった」

「それで?」

「うん。だから…………」

 彼の小さな手と私の大きな手が重なる。

「ぼく、君と一緒に行くよ」

 この大きさの違いは、私と彼に流れる時間が異なる事を表しているのだろう。だが、そんなことは問題ではない。

「それを後悔はしないんか?」

「この世界は、ぼくにとっては辛すぎるから」

 彼の冷たい手をしっかりと握り混んだ瞬間、私は嬉しくなり笑った。

「そうか」

 私は多分、選んではいけない方の選択肢を選んだのだろう。

 だが、それを後悔することは無い。

「やっぱり、いかんかったなぁ……」

 彼は申し訳なさそうにそう言うが、繋いだ手はしっかりと握り替えされる。

「儂も一人で居ることには飽きた。でも、興味でお前と縁を作ってしまったのは失敗じゃあ」

 それでも、その手は二度と離されることは無いのだろう。

「お帰り。儂の一番の友達」

 それはむず痒くて、くすぐったくて。

「ただいま。遅くなってごめんね」

 終わらない永遠を意味する事になったとしても、きっと、それで良いはずだ。


「また、遊びの続きをしよう」


 変わらない姿の彼がそう言って笑う。


「そうだね。今日はどこに遊びに行く?」


 子供の姿に戻った私がそれに楽しそうに答えた。


「そうじゃなぁ…………」


 人気の無い境内には、時折吹く風が鳴らす木々の音。

 二人の子供の気配が消え、動かなくなった私の時は静かに終わりを告げた。

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