第5章 つまり、俺は君が好きだ
決意を決行するのは二日後、木曜日の夜。三月に入ってから月野さんが再びあの場所で歌い始めていることは、すでに先週、確認済みだった。
先週の木曜日、東京に行く二日前だ。大学は春休みになっていたし、三月になって寒さもやわらいできていたから、もしかしてと思って、わざわざ俺はあの町に出かけていった。商店街の入り口で、なつかしい声が聞こえて、俺は立ち止まった。歌はテープで毎日聞いているから、ほぼ覚えていた。でも、本物の声とギターは、テープとは全然違った深みがあって、温かくて涙が出そうになった。数メートル先に月野さんがいるというだけで、俺は胸がいっぱいになった。
でも、姿を現す勇気はなかった。俺はそのまま商店街の入り口で、歌を最後まで聞きつづけた。
俺がいなくても、誰かが彼女の演奏を聞いているのだろうか、それとも誰も聞いていないのだろうか。誰も聞いていないのに歌っている月野さんを思い浮かべたら、胸が痛んだ。でも、そのあとに彼氏が聞いているかもしれないと思った。ますます出て行く勇気がなくなって、俺は別の道を通って家に帰った。これでよかったんだ、と自分に言い聞かせた。来週はナナミに会うのだ。月野さんに彼氏がいてちょうどよかった、と、俺は何度も自分を納得させようとした。だがそれも、東京のファミレスで無効に帰した。
失恋決行日の夜、俺は、私服を着て家を出た。塾はまだ休みだった。今日は、クラスメイトの岩崎真として彼女に話しかけるつもりだった。
月野さんは、今日もいつもの場所に一人でいた。ギターを抱えた姿を目にした瞬間、心からほっとする。もうそれだけで目的の半分を果たせた気がした。月野さんは、小さなメーターを見ながらギターをチューニングしている。顔をかすかに傾けて、メーターの光と弦から漏れる単音を比べている。ときどき手を止めて、顔を上げる。誰かを待っているように、きょろきょろと辺りを見回している。
そんな様子を陰から盗み見ているうちに、だんだん緊張して腹が痛くなってきた。何度も何度も周辺を歩き回って、それから決意を固めて彼女のところに近寄った。
月野さん、と呼びかける。わあ、と彼女は声に出して驚いた。そして、あわててギターを両手で覆い、俺から隠そうとした。いや、隠せるわけないから。
なんて言おうかと迷っていると、彼女は観念したように俺を見上げて、
「実は、わたし、ここで歌ってるの」
と、告白した。あやうく「うん、知ってる」と言いそうになったのを抑えて、へえ、いいじゃんと相槌を打った。見つかっちゃった、と照れ笑いをする。知ってる人に会わないように、わざわざ遠い場所まで来てるんだけどね。
「もっと人の多いところでやればいいのに」
「いいの、このくらいがちょうどいいの。別にプロになりたいとかじゃないし、ただの趣味だから。一人で歌ってばかりだと何か体に溜まって、いっぱいいっぱいになる気がして、誰かに聞いてもらいたくなるんだよね」
でもさ、こんなとこだけどね、毎回聞いてくれる人もいるんだよ、と彼女は言って、辺りをもう一度見回した。
「今日は来てないみたいだけど。冬の間わたし休んでたから、もう来ないと思ったかもしれない。会社帰りのサラリーマンなんだけどね。いつもあそこにもたれて、最後まで聞いてくれるの。今日はその人のために曲作ってきたのにな。いなくて残念」
曲を作ってきたと聞いて、俺の胸は張り裂けそうに高鳴った。
「そいつさ、気持悪くない? いつもいるんでしょ」
「そんなんじゃなくて、サラリーマンって言っても、すごい若い人で、別に見てるだけだし、拍手もしてくれるし、気持悪いどころか逆に居てくれたら安心するというか」
月野さんは大げさすぎるくらいにあわてて、俺の質問を否定した。
「そう、それはよかった」
俺は笑う。笑っている俺を訳が分からないというように見ている月野さんに、
「それ、俺。俺なの」
と、告げる。
「うそ、サラリーマンだよ」
「俺、このあたりで塾講してて、帰りにスーツでここ通るの」
月野さんは、ぽかんと口を開けたまま俺の顔を眺めた。おかえりなさい、おかえりなさい、と、俺は彼女の歌のサビを歌ってみた。あああ、と月野さんは俺を指差して変な声を出した。
「だからさ、作ってきた曲、俺に歌ってよ」
「ええ、恥ずかしいよ」
ためらう彼女を置き去りにして、俺は向かい側の建物まで歩いていくと、いつものようにシャッターにもたれた。
彼女は観念したようにギターを持ち上げると、あぐらの上に置いた。息を吸い込み、かつかつとボディをたたいたあとに歌い始める。そこにいてあたしを見ててね、と歌う。まんまじゃねえか。俺はうっかり出そうになる笑いをこらえて、神妙な顔をした。声は底抜けに明るいのに、ギターの伴奏はどこか悲しくて、短調とも長調ともつかない不思議な曲だった。そこにいてあたしを見ててね。何度も聞くうちに切なくなった。気がつくと曲が終わっていた。俺はいつものように拍手をして、彼女はいつものようにお辞儀をした。
それから何曲か歌を聞いた。寒かったので、月野さんは、いつもより早く切り上げた。俺も今日は最後までいた。ギターをかついでる彼女と並んで、一緒に京都行きの電車に乗った。
電車の中はそれなりに混んでいた。彼女の背中のギターケースは一人分のスペースを取っていて、乗客の邪魔になっていた。ギターケースのネックがうっかり中年男の肩に当たった。男が文句を言いそうになったのを、俺は体でさえぎった。そのおかげで、ドアに背を向けて立っている月野さんの顔が近くにせまった。俺は、目のやり場に困って、落ち着かなかった。
「こんなとこ彼氏に見られたら怒られるよね」
彼氏という単語を彼女の前で口にするのは、初めてだった。月野さん本人の口からは、一回も彼氏の話なんて聞いたことがなかったし、わざわざ登場させたのは、なかなか挑発的だった。でも、あえて口にした。からかうように微笑みながら、少しの反応も見逃すまいと全身を緊張させる。
月野さんは、真顔になってうなずいた。
「そうね」
怒ったのかと思った。でも悲しそうにも見えた。
「というより、わたしがギターをかついであんなところまで行って、路上で一人で歌ってるのを知ったら、激怒すると思うよ」
「知らないの」
「知らないよ」
俺は、とまどって黙ってしまった。動揺したせいで、抑えていた気持があふれそうになる。俺の目が、顔が、口元が、勝手に、君が好きだとしゃべっているような気がする。俺はうつむいた。人を押し分けて、電車の車両を乗り換えて、そのまま去ってしまいたかった。でも、月野さんの強い目がそれを許さなかった。
「君は彼女に隠していることってある?」
俺の質問に対する反撃だった。月野さんが俺の彼女について質問をしたのも初めてだった。俺は、枕元にいつも置いてあるテープレコーダーを思い出しながら、
「あるよ」
と答えた。月野さんは顔を上げて、俺の目をのぞきこんだ。伝わるだろうか。俺が隠しているのが何かということが。
二人が降りる駅は同じだった。終点の河原町だ。あと十分ほどで到着する。
さて、と、俺は自分に号令をかける。何と言って切り出せばいいのだろう。何を切り出せばいいのかも曖昧でぼやけているというのに、気持だけが先走る。席はすでにがらがらになっていたが、座ろうと言い出すタイミングがつかめなくて、二人でドアの横に立ったままだった。彼女と顔をつきあわせているだけで、俺の体は震えている。頭の中でいろいろな言い方を考える。月野さんの返事も勝手にいろいろ考えてしまうせいで、俺は、落ちこんだり立ち直ったり、にやけたり気を引きしめたり、忙しい。それで、月野さんが話しかけたことに気がつかなかった。
「え?」
「今日もバイトだったの?」
そういえば、何もないのにあんな町へ出かけるのは不自然だった。不自然だということにも気がつかないくらい、俺は余裕を失っていた。だから正直に答える。
「いや違う。月野さんの歌を聞きに行った」
月野さんは目を見開いて俺の顔を見て、それからうつむいた。俺は、今まで頭の中でくり返し並べては試してみた言葉を全部忘れて、思ってることを一気にしゃべり始めた。
「考えごとをしていたんだ。ここ数日ずっと考えていることなんだ。考えたからといって答えが出る類の問題じゃないんだけれど、考えるしかないから考えている。でも、俺はそろそろ外へ出ようと思って、ここへ来た。このぐるぐる回って出口のない考えから外へ出ようとして、そして月野さんに会いに行った」
突然自分の名前が出てきたので、月野さんは驚いたように俺の顔を見つめた。俺はまだ何も言えてなかった。邪魔が入るのを恐れて、息を吐き出すと同時に言葉を続ける。
「考えごとの内容はこうだ。人は二人の人間と同時に恋愛することができるかどうか。二人の人間を同時に好きになれるかどうかでもいい。同時に愛せるかどうかでもいい。とにかく、そういうことなんだ」
月野さんが何かを言おうとした。聞きたくなかった。俺は続ける。
「つまり俺は今、彼女がいるけれど、月野さんのことを好きになってどうしようもなくなった。でも、その月野さんには彼氏がいる。どうしたらいいのか分からない。いや、どうしようもできない。だけど、たとえば、二人の人間と同時に恋愛することができるとしたら、どうなるんだろうって考えた。もちろん、そんな都合のいいことが実際にできるわけがないとも俺は思っていて」
まとまらない。俺は次第に焦っていく。言葉を重ねれば重ねるほど何を伝えたいのか分からなくなる。緊急事態だ。ホイッスルを吹いて頭の中の言葉を整理する。急げ。整列しろ。要するになんだ。
「つまり、俺は君が好きだ」
月野さんは、うなずいた。俺の言うことの要旨は理解したというように。よし。俺は、一仕事やり終えて溜め息をついた。
ドアが開いて、まばらに人が降りて行った。俺は肩をすぼめて、それらをやりすごす。再びドアが閉まって電車は走り始めた。ドアから入ってきた外の空気が、俺の頭を冷やした。やり遂げた高揚感が静まってきて、今度は悪いことをしたような気分になってきた。俺は、彼女の大事な場所に突然乗りこんできて、好き勝手なことをわめきたてて、彼女を動揺させている。ああもう。でも仕方がないじゃないか。このくらいは責任を取ってもらわないといけない。俺を恋に落とした責任を、月野さんは取るべきなんだ。あとは、簡単じゃないか。どんなふうにとどめを刺すかだけだ。何を言っているのか分からないというように眉をひそめて、困るよと告げてもいいし、教師が子供を言い含めるように顔の表面だけで微笑んで、ありがとう、でもねと言ってもいい。寒い冗談として笑って流されるかもしれないし、無言で困惑し続けて、ついに俺のほうから発言を取り消すはめになるかもしれない。なんでもいい。早くやってほしい。でもやってほしくない。
彼女の二つの黒く濡れた目は、ななめ上に固定されたまま動かなかった。唇は軽く閉じられ、まだ準備中だというように空気だけがそっと出入りしていた。表情をうかがう。ぼんやりとしているわけでも、困惑しているわけでもなかった。動かない姿勢のまま、懸命に急いでいるように見えた。適切な言葉を探しだしてつかまえようと、焦っていた。俺も口をつぐんだ。待つ番だと思った。
やがて、視線を左右に一回ずつ意味もなく動かしてから、俺をまっすぐに見すえ、彼女はしゃべりはじめた。しゃべりはじめると同時に、白い肌がみるみるうちに紅潮していき、ついに耳まで赤くなった。
「今朝、君の夢を見た。夢の中でわたしと君は、二人で座って、顔をつき合わせて、親密な話をしていた。いつもは二言三言、授業やら本の話をして去っていくだけなのに、そんなふうに長い間話せるのがうれしくて、緊張して、どきどきした。目が覚めてからもどきどきが止まらなくて、これはいったいどういうことなんだろうと思った」
どういうことなんだろう。俺は、その続きを彼女の口から聞きたかった。でも、彼女はまた黙ってしまった。
俺は、じりじりしながら続きを待った。必死に言葉を探している月野さんを見ているうちに、いたたまれなくなってくる。俺は、彼女を苦しめている。「その夢たぶん、俺が念飛ばしたからだよ」なんて笑って、まあ、お互い彼氏彼女いるし、こんなこと言ってもしょうがないんだけどね、と、うやむやに切り上げてしまいたかった。月野さんの目の前には俺の吐き散らした言葉が並べられ、しらじらと光っていた。いっそ、それを全部抱えこんでゴミ箱に捨てて、今のなしなしと言ってしまいたかった。
本当にそうしてしまおうと思って、タイミングを計るために、月野さんの顔をのぞきこんだ。彼女の顔はもう紅潮してなかった。逆に青ざめていた。
「人は二人の人間を同時に愛することができるかどうかという件についてだけど」
俺は神妙にうなずいた。
「わたしもここ最近、ずっとそのことについて考えていた」
俺は、もう一度うなずく。
「もしそんなことがあり得るのだとしたら、わたしは悲しい」
彼女が眉を寄せた。年上の社会人の恋人のことを言っているのだろうか。瞬間、まるでナナミが目の前で悲しんでいるような気がして、何かが喉をせりあがってきた。俺は手で口を押さえる。目の前に西山とナナミがいちゃいちゃしている姿がホログラムのようにたち現れ、消える。俺も悲しい、と初めて思った。
俺たちは無言のまま、お互いをじっと見つめあった。端から見たら、別れ話をしているカップルのように見えただろう。
電車が河原町に到着した。
二人並んで駅の階段を登っていく。四角い入り口からびゅうびゅう風が吹いてきて、震えながら外に出る。月野さんは厚手のコートにマフラーを首に巻き、ブーツを履いていたけれど、ときどき寒そうに体を震わせた。寄りそって抱き寄せられたらいいのに、と俺は思った。ここで二つの体が別々に存在して、それぞれが寒風にさらされていることは、とても非効率的なことのように思えた。
話はまだ終わっていなかったけれど、どこへ行くあてもなかった。今の状態で、バーやカフェに誘うのもおかしい。でも、あてもなく歩いていて、こんなふうに、二人並んで歩いているのを誰かに見つかったら、面倒なことになるだろう。しかも、月野さんは目立ちすぎた。通り過ぎる人がみんな、彼女の顔を一瞥していく。中にはあからさまに立ち止まって、もう一度見直す人までいた。形が整っているというだけじゃなく、一瞬で目を引く何かが、彼女の容姿にはあった。その上、ギターを背負って歩いているから、ますます目立つ。
川岸に降りる。ここなら人も少ないし、薄暗いから誰かに会っても気づかれないかもしれない。月が照っていて明るかったが、鴨川は黒々と闇を流していた。じょろじょろという音だけが聞こえていた。
俺は、彼女の半歩先をうつむいて歩いていた。並んで歩いているのが見つかったらまずいから先を歩いているのに、月野さんは、遅れないように早足でついてくる。そして隣に並ぼうとする。
俺は足を止めた。大きく息を吸いこんで、吐き出した。
「一つだけ確認したいことがあるんだけど」
月野さんが真剣に俺を見る。目の光が強すぎて、にらみつけられているようだった。
「月野さんは俺のこと、どう思っているの?」
彼女はすぐに唇を開いた。でも、言葉を吐き出す前に考え直して閉じる。俺は、彼女に補助輪を与える。
「もし、一度に二人の人を好きになるなんてことがあり得るとしたら、俺のこと好き?」
俺の言葉に彼女の目の光は、ますます強くなっていく。
「そうね。もしそういうことがあり得るのだとしたら、わたしは君のことが好き」
「そう、嬉しい」
俺は微笑んだ。月野さんは照れたようにうつむいた。
彼女が俺のことを好きと言うなんて、予想もしていなかった。だけど、なぜか俺は冷静だった。いやむしろ、彼女が俺のことを好きと言った瞬間に冷静になった。微笑む余裕すら出てくるほど。
俺は再び歩き始める。月野さんは無言で半歩後ろをついてくる。俺の頭は忙しく働いていた。ようやく俺が熱狂から覚めたので働く出番ができたとばかりに、はりきって回転していた。
そう、これで有頂天になるほど俺は単純ではなかった。月野さんと月野さんの彼氏の間に、たった今、何か問題があって、ただのあてつけのために、俺のことを好きだなんて思っているのかもしれなかった。それは大いにあり得ることだった。たとえ俺に好意を感じていたとしても、それは一時的な浮気心かもしれなかった。
でもそれでいい。俺のことを好きと言った、そのことが重要だった。たとえ、一瞬の気まぐれや、恋人へのあてつけだったとしても、構わない。俺は、彼女が二人を同時に好きだという前提を押し通し、それを事実にしてしまおうと決意した。
座ろっか、と言うと、彼女はうなずいた。ギターを安定した場所に置くと、川に続く斜面に先に座りこむ。俺はその隣に座る。こぶし一つ分空けて。触れそうで触れない距離。そのまましばらく黙っていた。少しだけ体を寄せた。腕が触れあった。手を握っても彼女は抵抗しなかった。ねえ、と声をかけても答えなかった。俺は腕を回して、ゆっくりと膝を抱えている月野さんを抱きしめた。
月野さんは腕の中で、全身を緊張させて座っていた。俺のうぬぼれでなければ、それは拒否ではなく、身をまかせることを我慢しているように思えた。キスしようと思ったのに、俺は動けなかった。彼女も動かなかった。そのまま二人、固まったまま夜の風に吹かれていた。
先に動いたのは月野さんだった。彼女は小さな首をそっと折り曲げ、ひたいを俺の鎖骨にくっつけた。そして、そのまま、長い長い息を吐いた。熱い息だった。むき出しの首から熱気が這いのぼってきて、顔が熱くなった。このまま乱暴に壊してしまいたいと思った。月野さんの肩が緊張したようにぴくりと動いたのに気がついて、俺も長い長い息を静かに吐いた。
しばらくの沈黙のあと、顔を上げて言葉をしぼりだすように、月野さんは言った。
「きっと、こんなことを言っても信じてもらえないだろうけれど」
俺はうなずいた。そんなことはない、何を言っても俺は信じると思って、うなずいた。
「君のことが好き」
もう一度言われて、俺の顔はみっともなくゆがんだ。顔も体も力が抜けて、笑い出したくなった。でも、広がっていく幸福を素早くふさぐように、冷たい指が俺の腕をつかんだ。
「彼のことも好き」
月野さんの手は小さく震え、青ざめていた。
「信じてもらえないだろうけれど、両方好きなの。二人同時に好きだなんてあり得るのか、分からない。分からないよ。単にわたしは、君を浮気相手としてつなぎ止めたいから、そう思いこもうとしているだけかもしれない。でも、君と会えなくなったらと思うと苦しい。でも、こんなことをして彼に知られたらどうしようって思う。彼と別れることも考えられない」
「信じるよ」
彼女の言葉をさえぎって、俺は言った。
「そんなわけない、信じないでよ」
月野さんは怒っていた。俺の腕を振りほどいて立ち上がり、それから黒い濡れた目でにらみつけた。
「わたしも信じられないんだから」
「俺は信じるから」
俺も立ち上がる。月野さんが全身を震わせて怒っている。目の光がますます強くなる。血の気の引いた顔の中で、唇だけが不自然に赤かった。唇から白い歯がのぞいて、かちかちと鳴っていた。俺は、彼女の腕をつかんで引き寄せると、唇でそこに触れた。白い歯の間から小さな息がもれて、震えが止まった。彼女の力が抜けて悲しみの印がなくなってしまうまで、何度でも唇を寄せた。
「どうしたらいいのか分からない」
彼女はうつむいたまま、俺と自分の体の間にぽとぽとと言葉を落とす。落下する小さな雫を見つめる。両手を差し出して受け止めたかったけれど、俺にだってどうしたらいいのか分からなかった。
「また連絡する」
彼女は、そう言って俺から離れると、ギターを背負って歩き始めた。俺は立ち尽くしたまま、彼女が遠ざかっていくのを見つめた。止める権利は俺にはなかった。
月野さんが去って、俺は川岸に一人残された。状況は大きく変わったはずだけど、喜んでいいのか悲しんでいいのか分からなかった。君のことが好きという月野さんの声が頭の中に響き、同時に、彼のことも好きという声も覆いかぶさった。同時に好きというのはあり得るんじゃないかと提案したのは自分だったくせに、彼女の口から彼と別れたくないというセリフを聞いて、あっさりと打ちのめされていた。本当は心のどこかで、彼女がとっくに恋人に愛想が尽きていて、俺のものになってくれるんじゃないかと期待していたのかもしれない。でも一方で、俺のことなんか眼中にないだろうとも思っていたのだ。だから、好きと言われてうれしくないはずがなかった。好きと言われたからこそ、月野さんに恋人がいることが突然耐えられなくなったのかもしれない。
川原に止めておいた自転車にまたがって、全力疾走で家に帰った。彼女を抱きしめた感触を思い出すと、すぐにトランクスの中は緊張して固くなった。取り出してしごきはじめる。頭が混乱しているせいで集中できず、なかなかいけない。つい数日前ここでナナミの残り香を嗅ぎながらやったばかりだけど、そのときは月野さんの顔が浮かんで果てた。今日は月野さんのことだけを思い出そうとしたのに、ナナミが邪魔をする。両方好きというセリフを言っているのが、いつの間にか月野さんではなくナナミになる。そうじゃなくて、月野さんだ。そのとたん、顔も知らない年上の社会人とやっている月野さんが思い浮かんだ。俺はその図に興奮して果てた。
緊張が続いたせいか、ぐったりとした。とにかく、ややこしかった。もっと恋愛ってのはシンプルじゃないのか? でもシンプルな世界の中では、恋人のいる月野さんが俺のことを好きだということはあり得ず、俺は彼女と親密に話すことすらかなわないのだ。俺が望んだことなんだ、いや、そもそも言い出したのはナナミじゃないか。
寝る前にナナミに電話をした。寂しくて声が聞きたくなったと言うと、めずらしいめずらしいと、ナナミははしゃいだ。春休み終わるね、二年生だね、真は進路どうするの。そんなことをナナミは言った。まだ考えてないよ、でも就職、東京で決まればいいな。思ってもみなかった言葉が口をついて出た。ナナミを喜ばせるために。俺は何だかナナミに対して優しくなっている。ナナミが西山とつきあい始めて不安定な感情をぶつけてこなくなったように、俺も月野さんのおかげで、ナナミに対していらいらしたり、物足りなく思って不満を見せたりしなくなるのだろうか。俺たちは、とてもうまくやっている。でも、いったい何をうまくやっているのだろう?
ねえ、ナナミ、お前二人の男を両方好きって言ったらしいじゃん。俺もさ、実は二人の女の子を両方好きなんだよね。どう思う? ナナミのおしゃべりに相槌を打ちながら、俺は心の中で質問を投げつづけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます