365日のメモ

ナカ

第1話 雪

 どこまでも広がる白が永遠を思わせる。

 確かに見えていたはずの境界。それは、降り注ぐ雪のせいでひどく曖昧で。

 まるで、今まで抱えてきた『嫌なこと』を全て塗りつぶしてくれるかのように綺麗に見えた。

「…………はぁ……」

 吐いた溜息と共に吐き出された息が、口の周りで白い靄を作る。一瞬だけ広がった温かさは直ぐに跡形も無く掻き消され、芯が氷るほどの冷たさを思い知らされるだけ。

 それなのに、この、目の前に広がる白に見入ってしまうのは、雪というものを見た美しさが忘れられないからなのかも知れない。

 後ろには、一組だけの足跡。

 それは大分長い間続いていたはずのものである。

 いつの間にかその跡すらも、積もる雪に覆い隠されてしまっていて。そのことについては、大分前から気が付いてはいたのだが、それでも、来た道を引き返そうという気は、不思議と起きることが無かった。

「…………あはは……」

 溜息の代わりに零れ出たのは乾いた笑いだ。それは、どこまでもか細く、そして心許なく響く。

 声が漏れる度、胸を抉る様な鈍い痛みを覚えてしまう。そんな状態なのだ。もしかしたら、泣きたいのかと。そう思いはしたのだが、不思議と涙が溢れることはないようで。


『空っぽだ』。


 何故だか、その言葉が頭に浮かんでしまった。


 サク、サク、サク、サク。


 足を動かす度に音が後ろをついてくる。

 残された一組の足跡は少しずつ白に塗りつぶされていくというのに、その音だけは寄り添ったまま離れていくことが無い。

 一応携帯はしているスマートフォンは、ずっと圏外のまま。誰とも連絡を取ることは出来ない状態。こちらからかける事も、向こうからかかってくることも不可能となって随分経つ。時間を見る事以外機能を果たせないそれは、持って居ても仕方無いものだと分かってはいるはずなのに、手放すことが難しく、取り出しては仕舞うという行動を無意識に繰り返してしまっている。

 もしかしたら、期待しているのかも知れない。

 誰かと繋がる事が出来る可能性というものを。

 それが叶わない願いだと分かって居ても、その機械を捨てるという選択肢を選ばないのはそう言うことなのだろう。

 もうずっと、吐き出したかった。胸の内に留まっている、どす黒く濁ってしまった息苦しさを。

 何度も、何度も叫んだ想いが声になることは無かったが、それでも誰かに気付いて欲しかったのだと思う。

 もし、息を大きく吸うことが出来ていたのなら、変わっていたのだろうか。

 震える喉を押さえ、使い方を忘れてしまった声帯を動かすことが出来たら違っていたのかも知れない。

 頭では様々な言葉が幾つも浮かんでは消えていくのに、たった一言だけ言えなかった言葉。

 それを音として伝える事が出来て居れば、今とは違った結果を得ることも出来ただろう。

 しかし、それは二度と見る事は出来ない幻影。描いた夢は硝子のように砕け、二度と形を成すことは無いまま壊れてしまった。

 相変わらず真っ白な雪が降り続いている。

 捨てられずに抱えたままの黒い思いを塗りつぶすように。


「もし、許してと願ったら、あなたは私を許してくれましたか?」


 もう痛みすら感じなくなった足を止め、真っ白に染まる空を仰ぎ呟いた言葉。


「…………もう、答えてくれる事もない……んです……ね……」


 小さな音を立てて揺れる紙袋から大切に取り出したものを抱きしめ、瞼を伏せ蹲る。

 ぽたり。ぽたり。と。

 白に落ちる紅が小さな染みを作るのに、それを嫌だと思う事はない。

 寧ろ、それが白に溶け込まず、どこまでも白を染め上げてしまえばいい。


 消えることのない私の罪と同じように、白で塗り替えることの出来ない紅が残ればいいと。


 薄れ行く意識の中、たった一度だけの口づけを。

 重ねた唇はどこまでも冷たく、虚しいものだった。

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