第32話 小説でなにを描くのか

 写真を撮ります。プライベートでも仕事でも写真を撮ることがあります。上手に撮れる時もあれば、まずく撮れるときもあります。(要はあまり上手ではないということですが)上手に撮れた写真はきれいですね。冬のあいだは、世界全体がくすんだ色をしており、あまり写真に撮りたいとは思えませんが、これからは鮮やかな季節になります。また、カメラをもって外へ出かけようかなと思いますね。


 あと、春になったし、コロナも下火のうちに展覧会へ行きたいなあと思っています。具体的に「この展覧会」というのはないのですが、このあいだ開館した大阪中之島美術で9日からモディリアーニの展覧会が開かれるので、それがいいかなあ。


 モディリアーニって変な絵を描きます。知ってますか。検索してみるといくつも画像が見られると思いますが、アーモンド形の顔に長い首、瞳のない目――その人物描写はまったく写実的ではありません。ひとことでいって上手には見えない。


 上手に見えない有名画家って何人もいて、それって不思議ではないですか? たとえばピカソの絵。たとえば抽象画。「子どもでも描けるような絵」とか言われる絵もあります。わたしは不思議に思ってました。なんでわざわざこんな不味い絵を描くんだろうって。


 それは多分、写真の技術が発達してきたからだと思う。むかしは写真がなかったので、「ある光景」を人から人は伝えようと思ったら、あの上手な人にその光景を描いてもらう必要がありました。画家のはじまりです。


 でも、写真が発明されてしまうと、「ある光景」を他の人に伝達するという絵の仕事は、写真に取って代わられます。写真は見たものをそのまま写しとるという機能が絵よりも優れているからです。


 「写実的な絵」は不必要なものになりました。画家は困ったと思います。仕事がなくなったのです。


 ――なにを描けばいいんだ?


 画家は、写真では描けない抽象的な絵を描きはじめます。印象派と呼ばれる人たち以降の画家は、人の内面を画面に描きはじめます。「思考」「感性」「感情」「思想」といった写真では写し取れないものです。人が人であるゆえんのものといっていいかもしれません。


19世紀後半以降、絵は「だれ」が「どういう意図」で描いたのか、その背景を知らないと、絵の意味が分からない絵画となっていきます。面倒くさい。よく分からないものだから、一般に「美術館には足が向かない」と感じられるのでしょう。


 おっと、小説の話でした。


 小説も、映画やテレビ、アニメやマンガなど「物語る」映像作品と描いていることが競合します。絵に対する写真と同じで、事物を描写するっていうことにかけては、文章だけの小説は、視覚に訴えるコンテンツには敵わないです。


 ――なにを書けばいいんだ?


 他の物語るコンテンツにない小説ならではの楽しみってなんだろうと、作家は考えてきたと思う。で、結局、小説家がよくやっているのが「内面描写」と「文体」です。


 内面描写は、小説の得意とするところで文章でぐいぐい描けます。書きはじめた頃は内面描写って、ぜんぜんぴんと来なくて苦手だったわたしですが、描きはじめると楽しいです。そうすると文字数が増えてかなわん。KACも4000文字に収めるのに苦労したのですが、内面描写に文字数を使ってしまうからでした。


「文体」は、まだぴんとこないです。どういう文体がいいのか分からないし、書けない。でも、人の作品を読むと「とてもいい」と感じる文章があるので、そういう文体がわたしの好みの文体なのでしょう。好みの文体の小説は、内容がつまらなくても楽しく読めます。文体は他のコンテンツになく、小説ならではの要素なので、もっとも作家が力を入れるべきところなのかもしれません。ぜんぜん見えてこないですけど。


 あ、書き過ぎました。

 まだ書きたいけど、今日はここまで。

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