第68話 寿司
お寿司なんて滅多に食べる機会が無い。
幾らお手軽に食べれる店が増えたからといって、敷居の高さが低くなったかというとそうでもなく、元々一人でご飯を食べるのが苦手な私に取って寿司屋に入るというハードルはとても高かった。
だから専ら寿司を食べるときは、スーパーで販売している出来合のもの。一パック幾らのお買い得品に更に割り引きシールなん付いていると嬉しくなる。
味なんて二の次。だって、そこに拘ると店に行かないといけなくなるから。正直、それを悲しいと思う事もあるが、それでも私に取って寿司屋の暖簾を潜ることは難しいことだと感じていた。
そんな私だったが、一件だけ。お気に入りのお寿司屋さんがある。
それは、残業が続いた週末。明日は休みだと気が抜けた状態で帰路を歩いていた時に見つけた小さな店だった。
普段なら暖簾が出ていて提灯に明かりが灯っていたとしても、見て見ぬ振りをして素通りをするのに、何故かその日に限って店の明かりが気になってしまう。連日の残業続きで無くなってしまった、心の余裕。帰宅しても誰も居ない部屋に一人切りという状況も手伝って、人の温もりが恋しかったのかも知れない。
誘蛾灯に誘われる羽虫の如く、ふらふらと歩み寄る店の扉。暖簾を潜り引き戸を開けると、こんな街中なのに磯の香りが鼻孔を擽る。
「いらっしゃい」
カウンター席とテーブルが二セットの店内には客の姿は無く、店主と思われる板前が一人新聞を読んでいた。
「……あ」
余り外食に慣れていないせいか、無駄に緊張し逃げ出したくなってしまう。とは言え、店内に客の姿は一人も無い。間違えましたと店を出るには申し訳なく、おずおずと足を踏み入れカウンターに座る。
「何を握りましょうか?」
にこにこと人懐こい笑みを浮かべる店主の顔はどことなく魚に似ている。
「……オススメって、ありますか?」
「オススメですか? 分かりました」
普段、スーパーの特売品しか食べない私に取って、何を握って欲しいと言われてもピンとこない。無難にオススメといったはいいが、値段のことが気になって辺りを見回す。
「ウチはそんなに高い店じゃないですよ。心配しないで大丈夫です」
そう言って店主は壁に掛けられた値段表を指差す。彼の言う通り、品名の下に書かれた数字はリーズナブルな値段に見える。これなら、少し予算をオーバーしても全然支払うことが可能だ。
「お待たせしました」
出されたものは握りの合わせ盛り。ネタは一般的なものを選んでくれたようで、非常に食べやすくて有り難い。味も始めて入る店としては好みに合致し、とても美味しかった。
「……ふぅ」
全て腹の中に収め最後のあがりをゆっくり味わい、会計を済ませ店を出る。
「お姉さん」
引き戸を引いて店の外へと一歩足を踏み出した時にかけられた言葉。
「美味しかったのなら、また食べに来て頂戴ね」
振り返ると、魚顔の店主が人懐こい笑みを浮かべて手を振っている。
「はい。また」
その日から、このお店は私のお気に入りの場所。唯一一人でも行く事の出来るお寿司屋さんとなった。
この店に半年ほど通ったときの事だろうか。
「そうだ。あのね」
すっかり親しくなった店主が、いつものように人懐こい笑顔で私に話しかける。
「少し珍しい食材が手に入ったんだけど、食べてみる?」
お気に入りのネタを握って貰い、軽く醤油に浸してから頬張っていると、そんなことを言われ私は思わず顔を上げた。
「珍しい食材?」
それは一体どういうものなのだろう。興味をそそられオウム返しにそう答える。
「興味はあるみたいだね」
食べる、食べないは関係ないのだろうか。店主は嬉しそうに頷いてから、赤身の強い魚肉を取り出し捌き始めた。
「お姉さん、いつも来てくれるから、特別にサービスしちゃおうかな」
握られたのは二貫。ぱっと見はマグロのように見えるそれを、どうぞと差し出し感想を待つ。
「何のお寿司なんですか?」
「良いから、良いから」
取りあえずは食べてみてよ。その言葉に逆らえず箸で摘むと、恐る恐る口へと運ぶ。
「……んっ」
食感は普通のお寿司。ただ、少しだけ、独特の生臭さがあるそれは、実に奇妙な味がした。
「これ、何のお魚ですか?」
「気になる?」
「ええ」
私の反応に、店主は嬉しそうにこう答える。
「これはね、人魚だよ」
「……にん……ぎょ……?」
「そう。人魚」
もしかしたら、私はからかわれているのかも知れない。それでも、店主はこの魚肉を人魚の肉だと、そう私に告げる。
「美味しい?」
味について教えて欲しい。その言葉にはそう言う意図が含まれていた。
「……ちょっと、癖が強い……そんな気がします」
「そうかぁ」
残念。私の口に合わなかったことを申し訳なく感じたのだろうか。口直しにと甘エビの握りとあさりの味噌汁を出しながら、店主がごめんねと謝ってきた。
「こちらこそすいません。折角、ご厚意で出して頂いたのに」
「いいの、いいの。気にしないで」
その日の会計は何時も通り。甘エビと味噌汁、そして人魚の寿司の料金は伝票に無い。
「あの……」
「ああ。さっきの寿司ならお金は要らないよ」
私の言いたいことが分かるのだろう。彼は財布を開き紙幣を取り出そうとする私の手を止め、小さく首を振った。
「あれはサービス。これに懲りず、また食べに来てよ」
このお店は、こうやって私に常に優しくしてくれる。至れり尽くせりで申し訳ないと感じてしまうからこそ、それじゃあ、また。と店の暖簾を潜りたくなってしまう。
「じゃあ、また来ます」
「ああ。待ってるよ」
本当に良かったのだろうか。支払いをすることが叶わなかったサービスという名の善意に申し訳なさが積もる。
「来週、また、来ようかな」
引き戸を閉め帰路に着きながら、その日はそのまま考える事をやめた。
不思議な事に、あの日から『人魚の寿司』の味が忘れられなくなった。
始めて食べたときは独特の風味に味覚が合わないと感じたのに、日が経つにつれ、あの癖のある味が妙に恋しくなってしまう。
「ああ、いらっしゃい」
そして気が付けば、毎日店に寄って帰る日々。時間の有るときは店で食べ、無い時は持ち帰りで握って貰うのは、店長のお薦めとあの人魚の寿司である。
「気に入っちゃった?」
今日もカウンターに座って、店長が寿司を握る姿を眺めながらお茶をすする。
「始めは苦手って感じたんですけど、妙に癖になりますね。この味」
「そうでしょう? みんなそう言うんだよね」
皿の上に乗せられた真っ赤な色の寿司が二貫。箸で摘んで醤油を付けて、大事に味わうようにして口の中へと誘う。
「んーっ……美味しい!」
本当はもっと食べたいのに、材料が貴重なせいで限られた量しか用意出来ないそれは、毎日の疲れを癒す最大の贅沢。
「……そろそろかなぁ?」
「え?」
もう一貫を頬張ったところで店主はお茶を出してくれる。
「また、新しい人魚が入ると思うよ、多分」
また新しい人魚。ということは、この味がまだ楽しめると言う事だろうか。
「本当ですか?」
差し出されたお茶を受け取りながらそう聞けば、店主はにこにこと笑いながらゆっくりと頷いて見せた。
「わぁ! 嬉しい!」
口の中に残る独特の風味をお茶で洗い流しながら私は答える。
「俺も嬉しいよ」
全部食べ終わったところで、満腹感からか、珍しく欠伸が一つ。
「眠たいの?」
「……最近、ちょっと疲れ気味で」
店主には悪いがもう一度だけ。大きな欠伸をして目を擦ると、いつもお疲れ様と優しい言葉を書けて貰った。
「そろそろおいとましますね。ご馳走さまです」
会計を済ませ、鞄を持って店の外へ。
「はい。有り難うね」
出入り口の引き戸に手を掛けたところで、私の記憶はぷつりと途切れた。
次に目を覚ましたときは、強烈な痛みが全身を襲っていた。
一体何が起こっているのか分からず顔を動かそうと藻掻いても、自分の身体が自分の意思を裏切ったかのように上手く動いてくれない。
「あ。目が覚めちゃった?」
耳に馴染む聞き覚えのある声。
「ごめんねぇ。本当は、眠っている間に終わらせるつもりだったんだけど」
突然視界に現れたのは顔なじみの店主。
「ちょうど、新しい人魚が入荷したところだから、今、必要な部位を切り出してるんだよね」
彼の手には血まみれの柳刃包丁が握られていた。
「……? どういうことかって?」
上手く声を出せない私の言いたいことを汲み取ったのだろう。彼が魚のような丸くて大きな目を細めながら言葉を続ける。
「今まで、美味しい、美味しいって人魚の肉を食べてたでしょう? だからお姉さんも、人魚になっちゃったんだよね」
血まみれの包丁が視界から消える度、身体のどこかが悲鳴を上げる。
「大丈夫。死にはしないから」
痛みを感じた部分は暫くすると軽くなる。まるで、大量の肉がこそぎとられたかのように、何かが足りないと感じるのだ。
「人魚ってね、不老不死なの」
淡々と。誰に話すわけでもなく語り出した店主の言葉。
「完全に破壊しない限り、ずっと再生し続けるんだよね。だから、上手くやれば、永遠にその材料を切り出すことが出来るってわけ」
私の身体が軽くなる度、何処かから重たいものが置かれる音が響く。
「ただね、不老不死とは言っても細胞の再生には限界があってね」
相変わらず店主は作業を続けている。
「破壊される毎にその細胞は少しずつ衰えていっちゃうんだよね」
使える部分は噛んで砕ける肉の部分。骨と皮は使えない。
「老化した材料は質が落ちちゃうから、鮮度がよくても味は悪くなってしまう。だから、こうやって、定期的に入れ替えないとウチはやっていけないって訳」
皮は剥ぎ取りゴミ箱へ。骨は再生させる為の軸としてそのまま残して作業は完了。
「お姉さんが食べていた人魚ね。もうダメになっちゃったから廃棄しないといけなくてね」
だから、お姉さんに沢山食べて貰ったってわけ。
大きく見開いた目に映るのは、魚の顔をした店主の顔。大きな口を開けて、ギザギザの歯を見せてとても不快な笑みを浮かべている。
「お姉さんも魚は普通に食べるでしょう? だったら、私たちが人間を人魚に変えて食べても、何も問題はないよねぇ?」
その店は、とてもお気に入りの店だった。
人の良い店主と、美味しい寿司と。
仕事で疲れた時に立ち寄り、ほんの小さな幸せを与えてくれる、私の癒しの空間。
でも、今はそうは思わない。
人魚の肉を食らう者は、人魚として魚に食われる。
そう理解した私は今、一体どんな姿をしているのだろう。
それを知るのが怖く、私は強く瞼を塞ぎ意識を閉ざしたのだった。
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