第26話 クリップ
「私、クリップが怖いんです」
作業中、突然後輩にこんな事を言われ、思わず手を止めてしまった。
「……えっ……と……」
こういう時はどんな反応をするのが正解なのだろうか。今までクリップが怖いという人に出会ったことがないため、とても返答にこまってしまう。
「ごめんなさい。おかしいですよね」
自分の言った言葉が相手から理解されないのは分かっている。そう言いたげに後輩が浮かべた寂しそうな笑み。
「おかしい……というか、ちょっと驚いたって感じかな」
正直に言えば、後輩の言葉は半分当たってはいた。
クリップが怖いといわれても、具体的にどう怖いと感じるのかが全く理解出来ない、と。内心そう感じてはいたりする。しかし、特定の物に強い恐怖感を抱く人は確かに居るのだろう。自分の常識では理解出来なくとも、その人にとっては確かにそれが『怖い』と感じてしまう。そんなことがあっても何もおかしくはない。
だからこそ、次に続く言葉が見つけられずに困ってしまう。その事について詳しく聞くべきかどうか、正直迷ってしまうのだ。
「クリップが怖いって……こういうクリップのことだよな?」
結局のところ、当たり障りのない返答をすることで逃げに走ってしまった。
「そうです。そのクリップです」
聞き手の親指と人差し指と中指。三本の指で摘んで持ち上げたのは、何の変哲もない。書類をまとめるためのクリップである。
「まぁ……怖い、って言うと、ちょっと違うのかもしれないですけどね」
細い針金を曲げただけの金属に、どんな恐怖を感じているというのだろう。こんな小さなアイテムが与える影響なんて、そんなに大きいものでもないはずなのに。
「苦手……っていうんですか? とにかく、昔からそれ、苦手で仕方無いんですよ」
後輩の指が指す先にあったものは、小さなクリップホルダー。使っていないクリップや、使用済みで片付けたいクリップをまとめておくためのスタンドだ。
「何か、気持ち悪くありません?」
「気持ち悪いって?」
「ほら。だって……」
こんなに密集して、ウジ虫みたいで。
次の瞬間、反射的に手が動いてしまっていた。
「うわぁぁっ!!」
騒がしい音を立てて倒れるクリップホルダー。ホルダーの中に行儀良く収まっていたはずのクリップ達が、机の上に散乱している。
「先輩!?」
後輩の慌てた声。
「大丈夫ですか!?」
「……はぁ……はぁ……」
大丈夫。
そう言おうとして口を開いたが、その言葉を上手く吐き出すことは出来なかった。
呼吸が荒い。滲み出る汗が頬を伝う。肩で大きく息をしてしまうほど早くなる動悸。一体何故こんな事になってしまったのだろう。
改めて机の上で散らかったクリップへと視線をやる。
それは何の変哲もない金属クリップ。ただ、紙をまとめるための細い針金にしか過ぎない。
それなのに。確かにあの時、一瞬この針金の集合体が気持ち悪い物に見えた気がした。
「……悪い。虫がいるように見えてびっくりしたんだ」
大丈夫、大丈夫。自分にそう言い聞かせるようにして、散らばったクリップに手を伸ばす。ただでさえ忙しい時期なのだ。こんな事で無駄な時間を使いたくない。そんな気持ちもどこかにあったのだろう。早く片付けて業務に戻らねば。もたつく手でクリップを一箇所に集め、倒れたホルダーを手に取るとその中に放り込んで行く単純な作業。思ったよりも散らばってしまった量が多いようで、なかなか上手く拾い上げることが出来ず、気だけが焦る。
「ごめんなさい、先輩」
後ろでは後輩が困った様な声でこう続ける。
「手伝いたいのは山々なんですが、クリップを触るの本当に苦手なんで……」
「いや。良いよ、良いよ。大丈夫だから」
一掴みしてはホルダーの中へと落としていく。小さな箱の中にどんどん姿を消していく細長い金属達。指に伝わる感触は堅く、それが動くものだとは思えないのに、どうしてこんなに気持ちが悪いと感じてしまうのだろう。
「本当にこれだけ集めてしまうと、蠢いているように見えて……もう……駄目……」
背後に居た後輩の気配が無くなる。
残されたのは、意味深な言葉と不快感。
余計な事を言わなきゃ良いのに。
そう思っても、聞いてしまったが最後。
何の変哲もないクリップが、箱の中で蠢く虫に見えて仕方が無くなってしまった。
嗚呼、気持ちが悪い。
私も、この『クリップ』が、苦手になりそうだ……。
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