第60話 傷
私の体には、大きな傷がある。
それは、過去に受けた大きな手術の時に残ったもので、どんなに頑張っても消せるようなものではない。
その傷は、見て直ぐに分かるほど大きなもので、天気や気温によって痛みを伴うこともある。
私は、その傷がとても嫌いだった。
それもそのはずで、綺麗な肌の方が良いと思うのは女性なら誰でも同じだろう。
服を着れば隠れるから良いだろうだなんて、その傷を持たない者だから言える事。どんなにそれを隠したとしても、この醜くて大きな傷が私の体から消えて無くなることが無い以上、自分の体を好きになるということはあり得ない。裸になり、鏡の前に立つ度に零れる溜息。仕方ないと分かっていたとしても、それを受け入れる事が私には難しかった。
その傷は幼い頃からずっと私の体にあるし、手術の跡だという事は分かっていたのだが、どういう状況になったからそんな大手術を経験したのかは分からない。
ある日突然病院のベッドの上に居て、沢山の管に繋がれた状態で目が覚めた。
それが、私の覚えて居る一番古い記憶だった。
両親は、大きな傷のある私のことをとても大切にしてくれている。傷の負担にならないように激しい運動や長時間の作業などは要求されたことはないし、少しでも調子が悪くなるようならば、直ぐに病院へと連れて行ってくれる程。
『過保護』。
と言えばその通りなのかも知れないが、こんなに大きな傷が体にあるのだから、それも仕方が無い話なのだろう。
何かにつけて体調はどうだ? 気分は悪くないか? と繰り返される言葉は、もう耳にたこができるほど聞き飽きた。
それでも、その言葉は私の事を心配してるからこそ出てくる親の優しさだと分かっても居る。だから、若干うんざりしながらも、毎日のように今日の体調を彼らに報告して安堵して貰う。
これは今に至るまでずっと続いている日課のようなものだった。
今日は朝から雨が続いている。そのせいか、傷が疼くような痛みを訴えている。
こういう時は、苛々が収まらない。感情の制御を上手く行いたいと思うのに、どうしても傷の疼きに意識が向いてしまうため、注意力が散漫になってしまう。
「大丈夫?」
なんて言葉。普段は適当に笑って流せるのに、こう言う日は駄目。どうしても癇にさわってつい怒鳴り声を上げてしまった。
「煩いわね! 放っといてよ!!」
言った後で後悔するなんて初めから分かりきっていること。それでも、吐き出してしまった暴言は、無かったことにすることが出来ない。
「あ……ごめん……なさい……」
慌てて謝罪の言葉を述べるが、相手の見せた申し訳なさそうな表情に罪悪感が積もる。
「傷が、疼くから……」
そう言って顔を背けると、「大丈夫よ」と優しく母親に抱きしめられた。
「大丈夫。分かっているわ。だから、そんなに落ち込まないで」
ああ。自分はなんて面倒臭い人間なのだろう。
自身の体がこんな感じでなければ、今頃元気な人達と同じように、外を走り回ったり色んな事に挑戦したりと出来たはずなのに。
自分の体に刻まれた大きな枷が、私の自由を奪い私自身を束縛する。
「ごめんなさいね。こんなに大きな傷を消してあげられなくて」
あの頃の技術ではこの傷を消すことは不可能だったんだと、以前主治医に言われたことがある。
「こんなに可愛いのに、一生消えることの無い傷を残すことになってしまったのは、本当に申し訳無かったわ」
そんな事を言われたって、命に関わるような大きな手術だったと説明されたら「分かった」と素直に受け止めるしかないのはとても狡い。
結局、私を生かすために下した決断なのだから、それを怨むと言うことは恩を仇で返すようなもの。だからこそ、このやり場の無い怒りをどう消化して良いのか分からず、気が重かった。
「ところで」
母親の優しい手で背中をゆっくり撫でられている時だった。
「その傷の疼きは、具体的にどんな感じなの?」
「え?」
突然聞かれた質問に、私は驚いて顔を上げる。
「体が大きく成長したから、痛みに変化があったりしたら大変じゃない」
そう言うことを言われたことは今まで一度も無い。だからこそ、この問いに強い違和感を覚え笑顔が引き攣ってしまう。
「べ……別に、いつもと同じ感じよ」
何故かこの問いに、素直に答えてはいけないと。本能的にそう思った。
「……そう」
母親は、相変わらず優しく私の背を撫でながら小さな声でそう呟く。それがとても残念そうに聞こえてしまったのは気のせいだろうか。
「…………おかしいわね。そろそろだと思ったんだけれど」
いつもとは異なる声のトーン。その声に怖気が走り、反射的に彼女を力一杯突き放す。
「予定ではそろそろそう言う時期が来てもいいはずなのにねぇ」
突き飛ばされて尻餅をついた母親がゆっくりと立ち上がると、服に付いた汚れを払うように手を動かしながらカレンダーを見て呟く。
「傷の疼きの感覚が狭まっているし、いい加減頃合いだと思ったのだけど、未だ早いのかしら?」
先程から彼女は何を言っているのだろう? 訳の分からないことを言われ混乱する頭で必死に考える言葉の意味。
「お母さ……ん…………なにいって…………」
「あら? 私、貴方の母親なんかじゃ無いわよ」
「え?」
私は、今、何を言われたのだろう……。
母親の言った言葉をオウムの様に繰り返しながら震え出す。
「貴方はよく育ってくれたわ」
先程までの雰囲気から一変、今まで母親だと思っていたその人が、冷たい声でこう、言葉を続けた。
「此処まで育てるのに苦労したけれど、その努力ももう少ししたら報われるのね。実に楽しみだわ」
ケラケラケラ。今まで聞いたことのないような笑い方で、母親が笑う。
「言っている意味が……わからない……よ……」
何が起こっているのだろう。まだ理解が追いつかない。必死に状況を把握しようと言葉を選んでいると、母親は冷たい言葉でこう付け加えたのだった。
「貴方の傷は、必要だからあるの。その傷の疼きが変わった時、私たちは本当に欲しいものを手に入れることが出来るのだから」
ドクン。
今までとは異なる大きな鼓動。何かが内側から強く傷口を叩いているような気がして脂汗が滲む。
「嘘だよね……おかあ……さん……」
歯の根が合わずガチガチと音を立てながらやっとの思いで絞り出した声は、まるで、踏みつぶされたカエルの悲鳴のように酷く濁り聞き取りにくい。
「嘘じゃないわよ。だって貴方、ただの苗床だもの」
「なえ……どこ……」
そう呟いた瞬間、私の着ていた衣服が真っ赤に染まった。
「あっ……あ…………あ…………あっ…………」
痛い! 痛い! 痛い! 痛い!!
頭では痛覚をきちんと認識しているのに、それに対しての叫び越えを上げる事が出来ない。
目の前に現れたのは、真っ赤に染まった一本の腕。それが何かを探るように左右に動く度、傷口から鋭く、そして鈍い痛みが起こる。
ぐらりと傾く世界と、背中に伝わる強い衝撃。大きく開けた口からは、大量の赤が吐き出され、気道を塞ぎ、苦しみをより強く大きくしていく。
「やっと、生まれたのね」
目の前には無表情に私を見下ろす母親の姿。それは、恍惚とし、嬉しそうに弧を描きながら満足そうに両手を合わせて見せる。
「初めまして。私の赤ちゃん」
次の瞬間、私の身体は縦に裂けた。
大きな産声を上げ誕生したのは、禍々しく黒い生命。それは、母親だった女の腕に抱かれ、必死に生きる事を頑張っている。
代わりに失われたのは私の命。
まるでゴミのようにうち捨てられた、私という抜け殻から、少しずつ私が消えていく。
私は一体、何のために生きていたのだろうか。
その問いに答えてくれる者は、誰も居ない。
何故なら、もう、母親だったものは、「私」に一切興味を示してくれなくなったから、だった。
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