第59話 泥水
大きな、大きな、水溜まり。
雨上がりの透き通った青を水面に映し、キラキラと光りとても綺麗。
風が無く波紋を広げるものもないため、まるで鏡のように頭上に広がる光景を切り取って映している。
それをしゃがみ込んで見ているのは、子供の頃の私だ。
真っ黄色の雨合羽と真っ赤な雨靴。手にはお気に入りのキャラクターがプリントされたピンク色の傘を握っている。先程までの土砂降りが嘘のような晴れ間だと言うのにその格好をやめないのは、止んでしまった雨が名残惜しいから。卸たての新品を漸く楽しめる絶好のチャンスだったというのに、雨音の音色なんて午前中一杯で終わってしまったのが悔しくて仕方が無かった。
でも、子供なんて実に単純なもので。
覗き込んだ水溜まりの中に綺麗な青空が在る事に気が付いた瞬間、そんな不満など跡形も無く消えてしまったのだ。
「…………きれい……」
いつもは頭上にあって、手を伸ばしても絶対に届かない空が、今は自分の足下にある。それがただの虚像を切り取ったものだと分かっては居るはずなのに、下に見える空がとても新鮮で楽しい。暫く、その空をじーっと見ていると、切り取られた空の中で翼を広げた鳥が横切っていくのが見えた。
「わぁ!」
鳥だけじゃない。少しずつ流れていく真っ白な雲が、水溜まりの中をゆっくりと移動している。雲が通り過ぎると眩しく輝く太陽が一つ。水鏡に反射してとても眩しく、思わず目を細め手で顔を庇う。
ただの水溜まりなのに、普段こういう風に楽しむ事をしないせいか、ただそれを見ているだけで時間がどんどん過ぎていく。普段見上げる時間が少ない空にも、小さな変化が沢山在るんだという事に気がつけたことが素直に嬉しいと感じた。
どのくらいの時間、こうやって足下の空を眺めていたのだろうか。
「あ」
盛大に鳴り響く腹の音に、思わず顔が真っ赤に染まる。別に誰に聴かれている訳でも無いのだが、それでも思った以上に大きな音を耳にすると恥ずかしくて仕方ない。
「お腹空いた!」
勢いよく立ち上がり、帰宅するべく水溜まりに背を向けて歩き出す。
「…………」
でも、一瞬だけ。足を止めて振り返ってしまった。
別に、何かを期待したわけでは無いのに、少しだけ放れてしまった水鏡のような水溜まりに、後ろ髪を引かれその場を離れがたい。それは何故かと必死に考えて、漸くそう言うことかと気付き手を叩く。
「お家に帰って手を洗うからいいよね?」
もう一度水溜まりの淵へと戻りしゃがみ込むと、透き通った青に向かって伸ばす小さな手。
そう。私は触ってみたかった。
いつもなら、手を伸ばしても絶対に触る事の出来ない高い空を、こんなにも近くに感じられるのならと水溜まりを手でなぞる。
ゆらりゆらりと緩く描かれる波紋。綺麗だった青は歪な形に歪み、底に隠れていた濁りがゆっくりと混ざって汚れていく。少しずつ少しずつ変化していく泥水は、先程までの清涼感はどこへやら。どろりと粘りを伴いながら、私の小さな手に纏わり付いてくるのだ。
「っっ!」
それが余りにも気持ち悪くて慌てて手を引っ込めた瞬間だった。
「きゃああっっっ!!」
突然現れた泥だらけの手に、勢いよく水溜まりの中へと引っ張り込まれた。
決して深いわけではないはずなのに、泥の手が私のことをがっしり掴み水の中へと引きずり込もうと動くせいで、口の中に独特の臭みが広がっていく。
必死に藻掻いて抵抗しても、汚れた手は私のことを離してくれない。後頭部をつかまれ泥水の中に顔を押しつけられ、苦しさが強くなっていく。
大きく手足を振り上げ体の向きを変えながら、必死に確保する気道。顔の半分が泥水に浸かっている状態で吸い込んだ息は、汚れた泥水を伴いながら肺へと流れ込んでくる。
「ぎゃああああああっっっ!!」
力の限り必死に叫び声を上げられたお陰だろうか。
「大丈夫か!?」
私の異変に気付いた大人が慌てて駆け寄ってきてくれた。水溜まりの中で溺れる私を抱き上げ、意識があるか、怪我はしていないかなど聞いてくれる。
「…………っく…………ぅ…………」
助けて貰えた。そのことに安心出来たからだろう。緊張の糸がプツリと切れてしまった私は、助けてくれた男性にしがみつくと大声を上げて泣き出してしまった。
その後はその男性が家に連絡してくれ、無事に帰宅することが出来た。
私の無事を喜びながらも、何でそんなことをしたんだと強く私を叱りつける。私自身、一体何が起こったのか分からないため、必死に言葉を紡ごうとするが言葉がしゃくり上手く出てこない。
結局の所、誤って水溜まりに向かって転んでしまった私のミスだという事で片付いたのだが、それについて文句を言う気力も無かった。
あの時の記憶は、随分と色褪せてしまっている。
アレが本当にあったことなのかすら、実はもう曖昧だ。
ただ、それは映像の中の話。
私はあの奇妙で気持ちが悪い体験が、本当の事だったという事を知っている。
あの時に私に向かって伸びてきた泥の腕と、腕に引き込まれた泥水の気持ち悪さは未だに忘れられない。
何より、私の中にはまだ、あの、忌まわしい泥が残っている。
あの日以来、私の中から臭い泥の臭いが消えて無くならない。
気のせいだと家族や友人は言うのだが、こんなにもハッキリと付きまとう不快な臭いは気のせいなんかじゃない。
どうやったらこの臭いが取れるのか、ずっと悩み続けているのだが、その答えは未だに見つけることが出来ないまま。
蛇口を捻ると勢いよく流れ落ちる水道水。
ゴポリ。という不快な音を立てて零れ落ちた泥からは、あの時と同じ不愉快な臭いがした。
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