第6章 二人の関係
連絡をすると言われたけれど、俺は、それをあてにしていなかった。逃げられたのだろうというくらいにしか思っていなかった。
バイトがまだ始まってないにもかかわらず、俺は次の木曜日の夜も電車に乗って、大阪の隅まで出かけていった。電車に揺られながら、もし、彼女があの場所にいなかったら、俺はとても傷つくのだろうと思った。だけど、俺はためらわなかった。俺の感情や、月野さんにかける迷惑は無視して、俺は俺の目的を遂行することに決めたのだ。
月野さんは、いつもの場所で歌っていた。俺は、私服のまま、向かい側のシャッターにもたれてギターを聞いた。曲の終わりに拍手をすると、月野さんは俺を見て、照れくさそうに、にっこりと笑った。
最後まで聞いて、一緒に電車に乗って京都まで帰った。席は空いていた。月野さんをうながし、進行方向を向いた二人掛けのシートに並んで腰かけた。俺は、まるで先週の出来事がなかったかのように、鈍感な男を演じつづけた。彼女も、先週のことについては何も言わなかった。曲について話したり、これから始まる二年の授業についての噂をしたり、たわいもない話題で時間を塗りつぶした。
会話が途切れてしまうと、月野さんは、少しだけ顔をそむけて窓の外を見た。黒い窓は、外の景色を映さず、街の明かりだけ丸く点々と浮かび上がらせていた。俺も窓に目をやった。そこには、月野さんの横顔がくっきりと映っていた。しゃべらない月野さんの顔は、硬質で冷たく、何を考えているのか分からなかった。その横顔に向かって、結局俺はどうなるのか、と尋ねたい衝動を何度も抑えた。焦っては駄目だった。答えが確実に俺の望むものになるまで、じっくりと待たなくてはいけない。
何かを思い出したのか、月野さんが振り返って、再びしゃべり始めた。俺は相槌を打っていたが、話の内容は頭に入っていなかった。よく動くまつげと、なめらかな唇に見とれていた。相変わらず勝算はないけれど、可能性はゼロではない、と、屈託のない笑顔を見ながら、俺は考えていた。罠にかけているようで、少し胸が痛んだ。
木曜日以外の日は、毎日のように引越しのバイトを入れた。四月までは大学も春休みだし、塾のバイトも休みだった。ナナミは高校のときの同級生たちと旅行に行くのだと言っていたし、一人で暇をしていると、月野さんからの連絡をいつまでも待って悶々とするのが目に見えていたからだ。
余計なことを考えないよう、体を動かした。たくさんの荷物を運んで、たくさんの家に踏み入った。あるときは希望に胸をふくらませた新入生の一人暮らしの部屋に、真新しい家具を運び入れた。家族連れの引越しもあった。巨大な綿ぼこりが転がる部屋の中を、俺はせっせと歩き回って片付けた。そうやって、俺は俺の日常も片付けていった。簡単だった。気がつけば新学期が始まり、俺はそれなりの金を手に入れていた。
二年生になった。新しい学年が始まったといっても、別に中学や高校のようにクラス替えがあるわけでもない。代わり映えしない大学の授業が始まるだけだった。シラバスをにらみながら、どの授業が楽に単位を取れるかという情報をクラスメイトと共有しあい、もれのないよう最低限のコマを埋めた受講届けを事務に出せば終わりだった。ただ違ったのは、月野さんの横で相談しながら同じ授業を選ぶことができることだった。
授業の合間に月野さんとしゃべったり、一緒にランチを食べたりもした。恋人がいる二人が友人としてしゃべっているのを、いちいち騒ぎ立てるほどのガキはさすがにいなかったが、やっぱり二人が並んでしゃべっているのは、あまりにも目立ちすぎた。
噂になったら月野さんに迷惑がかかる、でも二人で会いたい、どうしようか。俺は、ほかに方法がないというように困って見せて、部屋で会うことを彼女に自然に納得させた。
授業が終わると、それぞれ別々の道を歩いていって、月野さんの部屋に集合した。毎晩彼氏から電話がかかってくるから、俺の部屋ではなく、月野さんの部屋のほうが都合がよかったのだ。合鍵をもらっていたから、先に入って待っていることもできた。中に入るときに周りをうかがって素早く滑りこむことを除けば、ほかは普通の恋人と変わりがなかった。
外で一緒に夕飯を食べているのをクラスメイトに見つかったら困るから、毎食自炊をした。たいていは俺が作った。彼女がおいしいと言ってほめてくれると幸せだった。一人で作っていたときのような腹がふくらめばいい料理をやめて、本を読んで熱心に研究した。
月野さんは、ときどきギターを取り出して歌ってくれた。近所迷惑になるからといって、路上で弾いているときのアコースティックギターではなく、ピンク色の小さなエレキギターをアンプにつながずに弾くのだった。電気の力を借りないエレキは、輪ゴムを弾いたような情けない音しか出なかったが、耳を澄ませばそれなりにコードのハーモニーが聞こえてきた。月野さんは相変わらず、なんだか妙に間の抜けた、それでいてほっとするような曲ばかり歌っていた。
ギターは月野さんが以前つきあっていた恋人から教わったものだった。それをうっかり言ってしまって以来、ギターの話をすると不機嫌になるから、彼氏の前では弾けないそうだ。でも、月野さんの左手は指先の皮がむけて固くなっている。どうやって弾いていることを隠してるの、と、俺が訊くと、彼女はさみしそうに笑った。別に特に何もしてないけれど、気づかないよ、と。
君が聞いてくれるからいい、と、月野さんは、外に弾きに行くのをやめた。だから俺も割りの悪い遠い勤務地のバイトを辞めた。
月野さんの年上の社会人の恋人は、電車で数駅ほど離れた市街地の寮に住んでいた。平日は職場と寮を往復し、土日に彼女の家に泊まりに来る。だから、君がうろうろしていても出会うことは絶対ない、と、月野さんは断言した。
名前は北川浩二だった。月野さんに聞いたわけではない。彼女が風呂に入っているときや、俺が先に部屋に来たときを利用して、情報収集をしたのだ。引き出しを開け、本棚を探索し、何か有益な情報がないかと家探しをした。罪悪感はなかった。これは俺が恋愛に勝つために必要なことなのだと自分に言い聞かせていたからだ。名刺を見つけて、北川浩二という名を知った。彼女が持っている名刺はこれだけだったから、きっとやつのものに違いなかった。携帯で一応写真を撮ってから、元の場所にしまった。聞いたことのある名前の会社だった。肩書きにはややこしい部署と技術名が書いてあって、どんな仕事をしているのかは、全然理解できなかった。
北川浩二。明朝体で書かれたその文字を、俺は覚えた。覚えたからって、どうなるわけでもなかったが、こっちが向こうを知っているのに向こうがこっちを知らないという状態は、何かが起こったときに少しは有利だろう。何かが起こるって何のことか、それは考えたくなかったけれど。
夕食を食べ終わったころに、決まって家の電話が鳴った。鳴るのは携帯電話じゃなく、必ず家の電話だった。ちゃんと家にいるのかどうか確かめるためだった。事前に彼女が飲みに行くとか友達と遊ぶとか連絡している場合は別だったが、そのときも飲み会の最中に携帯に確認の電話がかかってくるという。ギターを持って出かけていた毎週木曜日は、バイトで遅くなるということになっていたそうだ。
ちょっとごめんね、と断って、彼女は電話の子機を取り上げる。俺から少し離れて「北川浩二」としゃべり始める。遠慮して話を早く切り上げたりテンションが違ったりするとあやしまれるから、いつもどおりにしゃべるんだ、と俺は事前に忠告していた。大音量で鳴らしているMP3プレイヤーのイヤホンを月野さんの耳にあててみせ、これつけるから何も聞こえないよ、と言ってやる。彼女が話している間、俺はソファーで本を広げてくつろいでいる。だけど、それはただのふりで、本当は全神経を集中させて彼女の話に耳を澄ましていた。イヤホンは耳に突っこんでいるが、そこからはなんの音も出ていない。彼女はたやすくだまされ、安心しきって北川浩二としゃべっている。受話器を取り上げるときは、こんな電話は迷惑なんだと言わんばかりの表情で俺と目を合わせるのに、耳に届いてくるのは、甘くて少し困ったような笑い声ばかりだった。彼女が笑うたびに俺の心臓が縮まって、胃が痛くなった。嫉妬に狂いそうになる。でも俺は、彼女の全部が知りたかった。その笑い声のどこかに、本当はやつよりも俺のほうを好きなんだという証拠を見つけたかった。しかし、まだ一度もそれを見つけたことはない。毎回惨敗だったが、それでも、俺は盗み聞きをやめなかった。
寝る前になると、彼女はきっぱりと俺を帰らせた。
「君とはやらない」
と、月野さんは真剣に言った。好きだからやらない、と。その主張に納得はいかなかったが、俺は彼女の決定を尊重する。あの川原以来、キスどころか手を触れてもいない。マンションから出て、道路に止めておいた自転車にまたがる。念のために自転車はマンションから離れた場所に置いてある。定期的に位置を変える。
自転車をこぐと、生ぬるい夜風が顔を包んでは去っていった。川沿いに咲いていた桜はとっくに散って、たっぷりとした緑の葉に覆われている。夏に向かって気温が少しずつ上がっていくこの季節は、何かに追われているような気持になる。今日したことといえば、買い物をしてごはんを作って一緒に食べて、テレビを見たくらいだ。そして、寝る前に家に帰る。俺メイドみたいだな、と思った。笑ってもらう相手がいなかったので、仕方なく一人で声を出して笑いながら、家に帰った。
ナナミには、今までより頻繁に電話やメールをするようになった。月野さんと二人でいるときに、電話がかかってくると困るからだ。ナナミはそのたびに無邪気に喜んだ。いつも連絡するのは、わたしからばっかり、とむくれていたからだ。俺もなんだかナナミとの電話では、今までよりはしゃいでしゃべった。表面的にはおだやかに過ぎていく月野さんとの時間は、ある意味では俺にとっての地獄だったから、ナナミの声を聞くと安心した。もちろん、そんな理由でナナミを喜ばせるのは、後ろめたかった。西山とうまくやってくれているといい、とさえ思った。
月曜日から金曜日までは、大学に行って月野さんの部屋に行って、それから自分の家に帰る日々をくり返す。土日はひたすら引越しのバイトをした。月野さんと会っている以外の時間は、何も考えないようにすることが大事だった。夜は自転車で帰りながらナナミに電話して、家に帰ったら風呂に入って、たまったものを処理して、楽しかった出来事だけを頭の中で繰り返しながら、すぐに寝る。そして朝は、老人のように早々と起きて、今日会う彼女を想像して、希望に胸をふくらませるようにする。
今までは毎日のように本を読んでいたのに、まったく読まなくなっていった。というよりは、もう読めなくなっていた。そんなに一生懸命何をやっているんだよ、現実世界に必死でしがみついてどうするんだよ、と以前の俺なら、この状態を笑うだろう。でも、月野さんという存在が、俺をこの地上にしばりつけて離してくれない。俺はそれに抗うことができないのだった。
五月が終わるころになって、俺はもう、じれて我慢ができなくなっていた。
月野さんは確実に前よりも俺のものになったというのに。こんなにも長い時間一緒に過ごすことができるようになって、いろいろな話ができるようになったのに、何かがおかしいじゃないか。おかしい。彼女の言い分はすごく間違っている。好きだからやらないなんて、生物の本能に反してる。好きだからやるんだろう? 好きだからもっとくっつきたいって思うんだろう?
一時期はナナミともうまくやっていけるような気がしていたが、それどころじゃなくなった。電話をすれば、八つ当たりをしてしまいそうで、そして八つ当たりすることで何かを感づかれてしまうのが怖くて、ナナミに電話をしなくなった。夜、向こうからかかってくるのは、たいてい俺が寝入ったときで、電話を取った俺は確実に機嫌が悪かった。ごめん、こんな時間に寝てるとは思わなくて、とナナミは申し訳なさそうに言った。ナナミのせいじゃない。でも、分かっているのに、俺はいらいらした口調を隠せない。いったい俺は何をしているんだろう。何もかも台無しだった。ナナミとだってうまくやっていかなければ、すべての均衡が崩れてしまうというのに。
気がつくと、俺は月野さんの手首を握って、つぶやいていた。
「好きだからやるんだって」
彼女の手首は細くて、そのまま握りつぶせてしまいそうだった。傷つけてはいけないという気持と、そのまま壊してしまいたいという気持が一緒になって、体温を上げたり下げたりした。
息が荒いのが自分でも分かった。大丈夫だよ、と俺は言った。何が大丈夫なのか、本当に大丈夫だと思っているのか、ただ体の衝動がそう言わせているのか自分でも区別がつかなかった。
「俺としたくない?」
彼女は、目をそらせた。でも、小さく「したい」と、つぶやいた。ベッドに引っぱりこんで押し倒すと、服を急いで脱がしていく。
何かが変わってしまう気がする、と下着だけになった月野さんがつぶやいた。水色のレースに包みこまれた白い乳房に、俺は両手でそっと触れた。どきどきと脈打っていた。大丈夫だよ。キスをして口をふさぐ。ショーツを脱がせる。彼女を抱きしめる。唇を離すと、彼女はまた、つぶやいた。なんだか取り返しのつかないものを失ってしまう気がする、君を失ってしまう気がするの。手を背中に回してホックを外す。乳房がこぼれ落ち、俺はそれを唇で受け止めた。月野さんはもう抵抗しなかった。俺もシャツを脱ぎ捨て、ジーンズを脱ぐ。
力の加減が分からないまま、夢中で彼女の体を触った。愛撫する余裕も、感触を楽しむ余裕もなく、何をしているのか分からなかった。もっと深く近づきたい、この体に入ってしまいたい。ペニスだけじゃなく、俺の腕も顔も体も全部月野さんになってしまいたいと思った。きっと、年上の社会人はもっとスマートにうまくやるのだろうと思ったら、萎えそうになり、同時に嫉妬に狂いそうになって体が熱くなった。
月野さんの手がすらりと伸びて、俺の髪の毛に触れた。髪の毛に細い指がすべりこみ、するするとなでられた。目が合った彼女が微笑んで、君とできて嬉しいと言った。力が抜ける。俺も彼女の髪の毛に指を入れて、なでる。彼女が目を細める。
落ち着こう。俺は自分に言い聞かせ、それから、キスをしようと提案した。彼女は笑いながら、いいねと言った。俺は唇をふさいで、その笑い声ごと食べてしまう長い長いキスをした。それから彼女がコンドームを俺のに装着して、つながった。
月野さんの背がしなって、体が跳ねた。水色のタオル地のシーツが波をたてている。なぜ早くこうしなかったんだろう。好きだからやるのは当たり前で、それで関係が壊れてしまうなんて、処女じみた感傷じゃないか。乳房をつかむ。処女なんかじゃないくせに。週末はいつもやってくるくせに。動きを速める。彼女の顔がゆがむ。甘い声が唇からこぼれ出る。いとしくて憎らしくてたまらなかった。月野さんはそんな俺の思いとは無関係に、のぼりつづけている。ああダメ、と言って飛び上がるように痙攣した。ひたいに汗が光っていた。それから頬の筋肉がとろけるようにゆるんで、まぶたが閉じられた。
その瞬間、俺は、彼女が一人で抱えて支えていた重い荷物を、すっかり託されたことに気がついた。でも、すべては遅かった。俺は止まらない快楽の中で、精液を放出した。
裸のままベッドに横たわる。月野さんは体を横に向けて、俺の体にぴたりとくっついてる。ベッドの周りは幸せによく似たもので包まれていた。もうそれでいいやと思い、俺は目をつむった。
その日、初めて月野さんの部屋で朝を迎えた。自分の部屋で一人目覚める朝も耐えがたかったが、この部屋で月野さんと一緒に迎える朝も、期待したほどの高揚感はなかった。東向きのベランダから差しこむ白い光に、昨夜のことや今までのことが、安っぽく暴かれていくような気がした。俺は起き上がって服を着たが、月野さんはすやすやと寝息をたててよく眠っていた。
携帯を見るとメールが一件入っていた。ナナミからだろうと思って開くと、西山からだった。タイミングの悪いやつだと思った。こんな日のこんな朝に、やつのことなんて考えたくはなかったのに。
――話があるんだけど。できれば直接話したい。それで、今度京都に遊びに行こうと思うんだけど、お前いつが暇?
いつって言われても、そんときになってみないと分からないから、また、その日が近づいたら連絡してよ。と、俺はメールを打って投げ返した。本当は会いたくなかった。でも、会いたくないと突っぱねてしまうのは、プライドが許さなかった。
話があるってなんだよ。どうせまた、俺がナナミに電話してないからナナミが落ちこんでるとか言うんだろう。お前はいったいなんだよ。俺たちのお目付け役かよ。うるせえよ。俺は口に出さずにののしり続けた。ここが月野さんの部屋じゃなければ、携帯に向かって大声で罵倒していただろう。電話で聞いたあの情けない声が耳にこびりついていた。あれを思い出すと、まるで自分が言っているような気になって、むかむかした。今の俺は西山と同類だった。
「彼女から?」
声がして、いや違う、と答えながら振り向いた。何ひとつまとっていない裸の月野さんが、ベッドの上に足を投げ出して座っていた。寝ぼけているのか、もう俺に隠すものなんてないのか、朝の光に照らし出されていないところはなかった。長い足も黒い茂みも乳白色のしっとりとしたふくらみも、すべてが俺の目の前にあった。毛羽だっていた気持が、とけて消滅していく。俺の頭は、月野さんのことだけでいっぱいになる。
「ねえ、彼女の話してよ」
「いやだ。君の前で話したくない。君こそ、彼氏の話をしなよ」
「聞きたくないくせに」
両足がフローリングに降り立って、彼女がすくりと立ち上がる。裸のまま歩いていってワードロープから下着を取り出して身に着けていく。それから、服を選び始める。なだらかに盛り上がった肩甲骨に羽がついているかのように、部屋の中を軽やかに移動していく。フローリングには一グラムの重さもかかっていないように見えた。
目の前の光景は今、すべて俺のものだった。彼女がそんな姿を俺に見せているということは、二人の関係はまた確実に変わってしまったのだ。それは俺が望んだことだった。すべては俺が望んだとおりに進んでいるというのに、小さな骨がずれ合わさったまま固まってしまったような、奇妙な違和感があった。
フローリングに置かれたクッションに座って、俺はぼんやりと彼女を眺めていた。長袖のコットンワンピースを着終わった月野さんが、すたすたとやってきて、俺を後ろから抱きしめた。大好き、と耳元でささやく。俺は彼女の手の甲にキスをする。そして、俺は今、幸せだ、と自分に言い聞かせる。
その日から俺は、月野さんの部屋に泊まるようになった。毎晩セックスをした。一晩に二回も三回もした。おかげで授業中はよく眠れた。ときどき服を替えに帰る以外は、ずっと彼女の部屋にいた。使用済みコンドームが、深海から打ち上げられた生物のように、一つ、また一つと彼女の部屋のゴミ箱に増えていく。ゴミの日は、金曜日だった。金曜の朝、俺は、そのゴミともに月野さんの部屋を出る。
俺は幸せだったが、それは月野さんの部屋の中だけでかかっている魔法のようなものだった。一人になると、とたんに重く沈んだ。普通のカップルのように外を一緒に歩いて買い物をしたり、電話をしあったり、お互いがお互いを占有したいという思いが止まらなくなった。次から次へと俺の欲求は成長していく。月野さんを全部手に入れるまで止まらないのだろうか。
ナナミとは毎日会わなくても平気だったし、相手が何をしていようとそれほど気にならなかった。男友達と遊んでいても、いちいち妬いたりしなかった。真は冷めてるよねと言われ続けてきたし、俺も自分は冷めているやつなんだと思っていた。でも今は違う。俺が見ていないときの月野さんが何をしているのか、気になって気になって、何も手につかなかった。かかってくる電話に嫉妬し、その電話に向かって笑う彼女を憎んだ。クラスメイトの誰かが話しかけているだけで、いらいらした。ひとときでも離れたくはなかった。
あるとき、月野さんに、一人の時間もほしいと言われた。頭の中では彼女の言うことが正しいと分かっていたが、そんなのはいやだと俺の体がわめいていた。実際に口に出してしまえば、月野さんは困るだろう。困るどころか、あきれて俺から離れていくかもしれない。俺はひどく情けない顔で、うなずいた。心から同意していないことがあからさまに伝わって、月野さんはやっぱり困ったような顔をした。
うっとうしいと思われるのが恐怖だった。迷惑をかけないように、自分の気持を抑える。でも、抑えたものがどろどろと腐敗して頭を支配する。ますます不条理な欲求はふくらんでいく。顔の見えないときは、ずっと電話し続けていたい。何もしゃべることがなくても、ずっとつながっていたい。顔が見えるときは、ずっと抱きつづけていたい。食べる時間もしゃべる時間もいらない。体の一部が少しでも離れたくはない。まるで一時期、俺を悩ませたナナミの状態だった。あのとき俺はナナミに、少し頭冷やして本でも読めば? なんて、のんきなことを言っていた気がする。現実をがつがつとむさぼるのは馬鹿馬鹿しいと思っていた。どうしてナナミはそんなに一生懸命なんだろうと、あきれていた。でも今は、俺がその状態だった。頭の中が、体の中が、俺の意志とは無関係に騒いでいた。本なんか読めるはずがなかった。騒音だらけで、ほかの世界を何ひとつ受け入れることができないのだから。
「俺たち、これからどうなるんだろう」
ある日、俺は、こんなことを口走っていた。口にしたあとに、一体俺は、何を言っているのだろうと驚いた。でもそれは、俺の本心だった。
余韻にまどろんでいた彼女が目を開けて、ぼんやりと俺を見た。それから言葉の意味がさっぱり分からないというように、
「え?」
と、言った。俺を見た黒い瞳が、不思議そうに揺らめいた。
その瞬間、俺は、すべてを悟って冷え冷えとした気分になった。これからどうなるんだろうと思っているのは、俺一人なのだ。もっと言えば、この状態を変えたいと願っているのは、俺一人だった。彼女は満足していた。好きな男二人を順番に愛せる今の状態に、不満があるはずがなかった。もっと以前は、触れあうこともなく二人で過ごしていたときは、お互いの目に焦燥と不満があった。欲求があった。この状況をどうにかしたいと思っていたのは俺だけじゃなかったはずだった。俺は確かに、どうにかしたかった。でも、セックスだけできればいいというわけじゃなかったはずだった。彼女が、好きだからやらないと言っていた意味が、今ぼんやりと分かった気がした。あのときの強い瞳の意味が分かった気がした。でも、すべては遅かった。
彼女は俺の様子を見て、質問の意味を悟ったようだった。そして、答えを出せないことに罪の意識を感じたのか、眉を寄せて唇を噛んだ。ああ、俺は、せっかくの彼女の幸せに水を差してしまったひどいやつだ。これからどうなるのかなんて、俺が一人で考えるべき問題なのに。
髪をなでて、キスをする。ねえ、夏休みになったらどこか旅行へ行こうよ、誰にも見つからない遠くへさ。そこで一緒に手つないで買い物したり、ごはん食べたり、観光したり、カフェで休憩したり、そんなデートしようよ。月野さんは、ほっとしたように笑って、饒舌になる。いいね。女の子の友達と旅行するって言えば分からないよね。どこへ行こうか。そう、そのくらいならお安い御用だというように。
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