第7話 ぬいぐるみ

 店頭でちょこんと座っているその姿を、羨ましいと眺めていたのはいつの頃だっただろうか。

 サイズの大きなぬいぐるみ。スタンダードなデザインの、アイボリー色の可愛らしいクマさん。つぶらな瞳がじっと、お迎えして欲しそうにこちらを見ていた。

 その嗜好品をとても欲しいと願うのだが、当然その願いが叶うことは無く、ディスプレイの向こう側で鎮座している可愛らしいクマさんは、誰かの家族になることも無くずっとそこに座り続けたままだった。

 いつしかそのクマはそこに在ることがあたりまえという認識に変わり、そのうち気に留めることも無くなってしまったのだが。

『普段見る景色の一部』。

 そんな風にそのぬいぐるみを認識するようになってから、もう随分と経ってしまっている。

 幼い頃に足を止め、物欲しそうにそれを見ていた事など嘘のように、ディスプレイの前をただ通過し足早に去る。いつかはそれが、誰かにお迎えされるのだと淡い期待を抱きながらも、視界の隅に入るその姿を捉えながら過ごす忙しい日々。

 それは変わることなく続く日常の延長線。それが私の毎日だった。

 季節が変わり、年が過ぎ、生活が大きく変化したのはここ数年の事。

 就職が決まり、人付き合いが増えた事で出会った最愛の人。出会って長いというわけではないが、何回か共に年を越し絆を深めたところで、互いの両親への挨拶を済ませる。

『結婚』。

 その二文字が身近に迫ってきたことが、純粋に嬉しく顔が緩んでしまう。

 職場の同僚や上司にからかわれながらも、それぞれがこの転機を祝福してくれるのが有り難い。恵まれている。そう実感出来ることが何よりも嬉しかった。

 そんなある日の事だ。

 その日は、朝から小雨が降っていた。

 雨の日は少しばかり気が滅入る。それでも心が上向きに変わるのは、隣を歩く恋人の存在が大きいのだろう。雑誌のモデルや芸能人のように完璧なルックスを持つというわけではないが、少しふくよかな体躯に穏和な雰囲気がとても暖かく、家庭的で。一緒に居て心地良いこの人が、一生の伴侶だと思うと心の奥からじんわりとした幸せに包まれて嬉しい。

 一本の傘を二人で使って作る相合い傘。互いの肩はしっとりと濡れてしまうが、私が濡れないようにと彼が気を使ってくれるのが有り難くて申し訳なくて。

 そうやって足早に目的地へと足を進めている時だった。

「あっ」

 不意に足を止め視線を向ける。

「どうしたの?」

 彼も同じように足を止め、不思議そうに首を傾げた。

「彼処にあったぬいぐるみ」

「ぬいぐるみ?」

「そう」

 それは、いつも歩いているメイン通り。店頭に置かれていたはずの大きなクマのぬいぐるみが、いつの間にか姿を消している。

「ここにね、ずっと置いてあったぬいぐるみが無くなってるの」

「ふぅん」

 いつかは誰かに買って貰えるんだろうと思っていたが、常にそこにあるのが当たり前になりすぎていて、気が付く事が出来なかった。

「居なくなっちゃった」

 良かったと思う反面、消えてしまった姿に寂しさを覚えてしまう。

「そのぬいぐるみ、欲しかったの?」

 彼の言葉に暫し考え、ゆっくりと首を振る。

「欲しくないといえば嘘になるけど、誰かにお迎えされて大事にしてもらえるならその方が良いとは思うから」

「ふぅん」

 良かったね。

 そう、姿を消して空っぽになったディスプレイに向かって呟くと、私は彼の方へと視線を向け微笑む。

「行こうか」

 そう言って歩き出そうと一歩踏み出した時だった。

「待っていたんだよ」

「え?」

 彼の歩く気配が無い事に気が付き、立ち止まって振り返る。

「僕はずっと、君の事を待っていたのに」

 傘で隠された彼の顔。その表情が見え無いことに不安を感じ狼狽える。

「ずっと見て居たんだ。このディスプレイの向こうから、君のことをずっと」

 それはまるで、彼がこの中に収まっていたぬいぐるみだとでも言う様に。

「迎えに来てくれるのを楽しみに待っていたんだよ?」

 まるで私があのぬいぐるみを手に入れなかったことを責めるように、彼は淡々と言葉を続けていく。

「それなのに、君は来てくれなかった。ただ、ディスプレイの前で僕が此処に居ることを確かめるように見て、足早に去っていくだけ」

 寂しかったんだよ。

 顔を上げることなく小さな声でそう呟いた彼の雰囲気は、いつもよりも暗く、そして怖い。

「だからね。迎えに行く事にしたんだ」

 ゆっくりと。傘の向こうに隠れていた彼の顔がこちらを向く。

「君が僕を迎えにきてくれないのなら、僕が君を迎えに行けば良いんだって。やっと気付いたから」

 にっこりと。とても優しい笑顔でそう言った彼の手が、私を掴もうと伸ばされる。

「君とずっと一緒に居たいって。神様にお願いしたら聞いてもらえたんだ。だから、僕はこうして君のことを迎えに来る事が出来たんだよ」

 あと数センチ。その距離で私は思わず身を引き距離を取った。

「どうして?」

「……あっ……」

 それは本能的に取った行動。頭で考えるよりも先に、身体が動いてしまう。降り続く雨により重くなる服が肌に張り付いても気にしてる余裕はない。ただ、ただ、目の前の相手が怖い、と。震える身体を庇うように抱きかかえると、少しずつ彼との距離を取るように後ずさる。

「どうして逃げるの?」

 彼の表情は変わらない。普段と同じ優しそうな笑顔で私の返事を待っているだけ。

「逃げたって無駄だよ?」

 そう言って一歩ずつ。開いた距離を埋めるように彼がゆっくりと近付いてくる。

「ねぇ、気付かない?」

 くつくつと。楽しそうに喉の奥で堪えた笑い声を零しながら、彼は嬉しそうにこう告げるのだ。

「君の身体は君が思う様に動かなくなっていることに」

「そんなこと……」

 無い。そう言おうと口を開いて感じる違和感に、私は思わず目を見開いた。

「……………………」

 随分と、重たい。

 そう感じる理由は一体何なのだろう。

「ああ。ダメじゃないか」

 いつの間にか、彼が目の前に立ち私の事を見下ろしている。

「綿が水を吸ったんだ。だから、身体が重くなっちゃったんだね」

 気が付けば私の身体はぱんぱんに膨れ、随分と大きくなってしまっていた。

「嫌だなぁ。醜いや」

 この姿は好ましくない。そんな風に彼が溜息を吐くと、すっと私に手を差し伸べてこう続けた。

「それでも僕は君を愛しているよ」

 もう、重くて動かない腕を掴まれ、無理矢理立ち上がらされる。

「君がどんな姿になろうとも、僕にとっては君が最愛の人だから」

 自分では立って居られず彼にもたれ掛かると、彼は優しく私の背中を抱き囁いた。


 これで、永遠に君は僕の物になったね。


 忘れてしまったことの罰なのか。それとも、購入を決めなかった事への恨みなのか。

 その答えは多分、この先ずっと私が知ることは出来ないのだろう。


『愛してるよ。僕の、最愛のお人形さん』。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る