第14話 財布

 古い財布は運気が下がる。

 そんな広告を、何かの雑誌で見たことがある気がする。

 正直な話、財布の善し悪しがどういうものなのかよく分かっていない。どんな財布を持っていても、お金を貯めるのが上手い人も居れば下手くそな人も居る。

 ただ、長く使っていると愛着が湧くことは確かにあった。

 ヴィンテージ物。

 と言えば聞こえは良いだろう。他人にとってはガラクタに見える古ぼけたものだとしても、使用している立場からすれば、時間をかけて熟成させたとても可愛いアイテムに替わるのだから実に面白い。

 それでも別れの時は必ず来てしまうものだ。

 どれだけ大切に扱っていたとしても、壊れてしまえば処分するしかない。それが耐えられずに何とか修復しようと試みたが、思った通り修繕できるほど手先が器用な訳でも無ければ、簡単に素材が手に入るような環境でも無かったため、結局処分するしか無くなった。

 そうやって手放してしまった財布のことを、ずっと忘れられず数年が経っている。

 新しい財布も随分手に馴染み違和感がなくなってきてはいるのに、無意識に思い出してしまうのは手放してしまったあの財布で。

 無意識のうちに比べてしまう。

 多分、一目惚れだったのだろう。その財布のことは。


 こんなにも強い思い入れがあるのは、その財布が始めて、自分で購入した物だったからというのも大きい。

 財布を購入するという事は、少しだけ勇気の要ることだ。

 今まで親が買ってきてくれた安っぽいそれとは異なり、値段がそれなりにする質の良い物をじっくり吟味して決めたそのアイテムは、使えば使うほど自分の使用しやすい形に変わっていってくれた。

 手放す事を決めたとき、収めていた小銭や紙幣を取り出し、カードを引き抜いて始めて、その形が少しだけ変わってしまっていた事に気が付いたくらい、自分好みの形に仕上がってくれていた。

 その財布は随分と長い間使用していたのだが、運気が下がったと感じた事は無く、特に大きな変化が起こったことは無い。

 新しい財布に切り替えてからもそれは変わらず、相変わらず銀行口座の中の数字は、大きく変化することなく同じくらいのゼロが並んだまま継続しているのだ。

「…………はぁ」

 それでも、やはりあの財布が恋しいと。そう感じる事は実に多い。

 まるでそれは恋人のように、自分の生活に無くてはならないと感じる程の物だったのだから、仕方ないのかも知れない。

 友人には女々しいと呆れられてしまったが、あの財布を越える品物が無い以上、いつまでもそのことを引き摺り続けるのだろう。

 今までの感謝の気持ちを込めて、白い紙に丁寧に包み、何度もありがとうと繰り返して処分したのに、あの行動を今でも後悔し続けているのだ。自分でも笑えてくる。

 いい加減忘れてしまえれば良いのに、財布を手に取り外に出る度、いつまでも付きまとう虚しい思い。

 せめてデザインが同じ物ならば、その虚しさも多少は軽くなったのかも知れないのにと、財布を開く度そんなことばかり考えている。

 いい加減、携帯端末で決済出来るデジタルウォレットに切り替えてしまえば、財布の事を思い出さなくても済むのかも知れない。

 それでも、財布を持つ事を辞められないのは、いつか再びあの財布に出会えるかも知れないという小さな期待があるせいだろう。

 あの頃よりも随分と中身が少なくなってしまった小さな財布の中には、大好きだった財布の一部を切り取った小さな皮が一枚。新品だった頃とは違う深みのある色が、小銭入れのポケット部分に申し訳程度に居座っている。

 その欠片はずっと、自分の手元にあるものだと思っていた。あの時までは。

 人生に於いて、大きな事件に遭遇することなんてそうそう無いとは思う。それでも、不運が重なれば、そう言う状況に自分が立たされる時が来るものらしい。

 すれ違いざまにぶつかってきた男は、嫌そうに舌打ちをした後、足早に立ち去っていく。嫌な気持ちを抱えながら帰宅して、始めて財布が消えてしまっていることに気が付き、頭の中が真っ白になった。

「無い!」

 確かに財布はポケットの中に在ったはずだ。それなのに、上着のポケットは右も左もカラッポ。

「何で!?」

 何故今日に限って、上着なんかに財布を入れてしまったのだろうと後悔してももう遅い。何度叩こうが手を出し入れしようが、財布はどこにも無く、姿を消してしまった。

 こういう時、どうしたら良いのか分からないと焦る気持ちと、やらなければいけないことをリストアップする冷静な気持ちが交互に顔を覗かせる。震える手で携帯を取りだし、停止しなければならない個人情報の記載されたカード類を、片っ端から問い合わせ窓口から停止して回る。

 意外と、対応出来ないでパニックに陥るということは無く、頭のどこかでそれを淡々とこなす自分を冷めた目で見ている自分自身が存在していたり。

 思い出せる限りの手続きが全て終わった頃にやってくる極度の疲労感。それと共に遅れてやってきた恐怖で胃酸が逆流しムカつきを覚える。

「…………気持ち悪い……」

 財布が無い事に対して感じる恐怖。それはその中に入っている個人情報がどう扱われるのかに付いてなのか、中身が消えてしまうんじゃ無いかという心配についてなのか分からないと頭を抱えたのだが、多分、その恐怖はは小銭入れの部分に入っていた以前の財布の欠片が無くなってしまったことに対して感じているものが大多数を占めているのだろう。

「どこに……行ったんだよ……」

 頼むから、戻ってきて欲しい。

 余り期待が持てない望みに両手を組みながら、信じたことも無い神に対して必死に祈る。

 警察には連絡をした。あともう少ししたら説明をしに出掛けることも決めている。それでも、こみ上げてくる吐き気のせいでまともに立つことも出来ない。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 アレが無くなったという事を自覚した瞬間、自分の体は自分の制御を外れて動く事を拒否してしまうのだ。それほどにまで、欠片を失うのが怖くて仕方が無い。

「早く……探しに…………行かなきゃ…………」

 動きたくないと拒否する体を無理矢理動かし玄関へと向かう。先ずは警察に向かう。そこに届いていたらスムーズに回収して終われるんだから、希望を捨てたら駄目だと自分に言い聞かせる。

 やっとの思いで玄関に辿り着き、ドアノブに手をかけたときだった。


『ゴトン』。


 鈍い音が新聞受けの中で響いたのは。

「……………………」

 その音を聞いたときに何故か感じた安堵感。でも、それを確認したら最後だという危機感も感じている。

 音の正体が何であるのかは、新聞受けを開けば直ぐ分かることだ。

「……………………」

 口の中に溜まる唾を無理矢理飲み込みながら、恐る恐る伸ばした手。いやなくらい汗ばんだ手の平が気持ち悪くて仕方が無い。痛いくらい激しく打つ鼓動が煩くて仕方が無い。それでも、その蓋を開けたいと体は動く。

 ダメだと制止をかける心と、急げと結果を急かす体と。

「……………………あ」


 それを見たとき、今まで感じていた恐怖は一瞬にして消え失せた。

「良かったぁ……」

 大事そうにそれを手に取り胸を撫で下ろす。

「無事に戻ってきたよ」

 無くしてしまったはずの財布は今、無事に手元に戻ってきている。

「あ、そうだ。カード会社に連絡しないと」

 財布に付いてきた余計な物が見える気がするけど、それはきっと気のせいだろう。

「その前に! 前の財布の革ってちゃんと入ってるんかな!?」

 微妙に滑り開けにくいファスナーを四苦八苦しながら開き、慌てて確認する財布の中身、

「はぁぁ……良かったぁ…………ちゃんとあるわ」

 小銭入れの中に入っているのは、以前使っていた財布の欠片。使い込まれて色褪せてしまっているが、元は綺麗だった動物の皮の部分。

「電話、電話」

 財布に付いていた大きなゴミは、邪魔だからゴミ箱に放り込む。何だか赤い液体が垂れて汚いから、後でちゃんと掃除しておかないといけないなと悪態を吐きながら。

「あ。もしもし。先程連絡したものですが…………」

 財布に付いた不快な滑りを丁寧に拭いながら電話を続ける。

 何はともあれ、無事に


 財布が手元に戻ってきて良かった。と、思いながら。

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