第3話 本

 その扉を開けば異世界に行けるのだと信じていた。

 何故なら、文字に篭められた魔法は、読む者の心を捉えて離さないからだ。

 瞼を閉じれば見えてくる色んな光景。それは、文字の羅列を追う度、どんどん形を変えていく。

 例えそれが「頭の中だけで起こる世界」だとしても、その世界は私にとって大切なもの。いつも同じで、常に続きから見られるとは限らないけれど、その世界では私自身、様々なモノになれるのが純粋に楽しかった。

 勿論それは、良い人の時もあれば悪い者の時もある。紡がれる世界の内容に応じて、私は様々な役を演じ分けていくのだ。役にのめり込むこともあるし、キャラクターを外から見る部外者の時もあったりする。そうやって、色んな世界を自分なりに、思い描いて楽しむ事がとても好きだった。

 初めは一冊、次にもう一冊。そうやって増え続ける蔵書の数は、今はもう数えることを辞めてしまった。

 見上げるのも大変なほど巨大な棚に所狭しと並べられた背表紙が、今まで体験してきた世界の全て。それは今でも少しずつ増え続けている。

 この全てを覚えて居るかというと、正直、自信を持ってそうだとは言い切れないとは思う。それでも、一度触れた世界は、朧気ながらも私の中に存在して完全に消えてしまうことはまだ無いようだった。

 これからも新しい出会いは続く。

 新しい世界が生み出される度、可能性は増え続けていく訳だから、その楽しみが奪われることは一生無いのだろう。だから今日も本を求めて、通い慣れた道を歩くのだった。


『あんたは本当に本が大好きなんだねぇ……』


 新しい本を手に入れる度、母親に言われたそんな言葉。

 もう、何を言っても治らないからと苦笑を浮かべながらも、知識は無駄にはならないからと本を集める事を許してくれる彼女の優しさは有り難かった。彼女自身、本が好きだったというのもあったのだろう。興味を持った本は貸して欲しいと言われたことも少なくは無い。


『今日はどんな本を買ってきたんだい?』


 仲が悪い訳では無いが、不器用な親子だった私達は、本というモノを通すことでスムーズにコミュニケーションを取れることが出来た。

「今日はね、こんな本を買ったんだよ」

 紙袋から取り出した本を母親に手渡すと、返す反応は日によってまちまち。コレは面白そうだから後で読ませてねとか、こっちは趣味じゃ無いから私はいいやとか。それでも必ず最後には、『読み終わったら感想を聞かせてね』って言ってくれるのが、私としては嬉しかったりもした。


「ただいまー……」


 今日もまた。新しい本を抱えて扉を開ける。

 明かりの消えた室内は、ひんやりとしていて寂しい。壁を指でなぞりながらスイッチを探し、触れたプラスチックの感触を押し込んで灯した明かり。一瞬にして明るくなる廊下の奥にぽっかりと口を開けた闇が、まだこの空間に人の気配がない状態だという事を物語っている。

 仕方が無いとは言え、返されることの無い返事を待ってしまう自分に乾いた笑みが零れる。いつまで経っても何も変わらないからとゆっくり首を振ってから、買ったばかりの本をテーブルに置き服を着替える。

 読書のお供は熱々の紅茶と買い置きのクッキー。一つずつパッケージされた一口サイズのそれを数枚、小さな皿に並べてから茶葉が蒸れるまで暫し待つ。

 明かりが灯ることで戻ってくるのは温かさだ。光というものが人に与える安心感は、一人になると心強く感じ、とてもありがたいと感じてしまう。

 ティーポットを傾けて流れ出す琥珀色。透き通ったそれが小さな音を立てて、アンティークな雰囲気のあるカップへと注がれていく。

「はぁ……」

 さて、と。

 椅子に腰掛けテーブルの上に置かれた本を手繰り寄せ、閉ざされていた表紙を開くとしよう。

 本日は、どんな出会いが待っているのだろう?

 それがとても楽しみだ。


 ペラリ、ペラリ。

 いつもと同じようにページを捲る。

 文字を追いながら見える世界を、瞼の裏に映し出し、私が居る現実と描かれた世界を繋げていく作業。


 そう。本来ならば、そうなるはず……だった。




「…………何…………これ…………」


 その本はとても不思議な本だった。

 書店で見たときは確かにそこに文字が印字されていたはずだ。

 それなのに、少しずつ、文字が躍っては消えていく。

「何で!?」

 慌てて本のページを手で押さえるのに、指の間をすり抜けるようにして意思を持った不思議な文字が、一つずつ姿を消してしまうのだ。


『このままでは、全ての文字が居なくなってしまう』


 私は酷く焦った。

 何故なら、私にとって、本は人生の一部だからである。


『読めなくなってしまうのは困る』


 そう叫んでも、文字が消えるという事は止まってくれない。


『どうして逃げていくの!?』


 白のページが増える度、私の不安は大きくなっていく。

 消えていく。崩れていく。

 私が見たかった世界が少しずつ。

 掴みたい、閉じ込めたい。

 私が思い描いた願いの全てを。


『何で私の前から消えちゃうのよ!!』


 最後の一文字が躍り消えた真っ白なページ。

 空っぽになった世界の器。

 一体何が起こってるのかが分からなくて、頭が混乱してしまう。

 今まではこんなこと無かったのに。どうしてこんなことが起こってしまったのだろう。


『そうだ……これは、夢、なんだ…………』


 そう。これが現実で有るはずが無い。

 瞼を伏せ、繰り返す深呼吸。閉ざされた視界の内側に広がる闇のせいで、自分の心音がとても大きく響き不安を煽る。


『大丈夫、大丈夫』

 

 そうやって、何度も、何度も自分に言い聞かせ、ゆっくりと息を吐き出した後で、自分の頬を軽く抓ってみた。


『痛っ!』


 その痛みに驚いて瞼を開く。何も変わらない部屋。手元には一冊の本。

 真っ白になったページが何枚も連なるその本は、今日手に入れたばかりの真新しいもの。


『そんな…………夢……じゃ……ない…………?』


 何故? 何故? 何故? 何故?

 どう言うことなのかが分からない。

 何故文字が消えたのだろう?

 何故夢が覚めないのだろう。

 何故という言葉だけが頭の中でぐるぐる回る。


『こんなことあり得ない!!』


 大きな声でそう叫んだ瞬間、真っ白なページにたった一言だけ、文字がぼんやりと浮かび上がった。


『え?』


 そこにはこう書かれていた。


「これは、現実」


 そんなことない!! そんなことはあり得ない!!

 私はその言葉を否定するように叫び続ける。

 これが現実だというのなら、何故こんな不可解なことが起こるのだろう。常識ではあり得ない事が目の前で起こっているのに、何を以て現実だと言えるのだろう。その答えを知らないのに、そうなのかと受け入れる事は難しいと。


「だって、これは、貴方の物語なのだから」


 白のページに書かれた文字が変化する。


「この世界は、貴方の紡いだ世界。現実だけれど、現実ではない。そんな曖昧な世界」


『嘘よ!!』


 コレが現実だというのなら、私の生きてきた時間は一体どうなるというのだろう、と。私はここに確かに存在しているのに、曖昧だと言われる筋合いは無い、と。私は必死に抗い声を上げる。


「それでも、コレが、真実。全ては『文字』が見せた夢見事」


『……そん…………な…………』

 

 一瞬にして白に染まる世界。

 走馬灯のように、様々な場面が流れては消えていく。

 それは全て「私」が体験した「夢」の出来事。

 私は「主役」であり、「助役」である。

 「装飾」であり、「舞台」であり、そして「世界」でもある。


『あぁ……そう……か……』


 全てを理解した瞬間、私は小さく息を吐いた。


『そう言う、事だったんだ』


 パタン。

 小さな音を立てて閉ざされた世界。

 そこにはもう何も無い。私という存在も、私が思い描く世界も。

 どこまでも真っ白で、何もかもが綺麗。


「これで、また、始められるね」


 どこからか聞こえてきた声は、とても優しく、そして冷たかった。

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