第9話 歯ブラシ

 実家を出て気に入った物件で暮らすようになってから、毎日家に居るのが楽しくて仕方無かった。

 別に、実家が嫌いというわけではないのだが、姉弟が多いせいで少し賑やか過ぎるのが気になってしまう。プライベートな空間を確保するのに多少苦労するのと、それぞれが成長するにつれ、限られたスペースがどうしても手狭になってしまう事はどうしようもないのだ。

 だから、新しい門出を境に新居を新しくするという選択肢は妥当な結果論ではあった。

 元々規則正しい生活リズムで日々を生きていたせいか、家族という枠組みから解放された身軽さのせいで生活は少しだけ、だらけモード。それでも、毎朝の目覚ましを二度止めるだけで起きられているのは、まだ完全に堕落仕切っていない証拠なのだろう。

「ふわぁぁぁ……」

 新しく買って貰ったベッドの上。実家ではずっと布団生活だったから、自分だけのベッドがあるということが素直に嬉しい。柔らかなマットレスにはまだ身体が馴染まないが、それでもこの沈み込むような柔らかさは気に入っている。

「もう少しだけ……」

 そうやって惰眠を貪ってしまうのは、今日が祝日という日だからである。

 寝坊しても誰にも迷惑がかからないのだから、こんな日くらいはだらだらするのを許して欲しいと。誰に言い訳をするでもなく、被っていた布団に潜り込み身を丸くする。

 自分に甘い贅沢な時間。それを存分に堪能したいと願っていたのに、その願いは早々に打ち砕かれてしまった。

「……んっ……誰よぉ……もう……」

 先程から聞こえてくる不快なメロディ。それは相手からの着信を告げる電子音だ。

 重たい瞼はそのままに、手だけを布団から出して指先で携帯端末を探す。人差し指に触れる冷たくて硬い感触。それを手繰り寄せ電源ボタンを押すと、パッとディスプレイが光り、思った以上に眩しくて眉間に皺が寄ってしまう。

「なに?」

 まだくっついていたいと抵抗を続ける瞼を無理矢理こじ開けると、画面には見慣れた名前と番号。

「んー……………………あっ!!」

 それが誰のものなのかを理解した瞬間、慌てて飛び起き通話ボタンを押す。

「もしもし!?」

『あー……お前、寝てただろ?』

 受話口の向こうから聞こえてくるのは、幼馴染みの呆れた声。

『直ぐに出ないからそんなことだろうと思ったぜ』

 「とりあえず、家の前にいるから開けてくれ」言われ、寝間着のまま玄関へ急ぐ。スマフォは通話を続けたまま。チェーンを外し、鍵を開けてドアを開放すると、苦笑を浮かべて溜息を吐く幼馴染みが「よぉ」と手を上げ通話を終える。

「約束忘れてないよな?」

「覚えてるよ! ごめーん!」

 同い年の幼馴染み。性別は互いに異なるが、余計な気を遣わなくて良い関係はストレスが無くてありがたい。

「お邪魔しまーす」

 家に迎え入れて早々、トイレを貸してくれという相手に、どうぞと答えて一度寝室へ。寝間着を着替え洗濯物を抱えて脱衣所に移動し、簡単に顔を洗ってキッチンへと移動する。

「中々良い部屋じゃん」

「結構頑張って探したからね」

 「何か食べる?」と冷蔵庫をチェックしながら問いかければ、何かあるならと返される返事。

「パンと昨日作ったスープの残りくらいしかないよ」

 用意する食器は二人分。スープを温めながら食パンをトースターにセット。テーブルの上にカトラリーを並べ、バターとブルーベリーのジャムを添えておく。

「飲み物、お茶でいいよね?」

「おーう。問題無いぞー」

 綺麗に畳んでおいてあったタオルを一本。勝手に拝借し使いながら幼馴染みが姿を現す。

「用意出来たよ」

「サンキュー」

 こうやって、二人きりで食卓を囲むのも何だか不思議な感じ。実家に居た頃は、私達家族の中に幼馴染みが加わる感じだったから、向かい合ってこうやってご飯を食べるのはちょっとだけむず痒い。

「…………なぁ、あのさぁ」

「ん?」

 焼き上がったトーストにバターを塗っている時だった。

「お前さ…………彼氏って、居たりすんの?」

「え?」

 その質問が予想外で、思わず間の抜けた返事を返してしまう。

「あー……いやさぁ……別に、お前が誰と付き合うとか自由なんだけどよ」

「なになに? どう言うこと?」

 あれれ? コレはひょっとして……と思わず心臓が跳ねる。自然と早くなる動悸に、いやいやそんなまさかねと、慌てて理性がストップをかける。

 今まで幼馴染みのことをそんな風に意識したことがないから、唐突な話題に顔は真っ赤になるし、頭は真っ白になるし。何なの? 朝から嫌なサプライズ、勘弁してよって思わず声に出そうになってしまう。

「彼氏がいるのかなんて、そんなのわざわざ聞く?」

「いや……まぁ、気になったから……」

 とても言いにくそうに言葉を濁し、幼馴染みは視線を避けるようにして顔を背けてしまった。

「そんなに気になるなら答えてあげましょう! 今の私はねぇ……」

 たっぷり間を置き勿体ぶりながら行う答え合わせ。

「残念ながら彼氏はいませーん!」

 あ。これ。自分で言っててチョットダケ悲しくなっちゃうやつだ。

「安心した?」

 思わず、「アンタが彼氏になってくれても良いんだよ」と茶化して言っちゃいそうになったが、そこはお口チャック。

「………………」

「何?」

 てっきり、「良かったぁ」とか「だよなぁ」とか、そんな反応が返ってくると思っていたのに、何だろう? 妙な空気になって雰囲気が重くなってしまったのは。

「ど、どうしたのよ?」

「…………あのさ……すげぇ言いにくいんだけどよ…………」

 顔を上げた幼馴染みの表情は真剣そのもの。決して私をからかおうと言葉を選んでいる訳では無い事が分かって緊張が走る。

「さっき、洗面台で見つけたんだ」

「…………な、何を?」

「歯ブラシ」

「え?」

 歯ブラシってどう言うことだろう?

 言われた言葉の意味を考えゾッとする。

「そんなわけないよ…………だって、私、歯ブラシなんて二本も使ってない」

「…………取りあえず、ここ、出よう」

 出来るだけ取り乱さないように、口を付けられなかった朝食を片付けると、必要最小限のものだけ手に取り部屋を出る。

 アパートから数メートル離れたところで自然と早くなる足。そのまま二人で全力疾走、気が付けば近所のファミレスの中に駆け込んでいた。

「ね、ねぇ! どうしたら良い!?」

 遅れてきた恐怖に全身が震えてしまう。

「取りあえず、警察に電話しよう!」

 震える指でプッシュするのは駆け慣れないダイヤル。上手く回らない舌で懸命に状況を説明し、通話を切ったところで一気に感情が押し寄せ涙が溢れてきた。

「いやだ……いやだよぉ……」


 コワイ。


 ただ、その感覚だけがつきまとう。


 たった一本の歯ブラシ。でも、私はその持ち主を知らない。


 あの部屋には、一体何が居るんだろう?


 今は、あの玄関の扉を開くのが、とても怖くて仕方が無かった。

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