第7章 最後の営業

 西山からのメールは案外しつこかった。六月に行きたいんだけど、確実にお前に会いたいから、そっちの予定に合わせる。空いてる日を教えてくれ。うぜえ、と俺は液晶に向かって叫んだが、返事は返さなかった。本当は、平日以外ならすべて空いていた。引越しのバイトをどの日に入れるかは自分で申告すればよかったし、平日でさえ、俺がせっせと月野さんの部屋に通うのを一日でもやめれば、いつでも空けることができた。でもいったい、顔を突き合わせて何を話せというのだろう。今までどうやって接してきたのかも分からない。どうする? 俺も現状を告白して同志としてなぐさめあうか? そんなのは絶対にごめんだった。やつの泣き言は聞きたくなかった。


 こうやって俺がメールを無視し続けていることを、ナナミに告げ口するだろうか。いや、できるはずがない。そんなことをすれば、俺がなぜ無視しているのかナナミは考えるだろう。やましいことがあるのだから、どう考えたってすぐにそういう結論に至ってしまう。

 自分でも子供っぽい態度だと思った。俺は怒るべきときに怒り損ねた情けない男だった。その情けなさに対するいらだちを、西山にぶつけてもしょうがない。頭では分かっているのだ。

 メールじゃなくて、電話か直接来いよ、と俺は思った。こんなふうに予告されると気分が萎えるんだよ。身構えるんだよ。

 あとで返事をしようしようと考えているうちに、七月になった。さすがにもう西山からメールが来ることはなくなった。

 



 夕方のキャンパスは、学生で溢れていた。夕方といっても昼間のように、まだまだ明るい。これからが一日の本番といった風情で学生たちが集まっては騒いでいた。食堂はサークルのユニフォームを来た人間たちに乗っ取られていた。

 俺は食堂から離れた外のベンチに腰かけて、構内を眺めて時間をつぶしていた。平日だったけれど、今日は月野さんの部屋には行かない日だったからだ。

 一人になる時間もほしい、と彼女は言った。確かにそのとおりだろう。一人で二人の相手をしているのだ。本来なら、平日は一人で過ごしているはずだ。向こうには一人になりたいなんて言えるはずがない。俺が我慢するしかなかった。


 俺は一人になる時間なんて少しもほしくなかった。一人でいると不安でたまらなくなるからだ。俺が何者なのか、自分で自分が分からなくなる。何をするべきか、何をしたいのか、これからどうするべきなのか。何も分からなくなって不安になる。本を読んだり、勉強をしたり、なんでもやればいいじゃないかと思うのに、何も手につかない。一人になりたいというのは口実で、向こうと会ってるのかもしれないし、もしかしたらもう一人誰か別の男が、なんてことまで考えてしまう。


 彼女が一人でいるはずの平日は、まだいい。北山浩二と過ごす週末が来ると、俺は狂いそうになる。考えないようにしようと努力すればするほど、月野さんが男に向かって笑っている姿が思い浮かんだ。北山浩二の顔なんか知らなかったし、彼女がやつとどんなふうに過ごすのかを聞いたこともない。でもその幻影は、くっきりと俺の部屋に現れる。そして、俺の前でキスをしたりセックスをしたりし始めるのだ。

 春の間はまだ垢抜けなかった新入生たちは、サークルなり友人なりそれなりの居場所を見つけ、集団で我が物顔にキャンパス中を歩いている。俺は去年、自分が新入生だったころのことを思い出そうとしたが、遠い昔のようだった。別に入っても入らなくてもいいと思っているうちにタイミングを逃して、サークルには入らなかった。そもそも何かを始めてみたいとも思わなかった。月野さんもサークルに属していない。歌やギターは好きだけど、仲間が欲しいと思ったことはないそうだ。



 目の前には、一年生の集団が、くっつきあって騒いでいた。クラスの仲間でどこかへ出かけるらしい。

 彼らの一年間を勝手に想像する。大量の勧誘ビラを受け取り、どのサークルに入るか迷って、入ったサークルでちやほやされて騒いでるうちに前期の半分は終わり、授業やら一人暮らし生活やらに慣れる頃に夏休みが来て、バイトや旅行やサークルやらをやっているうちに夏休みが終わって試験勉強に突入して、試験を必死にこなし終わると後期が始まって、正月やら試験やら宴会やら、気がつけば二年生になっているのだ。大学の門をくぐった途端、時間はむやみに流れていく。

 でも、俺の日常は、サークルやバイトにいそしむ彼らよりも不毛だった。恋人のいる女の子と逢引を続ける日々。


 金曜の朝、月野さんが一時間目の授業のために先に出て行った部屋を、俺はきれいに片付ける。自分の部屋は片付けられないのに、彼女の部屋だと不思議と体が勝手に動いた。そして俺は、自分の痕跡をすべて消し去ったことを確認して、部屋を出る。あとは夕方、彼女が帰ってきて、最後のチェックをして北山浩二を迎え入れる。

 合鍵で戸締りをするときに、自分の心にも鍵をかける。土日はバイトで体を酷使して寝る。そして月曜日、俺は彼女の部屋に戻り、鍵を開ける。彼女の体や部屋に残されているやつの痕跡に、俺の印をひとつひとつ上書きしていく。



 月野さんの前では、いつも笑っていようと決意していた。


「こんなこと続けてて、わたしは君にひどいよね」


 ある日、月野さんは言った。


「なんで?」


「だって」


 口ごもる月野さんの前で、俺は本当に不思議そうに首をかしげ、にっこりと笑う。もし俺が不安な様子を見せたり、このままではいやだなんて言い出したりして、どちらかを選べと言ったら、月野さんは間違いなく向こうを選ぶだろう。手を離されるのは俺のほうだった。そのときは悲しんでくれるかもしれないし、つらい様子を見せるかもしれない。でも、それでおしまい。その先はない。そんなのは絶対いやだった。


「君にこうやって会えて、俺幸せ」


 まあでも向こうに悪いよね、と付け加えることも忘れない。

 うん、そうだね、確かに向こうに悪いよね、と月野さんは安堵して笑う。またしても、たやすくだまされる彼女を見て、俺は笑顔のまま絶望する。


 そんなことを思い出しながら、今、俺はぼんやりと景色を眺めつづけている。桜が咲いた。桜が散った。雨が降った。セミが鳴き始めた。俺の前で景色は変わり続けていたはずだったが、実感がなかった。俺の世界は、月野さんの部屋の中にしかなかったからだ。そこは季節も移ろわない。幸せのようなものがエンドレスで繰り返される。テープレコーダーの歌のように再生されて、また巻き戻される。何度でも再生することはできるけれど、どこへも行けない。俺はどうしたいのだろう。擦り切れるのを待っているのかもしれなかった。


 彼女の予定に合わせるために、授業をさぼることも日常茶飯事になってしまったし、バイトは土日にしか入れられない。ナナミへの連絡もおろそかになる。いったい俺は何をしているのだろう。そしてここへ何しに来たのだろう。そもそも何かをしに来たわけじゃないのだ。だからこんなふうに、何も考えずに時間をムダづかいできるのだ。その代わり、最後につじつまを合わせることを迫られる。たとえば就職をする。院へ行く。そうすれば、大学に行ったことにそれなりの理由があと付けで生まれる。


 でもじゃあ、就職すればそれで終わりだろうか。きっと俺は、毎日会社に行きながら、何しにここへ来たのだろうなんて考えることだろう。


 いつか読んだガルシア=マルケスの小説の冒頭を思い出す。


――満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生日祝いにしようと考えた。


 俺の九十歳。そんなものが来るとしたら、いったいどんなものだろう。案外簡単に想像することができる。俺は一人でいて、日当たりのいい古びた賃貸アパートの一室で、電線にとまったスズメの群れを眺めながら、猫のようにうつらうつらしている。ときおり、介護を職とする人間が訪れて俺の世話をする。俺は前の訪問日とまったく同じ話をして、介護の人間を微笑ませる。木が朽ちるようにからからにひからびて死んでいくのがいい。生命が朽ちると同時に、ひからびた体に閉じ込められた九十年の時が解放され、また世界を循環する。

 九十歳の俺は想像できても、九十歳になるまでの俺が少しも想像できなくて途方に暮れる。朝、目が覚めたら俺はもう九十歳だった。そんなことがあればいいと本気で思う。寿命をまっとうさせて朽ちることができれば、つじつまを合わせることができるだろうか。それとも、つじつまを合わせる必要なんてない、と開き直れたら楽になれるのだろうか。



 そのとき、月野さんから電話がかかってきた。俺は九十歳から二十歳に戻ってくる。音のない想像の世界から、夕日の照りつけるこの世界に戻されて、重力に屈して地面に貼りつけられる。月野さんがいる限り、俺はここから逃げられない。


「今、暇?」


 と、月野さんは言った。会えるということだろうか。俺は自分でも恥ずかしいくらい浮かれた声で、暇と答えた。だが、家に来てと言われると思った俺の期待は外れた。


「変なお願いなんだけど、美容室に行ってくれないかな? わたしの代わりに」


「何しに」


「美容室に行くんだから、髪を切りに」


「誰の髪を」


「君が行くんだから、君の髪を。今日の六時から予約してたんだけど、行けなくなったの。キャンセルするのもったいないから行ってきて」


 言ってる意味が分からなかった。もったいないって、お金を払ったわけじゃないだろう。


「なかなか予約取れないから、もったいないの。店の場所は、あとでメールするから」


 結局行くことになった。どうせ俺は暇だった。電話を切って、ベンチから立ち上がる。大量の自転車をかきわけて、奥に追いやられてしまっている自分のを取り出し、またがった。もう一度携帯を見る。着信メール一件。月野さんからだったが、携帯サイト用の店のページのリンクがあっただけで、言葉は何も添えられていなかった。

 俺は髪をつまんでみる。そういえば前髪が目の前をちらちらするし、えりあしが伸びてそろそろ切ろうと思っていたところだった。彼女が予約した店に行くというのも、なんだかうれしいかもしれない。俺は携帯をポケットにしまって自転車を発進させた。

 口ぶりからして有名な店のようだし、きっと三条あたりにあるのだろうと思っていたが、地図は意外にも京都の中心街から少し外れた場所を指していた。大学の近くで、自転車で五分もかからない場所だった。



 あたりは閑静な住宅街だった。背の低い建物が体を寄せ合うように建てられている。南に向いた二階の窓には、すだれがかけてあった。通り過ぎてしまわないように、自転車を降りて歩いていく。白檀の香りがして立ち止まると、家と家の間の小さなスペースに、お地蔵様が祭られてあった。新しい花が活けてあり、線香の白い煙を立ち上らせていた。

 こんなところに美容室なんてあるんだろうか、と疑いかけたとき、ぽっかりと視界が開けて、広々としたスペースが現れた。オフホワイトの壁の直方体の建物に大きな窓が二つついている。ドアもガラス張りだった。陽光でオレンジ色に輝く店内には、濃い茶色の藤製の椅子とシンプルな鏡が配置されているのが見えた。真新しい建物なのに、周りの家々と自然に調和していた。美容室というよりは、しゃれたカフェのようだった。


 思い出した。そういえば以前、月野さんが話していたことがあった。すごく人気があって、落ち着けて、気持よくて、腕も良い美容室があるのだと。女の子の美容室に対するこだわりはよく分からなかったが、彼女がそんなふうに手放しで何かをほめるのはめずらしかったから、よほどいいのだろうと感心して、よくそんなとこ見つけたねと言うと、月野さんは、彼に教えてもらったの、彼の友達がやってる店なのと、無邪気に答えた。聞かなくていいことを聞いた、と俺はそのとき思った。

 ようやく予約が取れて、それを楽しみにしていたのに。いったいどうしたんだろう。

 ドアを押して中に入った。きんと冷えた空気が体を包んだ。その瞬間、ふと、月野さんは、社会人の彼氏の友達の美容師に、俺のことをなんと言って紹介したのだろう、という疑問が頭をよぎった。だけど、いまさら引き返すわけにはいかなかった。中に入って、部屋を見回す。客は誰もいなかった。かといって、今開けたばかりという様子でもなかった。椅子も鏡も空調も、ただいま仕事中という感じでかしこまっていた。


 部屋のちょうど中央に、一人の女性が座っていた。キャスターのついた美容師用の丸椅子に腰掛けて、ぼんやりと俺を眺めていた。この部屋の雰囲気は、すべて彼女が作っていた。少年のようにつんつんと立っている短いヘアスタイルで、健康的な細い首がすっかりあらわになっていた。悲しくて透明な目だった。俺はここに来た目的を忘れて、その目にみとれていた。きれいなのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。

 背筋を伸ばして、彼女が立った。俺に向かって笑うと「いらっしゃい」と言った。部屋の中に風が吹いた気がした。俺は何も言わず、ただ見つめていた。


「せっかく来てもらったのに悪いんだけど、今ね、予約のお客さんを待ってるところなの」


 親しげな調子で彼女は言った。俺は月野さんの名前を告げて、代わりに来たことを話した。どうやら事前に連絡していた様子はなさそうだった。


「りり子ちゃんの友達?」


「まあ、そんなようなものです」


 と、俺は答えた。りり子という響きが新鮮だった。そして、ちゃん付けされる月野さんというのも新鮮だった。俺の知らないところで月野さんは恋人としっかりとつながっていて、そのつながりを承認している誰かがいる。



 彼女は鏡の前に置いてあった椅子をくるりと反対側に向けて、俺に座るようにうながした。俺が腰を下ろすと、キャスターをころころ言わせながら椅子を移動させ、俺の目の前に座った。切り抜きやらヘアメイクの雑誌やらを持ってくるわけでもなく、デッサンでもするように俺の全体をぼんやりと眺めている。そして、唇をぽかっと開けて「あ」という形を作った。


「自己紹介が遅れたね、ごめんね」


 一枚の名刺をくれた。花の透かしが入った白い名刺だった。余白がたっぷりとあって、簡素な字体で小さくshioriと書いてあった。シオリ。


「さて、どうしようか」


 白い開襟ブラウスが俺の顔のところにせまった。声の調子がここにいないような感じだった。俺の髪を見ながら、すでに完成し終わったヘアスタイルを見ているのかもしれない。どんなふうにと言っても、俺に思いつくことは、「短く」ということくらいだった。


「おまかせします」


 あまりにも情けない答えだと思ったが、仕方がない。そもそも髪型についてどうしたいとか思ったことがない。触っていいかな、と言って、シオリさんは俺の髪を中指と人差し指で挟んだ。そしてそれをじっと見つめる。そういえば昨日は頭を洗っていない。きっと汗と皮脂で汚れているだろう。


「あの、俺、昨日頭洗ってないから」


「大丈夫よ、今から洗うから」


 そうじゃなくて、と言いたかったが、髪に集中している彼女を邪魔するのも悪くて、口をつぐんだ。何度もあちこちの毛束をつままれる。視線を落とすと、胸元に目がいってしまうし、髪をつままれているから顔を横に向けるわけにもいかなかった。彼女と目が合わないのをいいことに、俺は無遠慮に相手の顔を見つめる。唇は微笑んでいて、目は優しく光っているのだけれど、やっぱりなぜか悲しそうだと思った。唇が、また「あ」という形に開いた。彼女の視線が俺の髪から滑り降りてきて、ぴたりと留まった。白いブラウスの腕に、俺の髪の毛が一本落ちてひっかかっていた。シオリはその髪を見つめていた。妙に恥ずかしかった。手を出して髪の毛なんか払い落としてしまいたかった。が、彼女は腕を動かさないように慎重に維持したまま、反対の指でその髪の毛をつまんだ。そして、そっと足元に捨てた。


 シオリが立ち上がり、シャンプーをしましょうと言ったので、俺は何かを言うタイミングを失った。


「カバンと上着は」


「そこに置いて」


「でも次の客が来たら」


 すでにシャンプー台に移動していたシオリさんは、カバンを抱えている俺を振り返って、笑った。


「次のお客さんは来ないの。あなたが最後のお客さんよ」


 最後って、俺が終わったら今日は店を閉めるということなのだろうか。椅子の上にカバンと上着を置いて、移動する。ほかに誰もいない美容室。何だかぜいたくな気分だった。


 店の中にいるスタッフは、シオリさんだけのようだった。なかなか予約が取れないなんて言っていたけど、一人でやっているからなのだろうか。でも鏡は三つあったし、シャンプー台も二つある。

 椅子が倒される。頭の上の方で、シャワーの音が聞こえ始める。音が耳元に近づいてきて、一斉に頭皮を刺激した。余計な考え事が毛穴から外へ出て流れていくような気がした。俺は緊張していたが、あまりにも気持がいいのでどうでもよくなった。目をつむった。


 シャワーの音が遠ざかり、髪が泡に包まれる。バラの香りがする。長くて細い指が、ぬるりとすべりこむ。体中の力が抜けていく。頭だけじゃなくて、全身を触れられているような気分だった。体の中にも指がすっと入ってきて、固まった何かがもみほぐされていく。

 気持がゆるんで、なんだか泣きたいような気分になった。少しだけ力んだ。美容室でシャンプーされながら泣く男なんて聞いたことがない。


「あとで全部流すから、大丈夫」


 シオリさんがささやいた。


「ここではみんなそうだから。それに今日は、ほかに誰もいないし」


 何のことを言っているのだろう。聞き返すより先に、俺の目から涙がこぼれた。指が俺をマッサージする。ぼろぼろと涙がこぼれ続けた。閉じたまぶたの端からどんどん流れ落ちていく。なぜ俺は泣いているのだろう。月野さんを思い浮かべそうになって、その像をむりやり、かき消した。


「流すね」


 シャワーの音が再び近づいてくる。さっきよりも少しだけ熱い雨粒に包まれる。雨が上がると、心は少し晴れていた。蒸しタオルを手渡された。ほかほかと温かいそれで、顔を拭いた。

 鏡の前に座ると、シオリさんはきゅっと口を閉めて、俺の髪に向かってうなずいた。それから、髪の毛を素早くブロックに分けて固定すると、ハサミを鳴らし始めた。俺は頭を動かさないように努めた。でも鏡に映っている自分を直視するのもいやで、鏡ごしにシオリを眺めていた。ハサミの音が一定のリズムで鳴っている。


 俺とシオリさんの間の共通の話題と言えば月野さんで、きっとその話題は北川浩二についても発展していくだろう。聞きたいけれど聞きたくない。そんなことを考えながら緊張して椅子に座っていたけれど、シオリさんは月野さんの話をいっさいしなかった。


 ちょっとした沈黙が続いたそのあとに、手を動かしながら、シオリさんがふと何かをしゃべった。たわいもない一言だったと思う。それをきっかけに俺の口は次々にいろいろなことをしゃべりはじめた。本の話もしたし、大学の話もした。なぜか高校時代のことや中学校のこと、小学校のことまで話していたように思う。鏡を見ると、楽しそうに笑っている自分の顔があって、あわてて顔を引きしめた。なんでこんなにしゃべっているのだろう、と思った。テレビドラマやニュースの話が分からない俺は、いつも人の話の曖昧な聞き役だった。どうしてこいつらは、こんなにくだらない話を楽しそうに話しているのだろうと、不思議に思いながら相槌を打つのだ。でも、シオリさんの前では違った。月野さんのこと以外で、これだけしゃべることがあったことに、俺は自分で驚いていた。


 気がつくとカットは終わっていた。シオリさんはハサミを止めて、鏡の俺を眺めている。もう一度流してブローしてバランスを見ましょう、と言われて立ち上がった。もうこの時間が終わるのかと、俺はさみしくなった。

 髪の毛を流すのもブローもあっという間に終わった。鏡を見ると、さっぱりした頭の自分の顔が映っていた。


「すごく俺っぽい」


 シオリさんはくすくすと笑いながら、それはそれはありがとうと言った。笑い事ではなかった。今までは、近所の理容室に行って適当に切ってもらっていたのだから、見違えていた。


 ケープを取って立ち上がる。仕事が終わったとたん、シオリさんの目はあのどこか悲しい光をたたえた目になっていた。


「俺ばっかしゃべって申し訳ないから、次のときはそっちの話を聞かせてほしいです」


 お金を払うときに、思わず口走ってしまった。明らかに変なやつだった。俺は自分の口から出た言葉に責任が持てず、恥ずかしくなった。シオリさんは笑いもせず、いやな顔も見せなかった。じゃあ今度ゆっくり話しましょう、と言って、胸ポケットからもう一枚名刺を取り出し、ペンで携帯電話の番号を書きこむと手渡してくれた。


「次はないの。この店をやめるから」


 りり子ちゃんにも直接言いたかったんだけど、と、シオリさんは長い指先で名刺を指差した。


「電話してって言っておいて」


 なんでやめるのだろう。この店がなくなってしまうなんて、もったいない。何か言いたかった。でも何を言っていいのか分からなかった。とまどっていると、ありがとうございましたと営業用のあいさつをして、シオリさんは微笑んだ。


「またお越しくださいとは言えないけどね」


 それから、俺に向かって目を細めながら笑って、じゃあまたねと言った。俺は名刺をカバンのポケットにしまうと、うなずいて外へ出た。自転車を押しながら、振りかえり振りかえり歩いていった。シオリはまだ入り口の外に出ていて、俺を見送ってくれていた。曲がり角を曲がる。その瞬間、シオリさんもあの店も消えてしまったような気がして、さみしかった。



 その日はそのまま家に帰った。一人で部屋にいるといつも落ち着かないのに、めずらしく気持が晴れ晴れとしていた。部屋を片付け、近所のスーパーに買い物に行き、晩メシに一人分のチャーハンを作って食べた。

 寝る前にナナミに電話をした。だらだらと話しているうちに髪を切った話になり、そのうちに写真を送ってとせがまれたので、鏡ごしに携帯で自分の顔の写真を撮って送った。自分で自分の写真を撮るなんて初めてだった。どんな顔をしていいのか分からないまま、でもシャッターを押す瞬間に一応笑ってみた。できた写真は口の端をゆがめた、笑っているのか怒っているのか分からないみっともないものだったが、それを見たナナミは、いいじゃんいいじゃんとはしゃいで喜んでくれた。月野さんに見せる前にナナミに見せたことで、日頃の罪悪感が少しだけ薄れた気がした。


 電話が終わったあとは、返却期限がとっくに過ぎてしまった図書館の本の中から一冊を選んで、読み始めた。久しぶりに集中できた。気がつくと、寝る時間になっていた。その夜、よく眠れたのもシオリさんのおかげだった。目覚めたとき、もう二度とあの店に行けないのだということを思い出した。ひどくさみしかった。



 次の日、俺は月野さんの部屋で、彼女の帰りを待っていた。彼女は大学から帰ってくると、俺の頭をじろじろ見ながら一周して、手をたたいて笑った。


「どう?」


「すごくかっこいい。もう学校で君にそれを言いたくてしょうがなかった」


 顔がにやけた。


「でも、君は急に行けなくなって残念だったね」


 しかももう、店をやめると言っていた。次がないのだ。残念どころじゃないだろう。でも、店をやめることはシオリが自分で言いたいと言っていたから、俺はそれを言うわけにはいかなかった。月野さんは、残念かどうかには答えず、


「シオリさん、何か言ってた?」


 と、尋ねた。


「伝えたいことがあるから電話してって」


「電話はしない。しゃべりたくないから。伝えたいことがあるなら君から聞く」


 俺は驚いて月野さんを見る。あの優しい目のシオリさんに対して、こんなふうに敵意に満ちた言い方をする理由があるのだろうか。でも、なぜと訊くことを俺は許されていなかった。


「店をやめるんだって。俺が最後の客だった」


 月野さんは少しだけ驚いたように眉根を寄せたが、そう、と言ったきり話題を転換させた。授業の話や今日の夕飯の話、作りかけの歌の話。俺はもう少しだけ、なくなってしまう店について思いを馳せていたかった。月野さんとその思いを共有できるものだと思っていたのに拍子抜けして、曖昧な反応しか返せなかった。


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