第9章 本当の気持ち
気がつけば俺はベッドに倒れこんで服のまま眠っていた。昨夜、眠っていないせいだった。目が覚めたときにはもう夕方で、金曜日の授業はすべて終わっている時間だった。
起きてすぐに、携帯電話を開いた。着信もメールも一件もなかった。
木曜日の夕方に来た北川浩二は、そのまま部屋に泊まっていったのだろうか。もし泊まっていったとしても、次の日の朝には会社に行くはずだから、月野さんから何か連絡や説明があってもいいはずだった。それとも、今も二人でいるのだろうか。
今すぐ帰って、と言った月野さんの青ざめた顔が忘れられなかった。俺はいつでも切り捨てられる、北川浩二の代わりにすぎなかった。それでも月野さんがいとしかった。今日、きちんと大学に出ていれば、彼女の様子を確かめることが出来たかもしれない。でも、会うのは怖かった。寝過ごしたことを、心のどこかで歓迎していた。
今もまだ北川浩二と一緒にいるのだとしたら、こちらから連絡することはできない。土日はもともと連絡できない。月曜日になったら、きっと何もかもが判明する。あのときはごめんね、と月野さんは笑って、俺たちはまた元通り恋人ごっこを続けることができるはずだ。
しかし、月曜日の朝になっても、月野さんからの連絡はなかった。大学に行けば会えるじゃないかと自分をなぐさめたが、大学での月野さんは、あからさまに俺を避けていた。目を合わせてもくれなかった。今夜、部屋に行っていいのかどうかも訊けなかった。
もしかして、あのあと、北川浩二に俺のことがばれてしまったのだろうか。二人がそのままケンカになったのなら、月野さんには悪いけど俺には好都合かもしれない。今までだって、何度も、いっそばれてしまえばいいじゃないかと思った。俺はいつでも、わざとばれるように行動することもできたはずだった。けれど、月野さんが傷つくのがかわいそうでできなかった。
俺は今まで最善を尽くしてきた。不可抗力でばれてしまい、二人が仲違いをしたのなら、俺にとっては喜ぶべき事態のはずだった。だけど、こわばった顔で俺を無視する彼女を見て、俺のもくろみはまったく外れていたことに気がついた。たとえ、二人が別れたとしても、月野さんが俺のところに来るとは限らない。別れの悲しみとともに、一緒に切って捨てられてしまうという可能性を考えていなかった。
いや、考えていなかったというのは嘘だ。本当は俺は知っていた。だからこそ、ばれないように気をつけていたのだ。細心の注意を払うのは、月野さんのためではなく、俺のためだった。でも、だんだんどうでもよくなってきたのも事実だった。うぬぼれていたのかもしれない。俺はばれないようにする注意を少しずつ怠っていった。北川浩二はもしかして、とっくに気づいていたんじゃないだろうか。
俺は、一人で教室を出て行く月野さんをぼんやりと見送った。数ヶ月前、こんなふうに近づく前に固めたはずの決意は、いつの間にかうやむや消えてしまっていた。あのころの俺なら、その行動が必要だと判断すれば、ずうずうしく何も気づいていないふりをして、月野さんに話しかけるだろう。今日どうする? あぶなかったね、大丈夫だった? と笑顔で訊くことができるだろう。でも、今は無理だった。避けられているという事実だけで泣きそうになっている。その理由を想像したら、体が震えて動けなかった。もうこれ以上、俺は傷つきたくなかった。でも、今動かないと彼女を失ってしまうかもしれない。「いい気味」と、ナナミが泣きながら笑った。俺も、少しだけ笑った。俺がナナミと別れたことを、月野さんはまだ知らない。
自転車にまたがり、自分の部屋に向かう。途中のコンビニで、缶チューハイを何本か買った。散らかった部屋でそれらを体に入れてみたけれど、何かの真似事をしているようで、しらじらしかった。考えれば考えるほど自己嫌悪の穴に落ちていった。誰かとしゃべりたかった。関係ないことをしゃべって、笑いあいたかった。誰か、と思って一番に浮かんだのが西山で、舌打ちをした。あんなことがなかったら、俺は間違いなくやつを選んでいるのに。
次に思い浮かんだのが、シオリさんだった。財布のカード入れから名刺を取り出す。白い名刺は微かにバラの香りがした。
shiori
余白に書かれた電話番号。
彼女は、何を話そうとして俺に番号を教えたのだろう。それとも、俺の話をもっと聞こうとしてくれたのだろうか。
電話をかけてみた。プルルルと、一回の着信音のあとに、やっぱり恥ずかしくなって、あわてて切った。でも、すぐに折り返してかかってきた。
「岩崎です」
と名乗って、それじゃ分からないかと思って言い直す。
「最後の客です」
「イワサキ、シン君」
シオリさんは俺の名前をくっきりと発音した。ええっと、と俺は口ごもった。電話をしたのはいいけれど、何をどうやって切り出せばいいのか分からなかった。
「シオリさんともうちょっと話したいなと思って」
ひと昔前の下手な口説き文句みたいだった。うーん。俺は頭を抱える。一回髪を切ってもらっただけの、仕事を辞めた美容師に会う口実なんて、俺の乏しい人生経験からはひねりだしようがなかった。
「ちょうどよかった」
と、シオリさんは言った。おいおい、何がちょうどいいんだよ。
「今からうちに来てくれない? 何か買ってきてよ。今起きたの。お腹すいて死にそう。外に買いに出るエネルギーも残ってないの」
本当に弱々しい声だった。すらすらと住所を言い出すので、俺は、あわててメモを取る。よろしく、早くね、ほんと死にそう。シオリさんは矢継ぎ早にそう言って、電話を切った。おいおい。
駅からすぐと言われたけれど、その駅までが遠かった。夕焼けに向かって自転車を四十分こぎ続け、ようやく駅を見つけた。それから、ぐるりと駅の周りを一周して、シオリさんの住むマンションを見つけた。真新しい高級そうなマンションだった。
マンションの目の前にコンビニがあった。買いに行く気力もないって、徒歩一分じゃないか。こっちは自転車で四十分だっていうのに。
冷房の利いた店内に入った途端、汗が引いて心地よかった。買い物カゴを持って、棚をにらみながらうろうろする。フランスパン。ハムと卵のサンドイッチ。サルサソースのパニーニ。明太子むすび。昆布むすび。海草サラダ。冷たいポタージュ。カッテージチーズ。ウーロン茶。野菜スティック。ブルーベリーマフィン。お好み焼き。シオリの好き嫌いが分からないので、目に付いたものをいろいろ買った。
部屋番号のボタンを押すとシオリさんの声がして、マンション入り口のロックを開けてくれた。エレベーターで上がって、指定された部屋のチャイムを押す。手には食料がいっぱい詰まったコンビニの袋。もはや宅配便屋の気分だった。
出てきたシオリさんは、薄手のキャミソールと、ふとももがあらわになったショートパンツ姿だった。たぶん、すっぴん。短い髪と化粧けのない顔と無防備な室内着を見ていると、年上であることを忘れそうだった。汗まみれの俺を見て、駅からすぐなのに、と言った。まさか自転車で来るとは思ってもみなかったようだった。
電話では今にも死にそうな声を出していたのに、シオリさんは俺を出迎えると、というよりは食べ物を見ると、急に元気になって、うれしそうに袋からひとつひとつ取り出し、ソファーテーブルの上に並べ始めた。
「わたしこんなに大食いじゃない」
シオリさんがうれしそうに言った。
「誰も一人分だと言ってないです」
俺はソファーに座って、明太子むすびに手を伸ばす。俺も夕飯がまだだった。
ビニールの包装を開けたところで、わたしもそれがいいとシオリさんが言った。仕方なく明太子を渡し、パニーニを選んで食べ始める。シオリさんが俺の隣に腰かけた。ソファーがしなった。短いパンツは、座るとますますふとももを強調する。シオリさんの着ているキャミソールはサイズが大きいのか、えりぐりから乳房の上のふっくらとした部分がのぞいていた。俺は目のやり場に困って、パニーニに集中する。ふと見ると、シオリさんが俺をじっと見ていた。なに? とぶっきらぼうに聞くと、パニーニを指差して、それも食べたかったのにと言う。手には食べかけのむすびを持ったままだ。一口ちょうだい、シオリさんが接近してきて、ぱくりとパニーニにかぶりついた。その拍子に、トマトのかけらがふとももに落下した。そこにティッシュがあるから、と、シオリさんが口いっぱいに頬ばったまま言った。俺は残りのパニーニを食べてしまうと、立ち上がってティッシュを箱ごと持って来る。シオリさんがそれでも動こうとしないので、俺はふともものトマトをティッシュでつまんでくるむ。新しいティッシュで拭いてやる。
ソファーの横にあったゴミ箱にそれを投げ入れると、俺は訊いた。
「あのさ、誘ってるの?」
「当たり」
シオリさんがにっと笑った。唇の周りがソースで赤く染まっていた。俺はその唇に吸い寄せられた。そのまま抱きついて、シオリさんをソファーの上に横たえたが、
「あ、でもこれ食べてからね」
と、シオリさんは俺の体の下で冷静に言った。片手を突き出して、器用に食べかけのむすびを守っている。
「あと、髪の毛落ちるからあっち」
ベッドを指差す。髪の毛が落ちる? 俺は一人で起き上がるとベッドに移動する。サンドイッチも食べていい? というシオリさんの声が聞こえる。ああ好きにしろ。俺はその声には答えず、真っ白なシーツが引いてあるベッドに一人横になった。何してるんだろ、俺。でも、シオリさんのペースに巻き込まれているのは気持ちがよかった。楽だと思った。そんなことを考えていると、腹を満たしてエネルギーを充電したシオリさんがやってきて、俺に抱きついてキスをした。
シオリさんは俺に恋してないし、俺もシオリさんに恋してない。久しぶりに味わう平等な関係は気持ちがよかった。
店をやめたのは髪の毛恐怖症になってしまったからだ、と、シオリさんは語った。
「恐いのは頭から離れた髪の毛。抜けた髪の毛や切った髪の毛が、恐くてたまらなくなったの。きっかけはなんだったのか分からない。仕事中だったと思う。突然、自分の足元のもやもやとした髪の毛の塊が、足をはいのぼって襲いかかってくるような気がして、ハサミを落としてしまった。そのときわたしはジーンズを履いていた。それなのに、髪の毛の感触が全身を駆けめぐったの。体の表面だけじゃなく、中に入ってきて内蔵や血管をちくちくと突き刺しているような気がして気持ち悪くなった。お客さんに謝りながらカットを再開したけれど、ハサミからはらはらと落ちて、手の甲に触れる髪の毛が、腕をのぼってくるような気がして、おかしくなりそうだった。アシスンタントを呼んで、足元の髪の毛を片付けてもらい、それからなんとかカットを終えた。お客さんは満足してくれたけど、でも、わたしはわたしの仕事をまっとうできなかった。カットするだけがわたしの仕事じゃないもの。
その後も我慢しながら仕事を続けていた。うまく笑えなくなって、緊張した様子がきっとお客さんにも伝わっていたと思う。医者に相談したこともあった。仕事のストレスだろうから、仕事を辞めろと言われた。でも、わたしは辞めるつもりはなかった。何とかしてこの恐怖と闘って仕事を続けなくちゃいけないと思っていた。
でも、もう、あきらめたの。だってわたしが仕事をするのは、お客さんを気持ちよくさせてあげるためなのに、それができないんだったら、仕事をしても仕方がないんだって思ったから」
俺は肩の上に抜けた髪の毛を見つけて、シオリさんに見つからないように、そっとつまんだ。俺の髪を切ったときも、恐怖症の真っ最中だったのだろうか。そんなふうには見えなかった。
「不思議とね、君の髪の毛は恐くなかったのよ」
シオリさんは言った。
「久々に、仕事が楽しかった。よかった。最後の仕事が君で」
シオリさんはベッドから立ち上がって、俺にも立ち上がるように言った。それからシーツを風呂敷のように使って、注意深くたたみ始める。白い布の中に黒い線がいくつか落ちていた。縮れた陰毛も混じっていた。シオリさんはそれらをこぼさないようにシーツを丸め、すたすたと裸のまま歩いていって、バスルームの隣に置いてあった洗濯機に放りこんだ。
シオリさんは俺をソファーに座らせると、自分は床のクッションの上に座った。裸のままだ。服を着るという発想がないらしい。俺も仕方なく、アレをぶらぶらさせながら裸でいる。女の子の全裸は絵になるけど、男のはどうも情けない。
ソファーは濃いブラウンの合成革張りだった。部屋には、髪の毛を絡ませるようなカーペットや布がまったくなかった。床はフローリングだった。動いた拍子に、俺の頭からはらりと髪の毛が落ちた。シオリさんは手元にあった小さな掃除機で、それをすばやく吸いこんだ。ごめんと言おうとして顔を動かすと、またはらりと髪の毛が落ちた。掃除機が吸う。俺が恐縮していると、仕方がないわ、生きてるんだからとシオリさんが言った。でも、手にはしっかりと掃除機を握りつづけていた。次こそは落ちる前に吸ってやるとでもいうように。身動きできない。困って彼女を見ると、頭では分かっているのよ、と、ため息をついた。それに君の髪の毛は恐くないからいいんだけど、もう癖みたい。
シオリさんが髪の毛を短くしているのも、落ちた毛が恐いせいだった。
「本当は坊主にしたかったんだけど、怒られたからやめたの」
「彼氏に?」
「違う。そうね、彼氏でもないのに怒られる筋合いはないんだけどね」
最後のセリフは、ほとんど独り言だった。それ以上聞けない雰囲気があった。シオリさんが立ち上がった。
「何か飲む?」
冷蔵庫を開けながら俺を振り返る。
「あれ、君はまだ未成年だったっけ?」
いや、と俺は答える。
「二十歳だ」
「よかった、わたし犯罪者にならなくて」
言いながら、シオリさんはくすくす笑った。ガキ扱いされて、ちょっとむっとする。シオリさんは赤い液体を半分入れたグラスを二つ持ってきて、一つを俺に差し出し、自分はソファーの肘掛のところに小さな尻をちょこんとのせた。揺らすと氷の音が、甲高く響いた。甘くて、ほろ苦い酒だった。チンザノというらしかった。
「シオリさんは何歳なの?」
「二十七」
年上の社会人か、と俺はつぶやいた。
「なに? 北川浩二のこと?」
キタガワコウジ。シオリさんが「彼」の友人だということを、ようやく俺は思い出す。彼女は一体、何をどこまで知っているのだろうか。俺は彼女に、何をどこまで話していいのだろうか。
「違うよ、シオリさんのこと」
「わたしは社会人じゃないわ。無職だもん」
これからどうしようかな、と、シオリさんは言った。心から途方に暮れた声だった。俺は黙った。適当ななぐさめなんて思いつかなかった。俺には、仕事の重みも苦しみも分からない。大丈夫だとかなんとかなるよなんて言っても、なんの足しにもならないだろう。シオリさんも黙ってしまった。
「本当のところ、どうなの?」
と、俺は聞いた。誰にも聞かれたくない打ち明け話をするように、シオリさんは声をひそめて、俺の耳に唇を寄せた。
「はっきり言って、全然ダメ。やばい」
そして、死にたいかもとつぶやいた。
「どうやって死ぬの?」
「そうね、痛いのはいやだし、睡眠薬は病院にもらいに行くのが面倒だし、首吊るのはロープを買いに行ったり場所探したりするのが面倒だし、飢え死にしようかな」
「そう、じゃあ邪魔してやろう」
服を着る。
「どこ行くの?」
「スーパー。メシの材料買いに」
作ってくれるの、やったー、とシオリさんがはしゃいだ声をあげた。
「何日分か作ったら、ちゃんと食べる?」
「食べる食べる」
たとえ見せかけだったとしても、さっきまでの餓死計画を忘れたようにはしゃぐシオリさんを見て、俺は少しほっとした。
シオリさんが案内してくれたスーパーは、デパートのようにこぎれいで、めずらしい食材がいっぱいあった。が、どれもこれも値段が高くてめまいがした。お金はわたしが払うから大丈夫だよ、とシオリさんは言った。それでも俺は慎重に食材を吟味し、何を作るかを考えながらスーパーをぐるぐると歩いた。献立は、何日分か作り置きできるカレーに決めた。シオリさんは、ものめずらしそうに俺の買い物を眺めていたが、ときどき料理とは関係ない食材をカゴに放りこんだ。ブルーチーズとか。マンゴーだとか。料理はしたことがない、と言っていた。今までどんな生活をしていたのだろう。不安になって、道具はあるよね? と尋ねたら、ひと通りあるよ、とうれしそうに答えた。
二人並んで部屋に戻ってくる。確かにキッチンには、炊飯器も鍋もフライパンも調味料もあった。フライパンはティファールで、デロンギのエスプレッソマシンもあって、ノリタケのコーヒーカップセットもあった。どれも俺がほしくて高くてあきらめたものばかりだった。もらいものなの、とシオリさんは言った。手を止めてキッチンの戸棚を眺める。食器はすべてふたそろい以上あった。彼女はかつて、ここで誰かと暮らしていたのだろうか。
「何か手伝おうか」
シオリさんがキッチンに来た。
「じゃあ、じゃがいもの皮むける?」
「むけない」
使えねえ。あんな器用にハサミを使いこなすくせに、じゃがいもの皮くらいどうってことないだろうに。それとこれとは違うよ、わたしお客さんの頭むいたりしないし、とシオリさんは恐ろしいことを言い出す。俺がやるからテレビでも見ててよ、と、シオリさんをキッチンから追い払う。
「味見ならまかせて」
シオリさんの声がした。はいはい、と適当に答えながら、俺は湯を沸かして、まな板と包丁の消毒の準備をする。
変な二十七歳。
シオリさんが身近に感じれば感じるほど、俺は、北川浩二と月野さんの関係を想像して苦しくなる。こんなふうに年の差なんてなんでもなく、一緒に過ごし、笑いあっているのだろう。俺の割り入る隙間なんて、最初からなかったのかもしれない。俺は、月野さんのことを頭から振り払って、料理に集中する。
野菜の皮をむいて、ブロック状に切りそろえる。マッシュルームを刻む。ハサミで鶏肉を切ってヨーグルトに漬けこむ。米を研いで、炊飯器にセットする。
リビングをのぞくと、シオリさんは、床に座り、ローテーブルに向かって何かを書いているようだった。背を丸めて、一生懸命書いている。かつかつという硬質なペンの音が聞こえてくる。俺がカレーを作っている間、シオリさんは同じ姿勢で書きつづけていた。
コンビニの食料を食べたばかりだというのに、出来上がったカレーをおいしいおいしいと言いながら、シオリさんは食べた。俺も一緒に食べた。お代わりもした。それでもカレーはまだまだ残っていた。作りすぎた。一人で食べきるには一週間はかかるだろう。
「一人じゃ食べきれないだろうし、俺、ここにもうちょっといていい? カレーがなくなるまででいいから」
「いいよ」
と、シオリさんは何でもないように答えた。
本当のところ、カレーはただの口実だった。全部のことから逃げていたかった。ナナミと別れて、月野さんに無視されたまま、別の女の子のところに転がりこんでいる今の状態は本当にどうかと思うのだが、もう何も考えたくなかった。ずっとずっと考えつづけてきたことから少しだけ解放されてもいいじゃないか、と思った。
次の日もその次の日も学校にも行かず、俺はシオリさんの部屋にこもっていた。シオリさんと過ごす時間は楽しかった。ここでは誰からも隠れることなく、緊張も不安もなく、遠慮もなかった。俺には兄弟はいないけれど、姉と暮らしたらこんな感じなんだろうか、と思った。まあ、姉ならセックスはしないけど。
一回だけ、夜にシオリさんの携帯に電話がかかってきた。シオリさんは俺の隣に座ったまま「今、人が泊まってるから」と、相手の要求を断ったようだった。電話の相手は男のようだった。
「俺帰るからいいよ」
と、言ってみたが、
「君がいてくれてちょうどいいくらいよ」
と、シオリさんは言った。
シオリさんが熱心に書いていたのは葉書だった。それも大量の。常連だった顧客あてに、一つ一つ手書きでお詫びを書いているのだった。体調をくずしてしまったので、しばらく休業します、というようなことが書いてあった。一人ひとりに違うメッセージが添えられていた。シオリさんの字はまっすぐでなめらかで、ひらがなの丸い部分は特にふんわりと広がっていて、書かれた文字列は押し花を彷彿とさせた。
シオリさんの右手にはペンだこができていた。こんなこといいから、仕事のこと忘れて休んだらいいのに、と、俺は思ったけれど言えなかった。
俺が来て二日目の真夜中、妙な物音に目が覚めた。隣で寝ていたシオリさんの姿がなかった。激しく咳きこむような音がトイレから聞こえてきた。うなっている声が尋常じゃなかったので、俺はドアをたたいてシオリさんの名前を呼んだ。開けるよ、と言ってドアを開ける。シオリさんは便器につっぷし、うう、という喉の奥から苦しそうな声をあげて、ひたすら吐いていた。便器の中には黄色いカレーの残骸があった。カレーが悪くなっていてあたったのかと、俺は焦った。違うそうじゃない、髪の毛が、とシオリさんはようやく小さな声で言った。
「髪の毛が体の中に詰まって吐いても吐いても出てこないの。体の内側に黒いふわふわした塊がいっぱい詰まってて、内臓にも血管にも肺にもいっぱい詰まってて、出てこないの」
俺はトイレを流した。シオリさんの口からはもう胃液しか出てこないのに、それでも吐こうとしている。両肩を後ろからつかんで、そっとさすった。もう全部出たから大丈夫だよ、と俺がささやくと、シオリさんは涙をためた目でうなずいた。でも本当は納得していないようだった。体の内側中に詰まっている髪の毛。体の中にぎっしりと詰まって出てこないそれは、やがて何年も掃除されていない排水溝のあれのように、どろどろに溶けて腐っていくのだろうか。気持ち悪くて俺も吐きそうになった。恐かった。
シオリさんを便器の前から立ち上がらせ、キッチンで口をゆすがせる。カーテンを閉めていない部屋は、月明かりで物の輪郭がくっきりと見えるくらい明るかった。シンクを叩きつける水の音。シオリさんは何度も何度も口をゆすぐ。「どう?」と尋ねると、シオリさんは弱々しく首を振った。
コップを取り上げて、唇を重ねる。何度も水でゆすいでいたのに、胃液の味がして酸っぱかった。俺は舌で口の中をかき回す。もう何もないよ、ここには。唇を離すと、シオリさんは二つの目から澄んだ涙をぽろぽろと流した。
「吸い取ってあげるよ。ねえ、全部俺に寄こしなよ、シオリさん一人分の闇くらい平気だから」
もう一度長いキスをする。俺はシオリさんと初めて会ったときを思い出す。シオリさんにシャンプーされて髪を切ってもらっている間、心がおだやかになって軽くなっていくのを感じた。あれは彼女の才能なんだろう。でも、そのせいで彼女自身の中には澱みが溜まっていくのかもしれない。シオリさんの優しい瞳を思い出す。髪を切る真剣な表情を思い出す。彼女が優しければ優しいほど、こんなふうに苦しまなければいけないんだろうか。そんなの悲しすぎる。恋人の真似事をしながら、俺はいたたまれなくなる。彼女には誰かが今すぐ必要で、その誰かは俺じゃなく、今ここにはいない誰かなのだ。
三日目の昼にカレーがなくなったとき、俺は携帯電話の存在をずっと忘れていたことに気がついた。今まで忘れたことなんてなかったのに。いつも電話のことばかり考えていたのに。こんなにも気楽な気分で過ごせたのは、そのせいだったのかもしれない。
おそるおそる取り出して、中を確認した。メールが一件。月野さんからだった。メールは、ちょうど二日前のものだった。俺がシオリの部屋に来た直後くらいに入っていた。
俺のあわてぶりを見て、シオリさんが
「君の恋人が今から会いたいって?」
と、言った。一部を除いて、だいたいそのとおりだった。
「俺の恋人じゃないけどね」
しかも今からの「今」は二日前の今だった。
「行ってらっしゃい」
シオリさんはソファーに座って、手をひらひらと振る。俺は靴を履くと振り返って、
「ねえ、死なないでよ」
と、言った。了解了解、とシオリさんは笑う。俺はその返事に安心も心配もできない。人はそう簡単には死なないけれど、簡単に死ぬときもある。シオリさんの笑いには暗い影があったけれど、目の光は強い気がした。
じゃあ、と俺は言って、シオリの家を出た。
電話をするのは恐かったから、今から行く、とメールだけを打ち返し、自転車を精一杯走らせて月野さんの部屋についた。炎天下の中、一生懸命自転車をこいだので、汗だらけになった。さらに三日間着替えていないシャツは少し臭ったけれど、着替えに帰っている場合ではなかった。
月野さんは、あからさまに不機嫌な様子で俺を出迎えた。部屋に入ると、立ったまま、俺の姿を上から下までじろじろと見た。
「授業も休んでたし、どうしたの?」
俺は彼女に何一つ隠すつもりはなかった。でも、何から言おうと迷っていた。彼女は黒々と濡れた瞳で俺をじっと見ていた。
「シオリさんの」
と、言いかけて、君に紹介してもらった美容師の部屋にいた、と言い直した。シオリという名前を発音した瞬間に、目から光をこぼして、月野さんは傷ついた表情をした。
「わたしにほかに恋人がいるから、これで平等だって言いたいんでしょう?」
「そんなことは言ってないし、思ってもない」
思わず大きな声が出た。月野さんは声に怯えるようにさっと身を引くと、俺をにらみつけた。
「なんで思わないの?」
と、月野さんは言った。
「わたしがほかで何しようと、君には関係ないものね」
月野さんは最初から怒っていた。どうして俺たちは言い争いをしているんだろう。月野さんは俺がシオリさんの部屋にいたことに傷ついているということだけは分かった。だから、俺は、ごめんと言った。ごめんって何? と月野さんはますます声を荒げる。こんなふうに感情をあらわにする彼女は、鴨川のあのとき以来だった。
「君はわたしのこと、本当に好きじゃないんでしょう?」
「好きだ」
と、俺は言った。
「本当に好きなの?」
本当に、という言葉を月野さんはよく使う。本当にそう思っているの? そのたびに俺は不安になる。自分で考えて自分の口から出たことだったとしても、それが本当かと尋ねられたら分からなくなるのはなぜだろう。俺が俺について考えたことよりも、月野さんの言うことの方がよっぽど本当らしかった。俺はもう何も分からなくなっていた。
「君がそう言うのなら、俺は君のことを本当に好きじゃないのかもしれない」
帰って、と月野さんは震える声で言った。
「帰って。もう二度と顔を見せないで」
「二度と顔を見せないのは難しいよ」
俺は言った。少なくとも週に一回は、授業で同じグループとして近くに座る必要があった。
「安心して。今日でその授業は終わったから」
最後の授業は、シオリさんと過ごしている間に終わっていた。明日から夏休みだった。帰るけど、二度と顔を見せないという約束はやっぱりできない、と俺は情けない声で言った。じゃあいいからもう帰ってよ、と月野さんは叫ぶように言って、泣き出した。俺は、のろのろとした動きで月野さんの部屋を出た。
外に出たけれど、俺はまだあきらめきれなかった。野良犬のようにマンションの周りをうろついては、彼女のいる部屋を見上げた。どうしたらあそこに戻れるか、そのことで頭がいっぱいだった。ポケットに入れていた携帯がメールの到着を知らせた。俺は救われたような気持ちで携帯を開く。でもメールは、月野さんからではなかった。クラスのやつからだった。麻雀の誘い。俺をメンバーに入れようなんて、よほど誰もつかまらなかったのだろうか。今日は無理、と俺は返信した。夏休みに突入して浮かれているやつらを思い浮かべて、うんざりした。
握りしめたままの携帯電話で、会いたいと打って月野さんに送った。俺は彼女のことを「本当に好き」ではないのだろうか。俺が彼女を好きじゃないとしたら、会いたいという気持ちも嘘なのだろうか。会いたかった。さっき別れたばかりなのに会いたくてたまらなかった。こんなに会いたいのだから、やっぱり彼女を本当に好きなのだ。そこで俺の思考はまたぐるりと戻る。そもそもこんなふうに自問自答している時点で、これは本当の気持ちじゃないのだろうか。
通行人が俺を見ながら通り過ぎる。うつむいて背を向けてやりすごす。すがりつくようにして、もう一度、会いたいとメールを送った。返事はなかった。自転車の鍵をうまく差しこめない。全身が小刻みに震えていた。もうこれで終わってしまうのだろうか。深呼吸する。自転車の鍵がカチリと硬い音をたてて、ようやくはまった。
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