第8章 ナナミの答え

 大学の中で俺は月野さんを避けるようになった。たとえキャンパスの中で噂になっても、お互いの恋人の耳に届くことは決してないだろうが、月野さんの名誉のためにも誰かにあやしまれることは避けたかった。俺が彼女を見る目は普通じゃないし、近寄れば異様な雰囲気をかもし出してしまう。気づくやつは気づいてしまうだろう。彼女もあえて俺に近づこうとはしなかった。二人はまるで顔見知りですらないように、同じ教室で同じ時間を過ごす。彼女を見つめ、一言あいさつできただけで有頂天になったり、心臓をどきどきさせたりしていた日々が、遠い昔のようだった。夜に二人きりで会えると分かっていても、さみしくてしょうがなかった。


 俺にできることは、授業中にこっそり眺めることくらいだった。顔を上げると、俺の目は自動的に彼女をとらえる。月野さんは端っこの席で肘をついたまま窓の下を見ていた。何を見ているのだろうか。俺の席からは青い空しか見えなかった。耳を澄ます。セミが鳴いている。講師がスライド式の黒板を上下させながら、なにやら熱心にしゃべっている。俺の前の席のやつが振りかえって俺に何かをささやいている。でも、それらは俺の意識の片隅にも留まらない。俺は月野さんを見つめ続ける。それだけが俺の中のリアルな世界だった。早くこのまやかしの時間が終わってくれることだけを願っていた。


 木曜日、今日は俺が先に彼女の部屋へ行く日だった。月野さんは今ごろ夕方の最後の講義を受けている。一人でスーパーに寄る。主婦たちに混じって買い物をするのにも慣れてしまった。買った材料をキッチンに並べて作り始めた頃に、月野さんは帰ってきた。

 俺が料理をしている間はいつも、彼女はギターを爪弾いて歌っているか、本を読んでいるか、勉強をしているかだった。今日はソファーに座って本を読んでいる。こうして俺が料理を担当すれば、少しでも彼女が一人の時間ができる。

 水を流し、材料を刻んでいると、頭の中の雑音がすべて消える。料理をするのは好きだった。複数のことを同時に考えながら、それぞれにふさわしいタイミングを見極める緊張感が楽しかった。材料の大きさ、炒め方、ほかの材料との相性、調味料の組み合わせ。料理をしていると、それだけで頭がいっぱいになる。余計なことを考える余裕がなくなる。


 めずらしく早い時間に、例の電話がかかってきた。煮えたぎったお湯の中にパスタを放りこもうとしていたところだったが、やめた。ゆでるのは電話が終わってからがいい。いつも十分から二十分、長いときは三十分以上話しこんでいるときもあるからだ。でも、今日の電話はすぐに終わった。受話器を置いて、月野さんが俺の隣にやってきた。俺は、ソースの仕上げにオリーブオイルを入れようとしていた。赤いソースからは、ナスとつやつやとしたキノコの頭が見えていた。


「もうすぐできるから」


 と、俺は言った。できかけの料理をのぞきこんで、おいしそうとはしゃぐ声が聞けると思ったのに、彼女は、まるで俺が場違いなことを言ったかのように、青ざめた顔をしていた。


「悪いけど、今から彼が来るから帰ってくれない?」


 俺は、月野さんを見て、今すぐ? と尋ねた。


「そう、今すぐ」


 俺は自分のものをまとめて靴を履き、部屋を出た。エレベーターではちあわせたとしても、気づかれることはないだろうと思ったが、念のために階段を使った。吹きさらしの非常用階段には、ハトの白い糞がたくさん落ちていた。踊り場には、ゴミなのか誰かの持ち物か分からない壊れた石油ストーブが転がっていて、体を横にしないと通り抜けられないほど狭かった。


 あのパスタは、彼女が作ったことになり、北山浩二と一緒に食べるのだろうか。それとも捨てられてしまうのだろうか。もし食べるのならオリーブオイルを最後に入れなきゃ、と言いたかった。だが引き返せないことは分かっていた。俺はうつむいて階段をぐるぐると降りていった。

 目に付いたチェーンのカレー屋で、新商品だという夏野菜カレーをもそもそとかきこみ、店を出た。味も何も分からなかった。自転車にまたがれば、あっという間に家につく。家に帰りたくなかったが、かといって誰かを呼び出して遊ぶあてもなかった。俺の生活には、月野さん以外のことが入る余地がなかった。おかげで、一年生のころは誘ってくれていたクラスのやつらとも今はほとんど交流がない。月野さんの悪い噂を立てられるのが怖くて、こんな状況を相談できる人間もいなかった。


 アパートの下の駐輪場もどきのスペースに、乱暴に自転車を押しこむ。ふと見上げるとドアの前に人影が見えて、腹の底がひやりと冷たくなった。もしや、と思いながら、階段を駆けのぼる。俺の部屋の前には、ナナミが座りこんでいた。ナナミは俺を見つけて立ち上がると、笑った。それから、笑い顔をくずして「来ちゃった、ごめん」と言った。

 いつから待ってたのだろう。携帯を見ると、着信履歴が残っていた。メールも。


「ごめん、気づかなくて」


「いいよ。勝手に来たんだから。会えたからもういいよ」


 とにかく中に入れる。ドアを閉めた途端に、ナナミは泣き出した。玄関に突っ立って泣いているナナミの靴を脱がし、手を引っ張ってベッドの上まで連れていく。こんなときのナナミは、なんで泣いているんだと尋ねても答えない。いつまでもいつまでも泣きつづける。

 俺は途方に暮れながら、ナナミの悲しみにつきあい続ける。疲れて先に寝ることもある。怒り出すときもある。でも、今日は様子が違った。ナナミは懸命に泣き止もうとしていた。こんなふうにじめじめしてたら真に嫌われるよね、せっかく来たのに、嫌われるために来たわけじゃないのに。わたしだって本当はこんなのいやなのに。わたしこんなやつじゃなかったのに。なんでだろう、真に対してはどうしてこんなに気持悪いやつになっちゃうんだろう。もういやだよ、としぼり出すように言って、ナナミは再び泣き始めた。


 今はナナミの気持が痛いほど分かった。でもそれが分かるようになったのは、俺が月野さんに恋をしたからだった。ナナミの肩に腕を回して抱きしめて、小さい背中をさすりながら、ごめんと心の中で謝る。ナナミは気持悪いやつなんかじゃないし、もしそうなってるとしたら、そうさせてるのは俺なんだ。全部俺のせいなんだ。

 キスをする。涙でぬるぬるする。海の味がする。指で涙を拭いながらキスをする。そしてベッドの上にゆっくりとナナミを横たえて、抱きしめる。抱きしめながら俺は、はっきりと自覚した。こんなに俺のことを好きでいてくれるのに、ナナミじゃダメなんだ。月野さんじゃなきゃダメなんだ。ナナミのことは嫌いじゃない。何が違うんだろう。腕の中でナナミの痙攣が少しずつ治まっていった。ナナミは泣き止んで、俺の顔をじっと見た。それから力をこめて抱きついた。


 服を脱がし肌を露出させ、ナナミの体を食い入るように見つめた。俺はすべての神経をナナミに集中させた。首筋から鎖骨へ乳房へと、唇をはわす。どうすればもっと彼女の体が感じるか、そのことばかりを考えた。何度もキスをしていると、ナナミの体の力が抜けていった。次第にナナミの呼吸が荒くなり、声が洩れ始める。服を脱がせて自分も脱ぐ。もっと、もっとよくしたかった。

 挿入すると、天井に甘い声を投げてすぐにナナミはいった。もっといかせたい。俺が腰を引き寄せたそのとき、彼女が俺の腕をつかんだ。


「ごめん、痛かった?」


「そうじゃない。けど、」


「けど何?」


 ナナミの眉が真ん中に寄って、苦しそうな表情になり、固くつむられた目から、またぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。それから力をこめて両手で俺を突き離しながら、ナナミは叫んだ。


「少しは、わたしを求めてよ」


 俺はナナミからゆっくりと離れた。股の間から、ピンク色のゴムの中でうなだれているペニスが見えた。ゴムを外す。べとべと手にくっつくそれを、ゴミ箱に投げ捨てた。


「もう泣いてもいいよね、わたし失恋したんだから」


 ナナミが突然そんなことを言った。なんで、とつぶやいてみて、それが否定の言葉じゃないことに気がついた。ナナミは肌色の四肢を抱え込み、壁を向いて静かに泣きはじめる。部屋の中をナナミの泣き声だけが支配する。聞き慣れた嗚咽。俺は彼女を泣かせてばかりだった。

 俺はベッドに腰かけて頭を抱える。本当に終わってしまうのだろうか。楽しかった思い出やシーンが浮かんで、泣きそうになった。でも俺には泣く資格がなかった。俺が涙を流すとしたら、それは自分のためだからだ。自己嫌悪も自己憐憫も、すべて自作自演の涙だからだ。


「風邪引くからこっちにおいでよ」


 いつの間にか、ナナミは掛け布団を被ってこちらを向いていた。俺の腕を引っ張って、掛け布団の端を持ち上げている。クーラーが利いてきて、確かに肌寒かった。言われるままナナミの隣にもぐりこむ。泣きそうな顔を見られたくなかったので、俺は布団の中に顔を完全に隠して小さく丸まった。柔らかな二つの塊に顔をうずめる。落ち着いていく。ナナミがそっと俺の頭に手を添える。こうしていたい。いつまでもこうしていられればいいのに。


「全部知ってたんだってね」


 そう言ったナナミの声は、もう震えていなかった。


「浮気してごめん、でもさ」


 顔を持ち上げようとしたのを、ナナミの手が押さえつける。俺は胸に顔をうずめたまま動けない。


「真が知ってて、なのに何も言わなかったって分かったとき、わたしはもう真の好きな人じゃないんだ、もうダメなんだと思った」


 ナナミの声はやさしくて、少しも俺を責めてなかった。ますます、いたたまれなかった。


「わたしばっかり真を好きだったね」


「そんなことない」


「そんなことあったんだよ。そんなことないって思いつづけてきたけど、もう無理。すごい好きだった。こんなに人を好きになったの初めてで、どうしていいか分からなくて、自分が自分じゃないみたいで苦しかった。でも真を責めてもしょうがない。しょうがないって分かってたんだ、好きのバランスが違ったらこうなってしまうのはしょうがないって。せめて近くにいれたらよかったのにな。わたしもこんなに変にならなくてすんだかもしれないのに」


 俺は顔を布団から出す。声だけ聞いていたら泣いているとは思わなかったのに、ナナミは静かに涙を流していた。胸が痛かった。ごめん、と俺はつぶやいた。


「ほかに好きな人がいるの?」


 と、ナナミは尋ねた。俺はナナミの目を見ずに、うなずいた。


「ごめん」


「その人とはうまく行きそう?」


「いや、あんまり望みない」


「いい気味」


 ナナミが涙まみれの顔のまま、ふふふと笑った。ひでえ、と言って俺も笑った。


「そっちはどうするんだよ。俺が言うのもなんだけど、ナナミは西山にはもったいないよ」


「わたしもそう思う」


「ひでえ」


「ね、わたしもそう思う。こんなひどい女、さっさとやめたらいいのにね」


 でも、そういうわけにはいかないんだよね、恋しちゃったらしょうがないんだよね。ナナミは他人事のようにつぶやいた。うん。俺はうなずく。西山がナナミを好きなのも、ナナミが俺を好きなのも、俺が月野さんを好きなのも、月野さんが北川浩二を好きなのも、しょうがないんだ。


「ねえこのまま寝ていい? ずっと眠れなかったけど、真の腕の中なら眠れる気がする」


 俺はナナミの頭を両腕でそっと包みこむ。しばらくすると、本当にナナミの寝息が聞こえてきた。俺はナナミの寝顔を眺めながら、ナナミに恋していたときのことを思い出そうとした。いや、今もナナミのことを好きだった。つきあい始めたときと同じように好きだった。でもそれは、月野さんを思うときのような、自分で自分の制御ができない激しいものではなく、おだやかな陽射しのような感情だった。俺に好きな人ができなかったら、あるいは俺とナナミが近所に住んでいて、いつでも好きなときに会って、ほかの人に目移りする暇がなかったら、俺はナナミと結婚したかもしれない。おだやかな好きを温めながら、同じ東京で就職して、数年したら結婚式を挙げて、子供を産んで育てて、俺たちは一緒に年を取って。

 いや、違う。それは都合のいい幻想だ。俺がこれ以上ナナミのことを想えない限りは、二人の関係のバランスはいつでも不均衡で、ぎしぎしと音をたてて、きしみはじめるだろう。


 腕を外して枕の上に頭を横たえても、ナナミは起きなかった。俺はナナミと結婚する美しい幻想を小さく小さく丁寧にちぎってゴミ箱に捨てた。眠ろうと目をつむったけれど、一睡もできなかった。やがて、いつもどおりの朝が来た。

 もう少し泊まっていけばいいのに。俺は引き止めたが、バイトがあるからと言って、次の朝ナナミは京都を発った。


「あのさ、お前、西山と俺と両方好きって言った?」


 京都駅に行くバスを待っている間、俺はふと思い出してナナミに尋ねた。ナナミの瞳が俺の顔を見て、ぴたりと止まった。そして、ナナミは真剣な顔で、きっぱりと答えた。


「言ってないよ」


「そう」


 じゃあね、と言って、ナナミはバスに乗りこんだ。また会えるのか、これっきりなのか、俺からは訊くことができなかった。窓際の座席に座ったナナミは、こちらを見なかった。俺は、バスが見えなくなるまでナナミの横顔を見送った。


 太陽がじりじりと首の後ろを照りつけて、少し歩いただけで汗が吹き出した。うなだれて歩きながら、俺はナナミの最後のセリフについて考えていた。ナナミは言ってないと断言した。最後なのに、そんなことを蒸し返されたくないと思って嘘をついたのかもしれなかった。それともナナミは本当に言ってなくて、西山が俺に嘘をついたのかもしれなかった。でも、西山が俺に嘘をついたのか、ナナミが俺に嘘をついているのか、そんなことはもうどうでもよかった。ナナミが今ここで、二人の男を両方好きだなんて言っていないと、断言したことが重要だった。

 二人の人間と同時に恋愛をすることができるか。ナナミの答えが提出された。そして同時に俺の答えも。あとは月野さんの答えを待つばかりだった。目をつむる。きっとそれは、俺にとって残酷な答えになるのだろう、と思った。ドアを開ける。汚いままの部屋が俺を出迎えた。

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