第56話 自由
この世界は酷く息苦しい。
まるで、重たい鎖に繋がれ、泥の中を這いずっているようで。
そこから必死に逃れようと藻掻くのに、伸ばした手を掴んでくれる救世主は未だ現れる気配がなかった。
ゆっくりと瞼を開くと、ぼんやりとした視界の中で揺れる照明の小さな光。二重になった輪っか状の蛍光灯の真ん中で垂れ下がる紐が、ゆらゆらと揺れている。
開けっぱなしの窓から時々吹き込む風は思ったよりも強く、薄手のレースのカーテンを勢いよく捲り上げては下ろすを、ひたすらに繰り返している。
何処からか聞こえてくるテレビの音に無意識に耳を傾けつつ吐いた溜息。数日前より降り続いていた雨は昨日で終わりだったのだが、そのせいで増えた湿度に寝苦しさを感じてしまう。いつの間にか肌に纏わり付く衣服は、寝ている間にかいた汗をたっぷり吸い込んだものだろう。それが余計に不快指数を上げ、気が滅入った。
体が怠い。
昨夜、勢いに任せて開けたアルコールは、床に転がる缶の数だけ体に残ったまま。日頃のストレスと疲労も相まって、まだ完全に抜けきっていないらしい。頭痛が酷い。最悪なコンディションの目覚めで憂鬱になる。
「…………今日が休みで…………良かった…………」
腕を持ち上げ額に貼り付いた髪を払う。自分の体なのに反応が鈍い事に感じる苛立ち。脳から送られるシグナルが末端神経に届く時にエラーが起きているのかもしれない。それは自重することが出来なかった大量のアルコールのせいなのか、元々体が上げていた悲鳴から来るものなのか、残念ながら判断がつかない。
起き上がらなければ。
そう意識は働くのに、自分という器がそれを拒否し全身の力が抜けていく。そんなこと有はしないと理解しているのに、瞼を伏せると見えてくるイメージの世界。畳の目から無数の小さな手が生え、一つずつ体に纏わり付き絡み合っていく。やがて全身が真っ黒な手に囚われてしまえば、金縛りにあったかのようにピクリとも動かなくなってしまった。
それはまるで、川底に留まるヘドロのように、不快で汚らわしくて仕方が無い。
再び手放してしまいそうな意識を辛うじて引き留めながら、もう一度だけ大きな溜息を吐いた。
瞼を伏せると直ぐに寄り添う闇。日が昇ってきたせいか、それは少しだけ赤みがかった不思議な黒だ。別に、この暗さが好みというわけでは無いが、くっついてしまった瞼は別れようとせず目覚めを拒む。
このまま微睡みに沈んでしまいたい。そんな願望から、意識を手放しかけたところで何度か我に返り瞼をこじ開けた。
一瞬だけ、頭を過ぎったものは、前日までの終わらない業務内容。もう、これ以上作業をしたくないと心が訴えるのに、積み重なったタスクと締め切りと言うなのノルマが差し迫っていて逃げることが出来ない。何とか無理矢理終わらせた仕事は、週明けにフィードバックが戻ってくる予定で、その結果を受け取るのがとても怖い。その事実から目を背けるために意識を手放したいのに、不安から見える悪夢がちらつき眠るのが怖いのだ。情緒が不安定と言われたら、多分、その通りなのだろう。
以前はこんな風に感じる事は無かった。
充実している毎日を送っていた。それは確かである。
いつからこんな風に不安に囚われるようになってしまったのかは忘れてしまったが、ここ最近はずっと調子が悪い。どれだけ空が晴れていようが、常にどんよりとした重たい空気が部屋中に漂っている。
こんなにも自分は弱い人間だったのだろうか。
ふと、そんなことを思い、思わず笑ってしまった。
いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
外から吹き込む風は随分と冷たく、汗により濡れてしまった全身から体温を奪い寒さを覚える。
死んだように意識を失っていたせいか、意識の覚醒までに少し時間を要してしまった。
目の前に広がる天井は、相変わらず照明の中でオレンジ色に輝く小さな明かりだけ。カーテンが揺れる度、垂れ下がる紐がゆらゆらと揺れている。
手が届くはずのないその紐に向かって無意識に手を伸ばし掴もうと動かすのに、それに触れる感覚が感じられずに落ち込んでしまう。
何をやっているのだろう……。
何故か、とても虚しくなってしまった。
いい加減に起きようと怠い体を持ち上げると、鼻の違和感に気付き大きなくしゃみが一つ。身を庇うようにして回した手の平には、冷え切って凍えている腕の感触しか伝わらない。
「……随分、柔らかくなっちまったんだなぁ……」
以前は体を鍛える時間が合った。綺麗にボディメイクをしているような人に比べれば全然足りないのだろうが、それでもある程度は整っている筋肉があることは自慢だった。それなのに今はどうだろう。随分と柔らかくなってしまった二の腕のせいで、日頃の運動不足を嫌と言うほど痛感してしまう。考えてみれば、体型も随分変わってしまった。痩せていた筈の体格はいつの間にかふくよかになり、堅くて弾力のある筋肉は、ぶよぶよの脂肪の方が比率が多い。
「…………はぁ……」
また、ジムに通いたいなぁ……。そんな風に思い顔を上げたときだった。
「チチチチ」
小さな鳥の囀りが聞こえたような気がして、開けっぱなしだった窓の外へと視線を向ける。
「…………鳥?」
ふわりと舞い上がったカーテンの向こう側。手すりに泊まる一羽の黄色い小鳥に驚き目を見開いた。
「……誰かのペットか?」
夕闇に染まる空の中に決して溶け込むことのない華やかなレモンイエローをしたその鳥は、部屋の中でだらしなく項垂れているこちらを見て小さく首を傾げて見せた。
「こう言うのって、どうすりゃ良いんだろうなぁ」
どう行動するのが正解なのかは分からない。それでも、何故か「保護しなければ」と思い、無意識に体が動く。驚かせないように慎重に窓へと近寄ると、舌を動かし鳥の声色を真似しながらゆっくりと腕を伸ばす。
「おいで」
後数センチ。小鳥が足を伸ばせば直ぐに捕まえられる距離。そこで手を止めこっちへおいでと誘えば、小さな可愛らしい相手は、真っ黒でつぶらな目でこちらを見た後翼を大きく広げ羽ばたいて行ってしまった。
「あ」
体はどこまでも小さいのに、広げた翼が風を捉えれば、何処までも自由に空へと羽ばたいていける。
それを追い縋るように腕を伸ばしてみても、するりと抜けだし消えてしまった。
手の中には何もない。どこまでも空っぽで、温もりさえ与えて貰えないまま。
「…………それが、酷く、羨ましい……」
もう少しで今日が終わる。この陰鬱な夜が明ければ、再び泥のような現実が戻ってくるのだろう。
未だそこから逃れる術は見つからぬまま。
このヘドロだらけの現実から、自由になりたいと伸ばした手を掴んでくれる救世主が現れる気配は、未だ感じられぬままである。
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