第52話 風
風とは、目に見えるものでは無い。
しかし、確かにその存在を感じることはある。
そう、それはまるで、妖精の戯れのように。
時には柔らかに頬を撫でるように、時には激しく叩きつけるように。様々な表情を見せてくれる、目には見え無い存在は、常に直ぐ傍にある。それだけははっきりと分かった。
ただ、そんな風の中でも、唯一感じたくないと思うものもある。
それは、嫌な生暖かさを持つ風だ。
その風を感じるときは、決まって嫌なことが起こる。
始めは幼稚園の時。野外で、先生の合図と同時にみんなで楽しく遊んでいた時。その風を感じた瞬間、目の前が真っ白に染まった。
後で聞いたところに寄ると、足元にあった段差に躓き、思い切り転倒したらしい。
気が付いたら心配そうに覗き込む母親の顔。真っ白な部屋の中で何度も、何度も泣いて繰り返される言葉に申し訳なさを感じたものだ。
次にその風を感じたのは、病院の中だ。祖父が危篤という知らせを受け、家族で急いで駆けつけた病室。陰鬱な雰囲気の中、一定の速度で聞こえる電子音が耳に響く。呼吸を強制的に繰り返すためにつけられたマスクから聞こえる空気音。元々それほど体躯が大きかった訳では無いが、それでも私から見て随分と大きく見えた祖父の姿は、病室のベットの上で見る影もなく小さくなってしまっている。すっかりと痩せてしまった腕は骨と皮だけ。痛々しそうに残る青い痣の下に、命を繋ぐために投与している透明な液体を入れたパックから伸びる管と、それを繋ぐ太い針が隠されている。
もう、何を言っても答えないそれは、生きているのか死んでいるのか分からない状態で。それでも、小さな電子音が辛うじて、心臓が動いていることだけを伝えていた。
その日の夜だ。嫌な風を感じたのは。
気持ち悪いという覚えだけは確かにあるが、幼稚園の頃のように痛みが有ったわけではなかったため、その時は特に何も考えなかった。翌日になって、祖父が帰らぬ人となった事が分かった瞬間、あの風が祖父を連れて行ったのだと分かり、悲しくて泣いてしまったのだった。
それ以降、そんな気持ちの悪い風を感じる時は、決まって嫌なことが起こる。
それは、大きな事から小さなことまで様々ではあったが、その結果は必ず、誰かにとって悪い方向へと向かうのだから、やはり酔い予兆というわけではないのだろう。
ただ、不思議な事に、私自身がその風によって傷つけられたのは、幼稚園の頃の一回きり。それ以外は、私以外の誰かに起こる不幸で感じるのみで、私自身が不幸になるということはなかった。
今日はまた、嫌な雲が空を覆い隠している。午前中の快晴はどこへやら。午後から広がり始めた灰色は、時と共にその厚みを増し、気が付けば真っ黒に近い所まで淀んでしまっていた。
幸いにも、まだ雨が地上に降り注ぐ気配は無い。急ぎ帰宅すれば、運が良ければずぶ濡れを回避出来そうな……そんな感じである。
一か八かの賭をするか、諦めて傘を買うかを悩んだ結果、私は賭に出る事にした。
家までの距離はそこまで長くない。息は切れるだろうが、全速力で駆け抜ければ、もしかしたら間に合うかも知れない。
最近しなくなった運動のせいか、身体は悲鳴を上げているが気にしている余裕はない。人にぶつからないように気をつけながら、私はひたすらに足を動かす。
三叉路の手前まで差し掛かったときだ。
例の嫌な風を感じたのは。
思わず足を止め周りを見てしまったのは、何かしらの予感があったからなのかも知れない。
上がる息を押さえながら、早鐘のように鳴り響く動悸に煩わしさを感じ零す舌打ち。流れる汗を袖で拭った瞬間、背後から突然肩を叩かれた。
「きゃあっっ!!」
咄嗟に腕を上げその手を払う。振り向き様目にしたのは知らない男の驚いた表情。何が起こっているのか分からない私は、思わず叫び出しそうになってしまった。
「あの! 落としましたよ!!」
それを察知したのだろうか。男が慌てて声を上げる。
「……え?」
「これです!」
男の手には私のスマフォ。
「あ……」
普段は上着のポケットに入れないそれが、今日に限って上着のポケットの中にあったせいか、走った拍子に中から滑り落ちてしまったらしい。どうやら、この男は親切からこれを拾ってくれたのだと言う事が分かり、気まずい雰囲気が流れる。
「ありがとう、ございます」
差し出されたスマフォを受け取り礼を言った瞬間、強い力で腕を掴まれ痛みが走った。
「なにすっっ」
「言葉なんて要らないです」
先程までの人の良さそうな雰囲気は何処へやら。目の前に居たのは、明らかに何らかの意思を持って差し迫る男の雰囲気。
「そんなことよりも、ほら。ねぇ? あるでしょう?」
人の弱みにつけ込んで脅すように詰められた距離に吐き気が込み上げてくる。要求されているのは金なのか、それとも別のものなのか。皆目検討もつかないことがまた不気味だ。
「し、知りません!!」
大きく腕を振って振り切ろうと藻掻くが、性別の違いとはこういう時に無常だと感じてしまう。どうしても力の腕は相手の方が上手なせいで、どう頑張っても振りほどけなくて恐怖を感じる。
どうしてこうなってしまったのだろう。
そんな疑問ばかりが頭を過ぎる。
誰か、助けて!!
そう叫ぼうとした瞬間、突然、あの嫌な風を感じたのだった。
「うわぁあああああああああああああああっっっっっっっ!!」
次の瞬間、目の前に居た男の叫び声が上がる。強く掴まれていた腕から指の力が抜けた瞬間、大きく腕を振り上げもう片方の手で男の胸を勢いよく突き逃げ出した。
何が起こっているのかさっぱり分からないが、背後からは男の叫び声がまだ聞こえてくる。その声はそのうち、悲痛な物へと変化し、最後は絶叫に変わり突然途切れた。
「…………」
振り返るのが怖い。
それでも、気になるものは気になって仕方が無い。
ダメだと頭で警鐘が鳴らされるのに、それに逆らい身体は動く。
ゆっくりと、ゆっくりと。
そうやって、視界に映ったそれに、私は思わず言葉を失ってしまった。
それは多分、良くないものなのだろう。
だが、それは、ずっと私の傍に寄り添っていたものだったようだ。
顔のない黒いナニカが嬉しそうに笑う。
実際は、その表情など確認出来ないはずなのに、何故か、そう感じる事が出来る。
「……あ……」
私が声を出そうと口を開いた瞬間、それは霞のように空気に溶け消えてしまった。
残されたのは、気を失った血だらけの男が一人。
もう暫くすると、大雨が降り出すに違いない。
まとわりつく湿気を振り払うようにして、私は急ぎ帰路を走り出していた。
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