第2話 缶コーヒー
小さな音を立てて上がる蒸気。コンロにかけたケトルの細長い口を駆け登り、勢いよく吹き出していく湯気を眺めながら、用意してあった白いカップへとドリッパーを乗せ、真新しいフィルターを被せる。
豆は最近手に入れたばかりのお試し品で。手動のコーヒーミルに慣れた手つきで豆を2杯。ゆっくりとハンドルを回していけば、豆だったものは細かく砕かれ粉へと変わっていく。それが面白いと感じ思わず顔が緩む。
仕上がったばかりの粉はサラサラとしているわけではなく、独特な手触りで柔らかい。既に芳しい匂いを放ちつつあるそれをフィルターの内側へと移し入れると、少しずつ、蒸らしながら熱い湯を注いでいく。
少しずつ、少しずつ。
抽出された黒い液体が、濃厚な味を閉じ込めながら小さな雫となって白いカップへと落ちていく。
その過程で広がる芳醇な薫り。
この匂いを好きだという人もいれば、苦手だと思う人も居るだろう。
正直に言えば、その匂いはどちらかと言うと苦手ではあった。
それでも、その場所に通うことを辞めなかったのは、単純に親の職場がそこだったと言うことと、子供心にその苦い飲み物を楽しむ大人の姿が、格好良く映って見えたからなのかもしれない。
いつかはこの店に通う大人達のように、この苦い味を楽しむ事が出来る人間になれるのだろう。
そんな淡い期待を抱きつつ、深みのあるアンティークなカウンターにランドセルから取り出した、筆箱、ノートと宿題が出された教科書を一つずつ置いていく。
それが子供の頃の記憶。
そう。何の変哲も無い、ただ、平凡で、幸せだった頃の記憶だ。
その苦みを口に含むことが出来たのはいつの頃だっただろうか。
初めはその味に舌が慣れず、お子様だなとからかわれることを面白くないと感じながらもミルクを入れて味を誤魔化していた。
砂糖の量が減り、ミルクが消え、最後に残った微量の甘さも完全に消えた今では、その黒い液体は、液体自身の苦みしか残っていない。
相変わらず、舌を刺す苦みと鼻の奥から薫る独特の匂いに溜息が零れることもあるが、それでもこの飲み物を口に運ぶことは辞められなくなった。
まるで一種の麻薬のように。
今ではそれが、生活になくてはならないアイテムの一つになってしまっている。
ただ、昔と異なるのは、それが無機質なスチールの缶に閉じ込められた液体だということだ。同じデザインの量産品は、味も一律。独特の風味ですらプルトップを開けるまで楽しむ事も出来ない。
自分で豆を挽く手間も、ケトルを傾けて雫が垂れるのを楽しむ事も出来ない。暖かな湯気も、柔らかな空気も。あの時、カウンターで眺めることが出来ていた、嬉しそうな笑顔もあまり見る事が出来ない。
本当に小さな音を立てて、閉じ込められた薫りが空気に混ざり消えていくのを僅かな時間で楽しみ、喉に流し込む液体が無くなったらゴミ箱に缶を放るだけ。そんな楽しみ方を繰り返している。
「お前さぁ、本当にコーヒー好きだよな」
「ん?」
差し出された一本の缶コーヒーを受け取りながら、声をかけてきた同僚の方へと視線を向ける。
「俺はさ、あんまりコーヒー得意じゃねぇから好んで飲まないんだけど、これって、そんなに美味しいんか?」
「んー…………美味いっていうか……なんつーかなぁ……」
手の中で小さく転がる缶は真っ黒。有名なメーカーの自動販売機で買ったもので、デザインは至ってシンプル。品名のロゴが大きく印刷され、缶の上部にメーカーのロゴがちょこんと居座っている。成分表なんてチェックはしない。どうせ無糖のコーヒーなのだから、飲めればそれで良い、構わない。
「あの頃をもう一度見たいって。そう思ってるのかも」
「は?」
その答えに同僚は訳が分からないと首を傾げて見せた。
「あー…………一度で良いから、あのドリップ。飲んでみたかったなぁ……」
もう、匂いの記憶は曖昧で、味わったことが無いから、味の記憶も存在しない。覚えて居るのは店の雰囲気だけ。落ち着いたオレンジ色の明かりに、ゆったりとしたテンポのジャズ。ケトルから吹き出す湯気の上がる音と、ドリップコーヒーがしたたる快い旋律。店内に広がる幸せに、誰もがほぅっと息を吐き、表情を緩めている。
「もう、味わうことは出来ねぇんだけどな」
そう言って残った液体を一気に煽ると、空になった缶を振りながら笑う。
「はぁ。よく分かんねぇけど、店が潰れたってことか?」
「まぁ、そんな感じ」
記憶の中のコーヒーはいつも素敵なもので、今手の元にあるものは、お手軽に手入るもの。
それでも、あの時の記憶を辿るように、無意識にまた、缶のコーヒーを買ってしまうのだろう。
もしかしたら……いつか、あの味に近いものに出会えるかも知れないという淡い期待を込めて……。
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