第57話 束縛

 ニコニコと笑うその人の事が怖いと感じるのは、本能的にそれが危険だと察知しているからだろう。


 幸せと不幸せは常に表裏一体だと、私は常々そう思う。

 そして今、それを嫌と言うほど痛感させられてしまっていた。


 私が今の人生を幸せだと感じていたのは、運命の人と出会ったからだ。

 一目惚れと言えば分かりやすいだろうか。出会った瞬間から、「この人だ!」と直感的に分かるほど、その出会いは衝撃的だった。

 実際、付き合ってみれば相手の良い所、苦手なところ、全て含めて受け止めてしまいたいと思えるほど相性が良くて、「もう、この人しかいない!」と盲目的に好きになるまでそれほど時間はかからなかった。

 運命の相手と出会えた事で、この先の未来は輝かしいものへと変わっていく。それは確かに得られた実感だったはずだ。

 二人の関係を確実なものにしようと決めたのは、それから数年後のことである。

 女性ならば誰しも憧れるプロポーズという、人生最大のイベント。いつ「結婚してください」という言葉を聞かせて貰えるのか、随分と前から心待ちにしていたため、明らかにそう言う雰囲気だろうと分かる空気に、どうしても心が躍ってしまう。

 それでも態度はあくまでも冷静に。相手が必死に隠しているサプライズには、全く気が付いて居ませんとポーカーフェイスを装い、たった一言の貰いたい言葉を待ちながら、テーブルの上に並べられた豪華なディナーを口元へと運ぶ。

 普段、滅多に口にすることのない味付けは、本来ならば舌鼓を打つほど美味しいのだろう。しかし、この時は今から訪れるであろうサプライズに意識が向いており、食した料理の味なんて頭に入ってこない。上品な味わいのあるワインも、舌の上で溶ける肉も、「美味しい」という一言以外感想が出てこなかった。

 店内に流れる音楽は優雅なクラシック。全面ガラス張りの展望デッキから眺める地上の星が、キラキラと美しい輝きを放っている。でも、その雰囲気すら今はどうでも良い。早く、早くと焦る気持ちが、アルコールのせいで紅潮した頬を更に赤く染めていく。

「結婚して欲しい」

 その言葉を漸く貰えたとき、私は感極まって泣いてしまった。

 直ぐに「はい」と答えたかったのに、嬉しさが溢れすぎて上手く言葉が出てこない。だから代わりに、何度も何度も頷く事でその言葉に対しての返答を返す。プロポーズが成功したことを理解した相手が嬉しそうに笑う。これが、人生最高だと感じたの瞬間の一つだ。

 そこから先は、めまぐるしく時が過ぎていったように思う。あっという間に過ぎていく日付に焦りを感じながらも、刻一刻と迫るゴールという終着点に到達するのが楽しくて仕方ない。何度も何度も打ち合わせを繰り返し、プロポーズの時に感じた幸福感を遥かに超えるような幸せの瞬間を作るべく奔走した日々。こうやって行われた結婚式という最大のイベントは、参加者から盛大な祝福をもらい大成功を収めた。

 その時の時間はたった一枚の薄いディスクではあるが、記録された媒体に大事に切り取られ残っている。

 結婚生活は決して楽しいことばかりではない。

 それは初めから分かっては居たことだが、やはり他人同士が同じ空間で生活を共にする以上、どうしても衝突というものは起こってしまう。

 それでも喧嘩が長引かないのは、互いに相手を思いやる心というものがあったからだろう。

 順風満帆で全て上手くいく。あの頃は、確かにそう思っていた。


 何かが壊れ始めたのは多分、子供が生まれた頃からだろうか。

 子供が成長するにつれ、私や子供が他者と交流を持つことをとても嫌がるようになった気がする。夫がとても家庭を大切に思ってくれる人だとは分かっていたが、些か度を超していると感じる事も多くなった。

 それでもまだ、子供に関しては学校というものがある以上、どうしても他者と関わる時間を必要としているのが分かるのか、ある程度の限度は弁えて居るらしい。

 問題は、私に対しての対応である。

 初めは仕事を辞めて家庭に入って欲しいと言われた。

 確かに、その頃は子育ての方に比重が重く、外に働きながら子供の面倒を見ることに心の余裕が持てなかったため二つ返事で受け入れた。しかし、子供が育ってくると、私にも自由に使える時間というものが出来るようになってくる。生活自体は夫が頑張ってくれるため苦しいと感じている訳では無いのだが、今後何かと出費が増える事を考えると、呑気に家で家庭のことをしていても良いのかと疑問を抱いてしまう。

 そんな不安から、「私も外で働こうか?」と提案してみたところ、予想外にも怒鳴られてしまった。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 確かに喧嘩をすることはあっても、基本的に夫は温厚な性格。このような形相で頭ごなしに怒鳴りつけられたことがなかったため、私は恐怖の余り震えることしか出来なかった。

 そのことが切っ掛けとなってしまったのだろうか。その時以来、夫の家庭への執着がより強いものへと変わってきている気がする。

 子供に関しては、学校や塾以外の外出は基本的に駄目だとし、私に至っては働きに出るのはおろか、買い物に行くことすら許されない始末。それでも、生活していく上ではそれはでは都合が悪いと反論したせいか、いつの間にか家中の鍵が全て付け替えられてしまっていた。

 新しい鍵は複雑で、閉めることは簡単なのに、開くことは夫が居なければ出来ない。マスターキーなんてものは当然渡されて居らず、私が家から出ることは殆ど不可能な状況になってしまったのだ。

 外出する時は必ず家族が揃った状態。向かう場所は夫の指定した所と必要最小限の買い物だけ。それ以外はずっと家の中。まるで、巨大な檻に閉じ込められたようで、息苦しくて仕方が無い。


 どうにかして、この生活を変えなければ。


 そんな危機感が日増しに強くなる。

 それを察知しているのか、夫の束縛は更に強くなる一方。

 もう、自由がない。

 そう感じて、涙が溢れた。


 確かに、愛していたと思う。

 この人と共に歩む人生は、輝かしく美しい幸福感で包まれたものになるのだと、信じて疑わなかった。

 でも、もう、そんなことは微塵も感じられない。

 私に与えられたのは、薄暗い大きな箱。自分の意思ではカーテンを開き、外の光を浴びることすら難しい。

 子供も少しずつ何処かが歪んできているような気がする。最近では、一日中部屋の中に閉じこもったままで、閉ざされた扉の向こう側から出てくることすら無くなってしまった。

 このままではいけない。

 それは分かっているのに、今はもう、そのことを考えるのすら億劫だ。


 カチャリ。


 ああ。今日も、玄関の扉が開いた。

 もう少しすれば聞こえてくる「ただいま」。

 それを嫌だと感じる一方で、嬉しいと感じてしまう自分も居る。


 この人によって生かされている。

 だから、私を、見捨てないでください。


 そう言って、床の上で額を擦りつけながら縋る私を見て、貴方は嬉しそうに笑ったのだった。

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