43.異世界オルタレーション ―世界の改変者―

 群青に染まる夜空の下、冷たい風が吹く。

 地下の牢獄を抜けるとそこは高台の上。家ひとつない広大な平原となだらかな丘が目に飛び込んできた。

 その背後には見上げんばかりの白岩の建造物。まるで要塞にも見えるそれは、おそらく城郭都市であるニーアの町の端に位置する騎士団の駐屯所だと思わせる。


 "イオドの帳"を唱え、局所的な認識阻害領域を構築する。ラピスラズリのような煌めきが天より滝のように流れ、カーテンのように揺らぐドームがうっすらと見えるも、すぐに虚空に溶け込んだ。これでしばらくは俺たちの存在や気配に騎士団が感づくことはない。


「これからどういたしましょう」

 彼女の朱色のドレスが、白銀を帯びた長髪と共に風に揺れる。

 王女は追放の身だ。王城に戻ったところで帰る場所はないだろう。俺も元々は浮浪児、帰る家もない。最も、王に次ぐ国の最高位に手をかけた罪人ともなれば表には出られないだろう。メインたちに合わせる顔もない。

 ただ。


「……ひとつだけ、宛があります」

 呟くように言い、風の音でかき消されたと思ったが、ちゃんと聞き取ってくれた王女はこちらへ顔を向けた。

「私の師匠の家です。"灰燼かいじんの魔女"をご存知でしょうか」

「っ、その方って」

 紅の目を丸くする。良くも悪くも、あの人の名前はよく知られているからな。


「私はその人の下で数年世話になり、戦い方と魔法を教わりました。まずはそこで身を匿うのもひとつかと思われます」

「わかりました、ライト様におつきいたします」

「場所はここから距離がありますが……転移魔法を何度か使えば三週間程度で着くでしょう。それまでご不便をおかけしますが」

「いえ、差し支えありません。それに私、こうみえて冒険には憧れていまして、こうして外を自由に歩けることは実は楽しみなんです」

 王女はそう笑い、両手を前にぐっと握る。


「……」

 教養に富んだ王女と言えど、やはり外を知らない箱入りなのはわかっていた。ここは貴女様の思う理想郷とは程遠い。想像の1000倍は苦労し、苦痛を伴う地獄に等しい。贅沢とは無縁、死と表裏一体の過酷な世界を知らないからこそ口にできることだろう。

 だけど、そんな怖い思いをする必要はない。人の築く社会にも地獄はあるのだから、それに加えて外の世界の現実で肌を傷つけることなどあってはならない。

 だから、こんな言葉が出てきてしまったのだろう。


「私は路地裏しかしらない貧相な子どもではありましたが、この討伐遠征を経て、多くの世界を知りました。もちろん、想像を絶する冒険で、心身打ちのめされた日々も数え切れません。ですが……存外、残酷な世界にも美しさはあるんだと、果てのなさを感じました」

 夜空を見上げる。先ほどより明るくなり、地平線が見え始めた。俺は息を大きく吸う。

「背丈が伸びて、大きく見えた大人や町がなんてことなく見えても、この景色とあの空は、今でも綺麗だと私は思います」


 路地裏から見た、狭い空。ごみと血と泥と涙で汚くなった空。

 親友と見上げた晴天。仲間たちと共に目指した曇天の向こうの快晴。

 それでも俺は、地を這いずり回った。どこまでいっても、届かない。

 この空を飛ぶ鳥のように自由になれたらと、どれだけ願ったことか。

 ただ、きっと鳥になっても、この空を掴むことはできない。だけど、そこから見える景色こそ、生きる意味を見出してくれるのかもしれない。


「……貴方様にお救いいただけてよかったです」

「え」

 風の音とともに聞き流しそうになる穏やかな声は、意外なものだった。両手を後ろに回し、眼下の平原、その先を見眺める。

「ライト様はまるで、騎士様のようだなって」

「――っ」

 固まった。夢にまでなかったことをこんなところで、こんな唐突に言われるとは。

 返事しそびれた俺に違和感を抱いたのか、こちらを向くなり罰が悪い顔を浮かべ頭を下げさせてしまった。

「あ、申し訳ありませんっ、いきなり変なことを言って、お気を悪くされましたよね」

「いえそんな。その、びっくりしたというか嬉しくて……こ、光栄極まりありません」


 まるで急くような強風が吹いてくる。それが熱くなった俺の顔を冷ましてくれた。コートでも買って王女に着せなきゃと思ったところで、彼女は靡く白い髪を耳にかけてはこちらへと目を向けた。それだけでも俺の心臓は跳ね上がる。


「その、寒くありませんか」と気持ちを紛らわすように声をかける。ふと我に返ったような眼差しをじっ、とこちらに向けるなり、儚げな微笑みが返ってくる。

「あ……いえ、私は大丈夫ですよ。ですが、このまま町を出るのも不安ではないといえば嘘になります。準備も含めて、ニーアの町に戻った方がよろしいのでしょうか」

「そうしたいのはやまやまですが、このまま町を出ましょう。脱獄すれば当然、追われる立場になりますから。指名手配もされるので、安易に人前には出られないはずです。なので物資は外で調達し、こちらで用意します。食糧はもちろん、衣服や寝床も私に任せてください」


「……指名手配」と物憂げに王女はつぶやく。「そうなれば、やはり変身の魔法を使うべきでしょうか」

「それも効果的ですが、認識阻害魔法で十分でしょう。恥ずかしながら、相性の問題もありまして」と俺は俯きに頭をかく。「変身は多くの魔力を消費するためそう何日も続けられません。適当な変装をすれば大丈夫です。ただ、名前で認知されればこの魔法の効果は切れますので、これからは仮名を名乗っていきましょう。良くも悪くも、私たちはこの国に知られている存在ですから」

「仮の名前、ですか」

「なにか案はありますか」

 そう訊いた途端、考え込み始める。詠唱名然り、ネーミングセンスはある方ではないが、俺が考えた方が良かったかと思ったとき、案外すぐに提案された。

「それでしたら、"ルビー"でいかがでしょう。私のお名前の由来はそこから来ているとお母様にお教えいただいたことがありまして」


 ルビー……別称、宝石の女王。確かにふさわしい名前だ。ただ連想してバレそうな予感はするけど、反して憶えやすく、本人にとって馴染みやすい仮名なら魔法的な支障はない。


「そちらにしましょう」と快諾する。「じゃあ、俺はどんな名前にするか」

 適当で無難なものがいいだろうな。ジャックとかハロルドとか。ただなんかこう、無難すぎると本当にこのクソみてぇな世界の一部に溶け込んでしまいそうで嫌な気もする。

 ううんと悩んで時間が流れたとき、


「――"オルタ"」

 ぽつりと、王女の口からこぼれるように発された単語に、つい聞き返した。


「オルタ……?」

「"オルタレーション"。異国の言葉で"改変・変化・改竄"の意味があります。この世界を変えて元の世界に戻すことを目的とするならば、当てはまっているかと存じます」

 もちろん、その言葉は無難なんてものじゃない。ただ、不思議と胸にストンと落ちるような感覚を抱いたのは確かだった。なにより、あこがれの人と繋がる唯一の糸だと、そう感じた。すべてが終われば、今この関係も何もかもすべてが、消えてしまいそうな、そんな気がしたから。


「それにしましょう。その名前、ありがたく頂戴いたします」

「ありがとうございます。ちょっと不安でしたが、お気に召していただけてよかったです」

 きゅ、とか細く繊細な手を王女は胸元の服と共に握った。儚げに見えたのは不安を抱えていたのもあるが、提案が却下されるか否かだけの話ではないだろう。

 無理して笑っている気がしてならないのは俺の考えすぎか。いや、不安になって当然だ。期待もあるだろうが、当たり前の日常すべてを失い、未知の世界を前に怖くないはずがない。


「……」

 会話が途切れる。かろうじて、その手が震えていることに目が向かう。視線に気づいたのか、さっと王女は手を抑えるように左手で隠した。

「あ、ご、ごめんなさい。あの、お気になさらないでください。やっぱり、少し肌寒いかもしれませんね。でもこのくらい問題ありません」

 歯切れの悪い、気まずそうな声で確信する。

 息を大きく吸う。

 しっかりしろ俺。王女を不安にさせるな。


「大丈夫です」

「……え?」

 明るく、笑顔で。安心させるように。いつもの調子を思い出させて、俺は口を開いた。

「何があっても、私は離れません。快適とまではいきませんが、できることはすべてしますし、もちろん危険な目にも合わせないよう、最善を尽くします」

「……ありがとうございます」

 そう力なく返されるも、まだぬぐい切れていない感触を覚える。

「なにかありましたら、構わず申してください。貴族でもなんでもない私に気を遣う必要はありませんから」

「……私は、ライト様が思うような人ではありません」

 躊躇った間が流れた先、消え入りそうな声がぽつりと聞こえた。


「先ほど、仰っていただけたことは嬉しかったのです。そのおかげで、今ここに立つことができていると感じてます。ですが、何度も言うように私はもう王家の者ではありません。それに授かったスキルも、もしかしたらライト様の足かせになりかねないかもしれません」

 そう口にし、顔に憂いを帯びる。

 ああ、そういうことか。

 気にする必要はない。それに、俺は王女陛下だから期待したわけでも、惚れたわけでもない。


 ただ、諦めようと、望まなかろうと、この世は、この時代は、定められた運命は、残酷にもその責任を押し付けてくる。逃げたくても戦わなくてはならない。でなければ未来はないのだから。

 それを伝えるのは酷だし、俺も口にしたくない。だからといって、これ以上慰みの言葉を並べたところで、彼女の為にはならないだろう。無力感は、どんな傷よりも痛いのは俺も知っている。


「ルベリア王女」

 声をかけ、顔を上げさせる。俺はまっすぐと、彼女の紅い瞳を見つめた。


「私に命じてくれませんか」

「命じ……?」

「騎士は王を守り、剣を手に望む先へと拓く役割を担いますが、王がいなければ機能しません。要は、王は騎士を動かす力をもっているのです。その力を使わなければ、魔王を倒すのも、世界を取り戻して人々に安寧をもたらすのも難しいでしょう」

「でも、私は王族ではなくなって……」と俯く。

「私にとっての王は貴女様一人です。必ず、貴女様の命を護り、魔王を倒すことを約束いたします。ですので、その力をもう一度、私に授けてください」


 片膝を立て、跪く。かつての出陣の儀、国王陛下に魔を討つ誓いを捧げたように。

 押しつけにも等しい突然の行動に出た俺の思いが伝わるかはわからない。ただ、垂れたこうべの上から差し伸べられるような声を待った。

 聞こえてくるひとつの息。それは意を決したような。


「わかりました」

 芯の通った覚悟が耳に届く。

 視線に入ったのは白磁のような美しい手。割れ物に触れるように、優しく手に取った。儀と作法に倣い、指の付け根にキスをする。


「……サブ・ライト改め、大魔導士オルタ。あなたに騎士の責務を全うさせ、此の命を護ることを命ずる」

 牢獄と藍と緑の狭間で、捧げられるひとつの使命。これは俺の誓いでもあり、王女の決意でもある。


 大丈夫。あなたは強く、誰よりも優しい。

 勇者や英雄だけじゃ、この世界は変わらない。支える民だけでもこの国は変わらない。あなたのような、調和と繁栄を求め、弱き者の心が分かる者が人の上に立つべきなんだ。


「――御意」

 だから、喜んで俺は貴女に使われよう。


「イーリス・ラエ・ヴィガータ」

 手指に向け、俺はそう口にする。聞き取った王女は不思議そうな声色で問う。

「いまのは……?」

「勇気が出るおまじないです。もうダメだと思ったときにこれを唱えると、どんな困難でも乗り越えられる力が出るようになる、大魔導士のとっておきです。この魔法はきっと、王女を支え、助けてくれることでしょう」

 顔を上げた俺は手に取っている王女の手の上に、右手を重ねる。


「ときにはちょっとした奇跡も起こせます」

 風に溶けるくらい誰にも聞こえないような小声で唱え、手にほのかな温もりと、やさしい光を付与する。それを見届けた俺は、そっと手放す。

「その手のひらを上に向けて軽く握って……そう、そのままいっしょに唱えてみてください――」


 イーリス・ラエ・ヴィガータ。

 ゆっくりと呪文を唱え、王女はそれに続く。途端、手に灯った光から、握った手が勝手に開くようにポンと、瞬く間に数輪の青い花束をそこから出現させた。びっくりした王女に向け、微笑む。


「こんなふうに」

 と同時、俺の鼻を覆うように一輪の赤い薔薇がぽんと咲く。

「まぁ、少々いたずらなところもありますけど」

 それを見、目を丸くした王女はようやく、くすりと笑ってくれた。鼻についた花を取っては、一緒に笑う。

 もちろん、勇気が出る魔法なんてでまかせだ。記憶が曖昧になる遠い昔に、頭の中に入っていた言葉に過ぎない。出現した花も手品披露用の簡単な魔法によるもの。でも、これで少しでも元気になれるのなら、ピエロになったって俺は構わない。

 手に持った花束をそのまま胸の前へ。それをじっと見、王女は頷いた。

「そうですよね。いつまでもうじうじしてたら前に進めません。ライト様にも失礼ですし、皆様にとって頼れる人にならないと」

「その調子です」と俺は笑顔で返す。


 そのとき、空気を読んでタイミングを見計らったようなけたたましいベルと角笛が後ろの要塞から鳴り響く。

「っ、もしかして――」

「ようやく気付いたか」と鼻で笑う。「それでは参りましょう、ルベリア王女……あぁいえ、ルビーさん」

「はい、オルタ様!」

 その手を取り、果てが見えない世界へと踏み出す。

 夜が明ける。淡い光が俺たちふたりを照らす。それは新たな旅の幕開けか、神気取りの道化が下したゲームの始まりか。


 なんでもいい。

 こんなクソッタレな虚構せかいをぶっ壊してやる。

 待っていろ魔王。

 ここからが俺たちの反撃戦オルタレーションだ。



第一章 完

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