第10章 抹茶パフェと京都タワー
次の日も、また次の日も、月野さんから連絡はなかった。電話は着信拒否されていたし、非通知にしてかけたら、すぐに切られた。メールは届くようだった。会いたい、と俺は送りつづけた。何でもするから君に会いたい、と。
家まで訪ねていこうか、と何度も思った。でも二回も追い出されたあの部屋は、もう俺の行く場所ではなかった。二度と顔を見せないでという月野さんのセリフを思い出すと、足がすくんで動けなかった。この期に及んで、俺はまだ、月野さんから決定的に嫌われることを恐れていた。
大学の夏休みは長い。宿題もない。でも、俺には月野さんと過ごす以外に、やりたいこともなかった。月野さんと過ごすためにアルバイトも入れていなかったから、やらなきゃいけないこともなかった。二人で旅行に行く約束をしていたのに。せめて絶交されるのが夏休みのあとだったらよかったのに、と考えても仕方のないことをぐずぐずと思った。
空白が胸にのしかかって、息苦しかった。テレビやらゲームやらネットやら、時間をただつぶしていく道具がこの部屋にまったくないことを、初めて残念に思った。時間のムダだ、くだらないと馬鹿にしていたそれらにすがって、ただただムダに時間をやりすごしていければ、まだましだったのに。
本棚の奥に手をつっこむ。何冊かの本が足の上に落ちてきたが、かまわず指を伸ばす。テープレコーダーのつるりとした表面が指先に触れる。つかんで引っぱりだす。乱暴に手を引き抜いたので、また数冊の本が、足の上に落ちてきた。
巻き戻しボタンを押す。きゅるきゅると音をたてて、黒いテープが巻かれていく。全部巻き戻るには、結構時間がかかる。待ちきれずに止めて、再生ボタンを押す。月野さんのギターがくぐもった音で聞こえ始める。歌は雑音にかき消されそうだった。俺が思いを託していたのは、こんなにもちゃちなものだっただろうか。俺は、片手で持つと耳にあてる。それでも声は遠かった。
テープがもう悪くなってしまったのかもしれない、と思ったとき、月野さんの声が少しずつまのびしていって太くなり、最後には男のうなるような声になった。俺は、驚いてレコーダーをベッドに放り投げた。枕の上でテープはだんだん回転速度を落とし、やがてぴたりと停止した。テープを取り出して調べても、切れたり伸びたりした様子はなかった。ただの電池切れだった。
ベッドに倒れこんで、長い長いためいきをついた。
テープレコーダーの歌を聞いて喜んでいたあのころに戻れたらいいのに。決意する前の俺。顔を横に向けると、動かないレコーダーがあった。俺は、ふられる決意を固めて、月野さんに好きだと言ったが、その返事は保留にされたあげく、ようやく今、返されたのだ。計画どおりじゃないか、俺は自分に言い聞かせる。
「ああ、もう」
俺は、天井に向かってつぶやいた。目を固くつむっても、窓の光がまぶしかった。顔を両手で覆う。今頃になって、本にやられた足の指が、ずきずきと痛んだ。
携帯電話のメールの着信音で飛び起きた。携帯を開く。メールは、月野さんからではなく西山からだった。一瞬ためらってから、中身を見た。読まないわけにはいかないし、何を書かれていても俺は文句を言えない立場だと思った。
――話があるんだけど。できれば直接話したい。京都行くから。お前いつが暇?
昔のメールを間違って開いたかと受信日時を見直すが、まぎれもなく今さっき届いたものだった。芸のないやつ、と思って少し笑った。俺は、単純な西山とは違う。その証拠に、以前とは違う返信をする。
――いつでもいい。
西山に会いたいかと言われたら複雑だったが、事実、俺には、この先、当分予定はなかったし、いつまでもぐずぐずと拒否しているのも情けなかった。どうにでもなれと思った。
――じゃあ、十六時に京都駅で。
今日かよ。時計を見ると十五時半だった。
顔を洗って髪の毛の寝ぐせをワックスで直すと、適当な格好に着替えて外に飛び出した。三十分で京都駅に着けるわけないと思ったが、いつでもと言った手前、要求どおり駆けつけてやると意地になって自転車をこいだ。急げば、通常四十分かかる道のりも三十分に短縮できるだろうと思っていたが、平日だというのにやたら歩いている人間が多くて自転車がなかなか進まない。
西に傾きかけた日は、威力こそ弱まっていたがピンポイントに目を刺してくる。歩いているやつらもみんな暑そうに顔をしかめていたが、なんだかうれしそうに浮き足立っている。なにかの行事があるのだろうか。京都の祭りというのは、平日休日おかまいなしにしれっと行われる。知ってて当然といった具合で、誰も教えてくれない。だから俺は、まだ一度も京都っぽいイベントを体験していない。気がついたら終わっているのだ。
ようやく京都タワーの締まりのないフォルムが見えてきた。あとひといき、気合をいれてこぐ。人の邪魔にならないところに自転車を投げ出して鍵をかけると、駆け足で駅に向かう。
自転車の風があるときはよかったが、降りて歩き出したとたん、汗が次々とふきだして止まらなかった。地下鉄でくればよかった、と俺はようやく思いついた。
駅も人であふれていた。荷物を持った人間が右往左往している。献血にご協力くださいと腕章をつけた女の子につかまりそうになる。なんのイベントか知らないが、駅前の広場ともいえない小さなスペースにステージが設置されていて、聞いたことのない歌を見たことのない誰かが歌っていた。
俺は、西山らしき姿を求めて、駅の中を徘徊した。そういえば、自転車を飛ばすことで頭がいっぱいで、駅のどこで待ち合わせするか言っていない。どうしようか、と途方に暮れかけたとき、改札の横の隅のスペースで、アロハシャツの男が手を振っているのに気がついた。よし、見つけた。携帯を取り出し、時間を確認する。十六時五分。なかなかの健闘だった。西山の方へ歩いていきながら、そうか最初から、駅に着いたら電話すればよかった、と再び俺は反省した。
汗だくで現れた俺を見て西山は、
「いつでもいいって本当だったんだなあ」
と、感心したように言った。まあね、と俺は答えた。
店の入り口には行列ができていた。列の最後尾で待ち構えていた店員は、俺の名前を聞き出して手元のファイルに書きつけ、四列に並んでお待ちください、と言った。
「何分待ちですか?」
「そうですね、三十分くらいですかねえ」
どうする西山、と振りかえったら、やつはすでに列の最後尾にきっちり並んでいる。俺も観念して、抹茶パフェを食べるための列に並ぶ。
京都駅まで来たものの、夕飯を食べに行くには早い時間だったし、寺や観光地を案内するには遅すぎた。どうする? と俺は西山に尋ねた。どうせノープランなんだろう、と思っていたのに、西山は迷いのない口調で「抹茶パフェを食べに行く」と答えたのだった。
俺たちが並んでいるのは、祇園にある有名な本店じゃなく、駅の伊勢丹の中にある支店だった。平日で、中途半端な時間だから、それほど客もいないだろうと思ったのに甘かった。俺たち二人の後ろにも、どんどん人が増えていく。みんな、パフェを食べるために、行儀よく列を成して待っている。前も後ろも女性客ばかりだった。三十分待ちか。遊園地のアトラクションじゃあるまいし、と思って、三月にナナミと行ったUSJのことを思い出した。つられて、いろんなことを思い出した。俺の横にナナミがいて、そのナナミの横には西山がいたということ。
西山は、肩にかける小さなバッグ一つしか持っていなかった。それを指摘すると、大きな荷物はコインロッカーに入れていると言う。寝袋とか、さすがにここじゃ持ち歩けないから。寝袋? 俺は絶句する。終電なくなっても駅とかで寝れるじゃん、と西山は、にこにこしながらスタンプが一個押された青春十八切符を見せてくれた。今日、俺の都合がつかなかった場合は、ほかの県から回って臨機応変にコースを変える気だったのだそうだ。
話したいことを聞き出せないまま、俺はそのまま西山と、どうでもいいことを話し続けた。このまま保留にしつづけていたいような気もしたが、本当に言い交わさなくてはいけないことの周辺をぐるぐる回って会話を続けるのは、居心地が悪かった。
店員に名前を呼ばれて中に入る。やっぱり店の中も女性客かカップルばかりだった。席について出されたお茶を飲みながら、店の名前のついたパフェを二つ注文する。店員が行ってしまうと、西山は「パフェって高いよなあ」とつぶやいた。俺もまったく同感だった。パフェ二つで、東京から京都まで来れるじゃないか。西山は、青春十八切符をひらひらさせて見せた。まあ、暇と根性と体力もいるが、おおむね西山の言うとおりだった。
パフェはあっという間に出てきた。はや、牛丼かよ、と言いながら、目の前の小高くつまれた緑と生クリームのオブジェに、西山は、はしゃいでいる。ますます、何の話をしにきたのか聞きにくくなる。仕方がない。ここは甘くて幸せな気持になるための場所なのだ。
スプーンと口を動かして、せっせとパフェの山を掘り進める西山につられて、食欲がなかったはずなのに、気がつけば俺もがっついて食べていた。西山は、いつまでたっても肝心なことをしゃべる気配がない。食べるのに夢中でしゃべらないのか、言いたくないから黙っているのか判断がつかなかったが、男が二人向き合って、もくもくとパフェを食べている様子は、端から見ていてずいぶん不気味だろう、と俺は思った。
「このあと、どうすんの?」
うちに泊まる? と自分からは言い出さなかった。西山はパフェから顔を上げずに、
「行けるとこまで行く」
と、言った。行けるところって、いったいどこに行くつもりなのだろう。尋ねる代わりに、アイスを口に入れて飲みこんだ。どこへ行くにしろ、このあとすぐ帰るつもりのようだった。俺は、西山の片道六時間の長旅に敬意を表して、自分から切り出した。
「あのさ、話したいことって何」
西山は顔を上げた。
「オレさ、どうやったらナナミの彼氏になれると思う?」
西山が真顔なので、俺は思わずふきだした。笑うとこかよ、ひでえなあと言いながら、西山もへらへらと笑っている。
「お前と別れてチャンスが来たと思ったのに、ちょっとまだ分からないから考えさせてって言われてさ。まだってなんだよ、考えるって何考えるんだよ、って思ったんだけど、まあナナミがそう言うなら仕方ないし、旅に出て帰ってくるまでに決めといてって言って出てきた」
西山は他人事のように言って笑っている。そういえばこいつは、いつも笑っている。そうじゃなかったら、あのときの電話で俺はあんなにも動揺しなかった。
「もうあきらめて、ほかの女にしたら? そこまでして、なんでナナミにこだわるわけ?」
「なんでなんだろうなあ、よく分かんね。でも、ナナミしか考えられないや」
手を止めて、西山が窓の外を見た。俺もつられて外を見た。ここはデパートの上階だった。目の高さに京都タワーが見えた。となりのビルの屋上には、ビアガーデン用に色とりどりの提灯が並べられているのが見えた。空が青白かった。こんな高いところから京都の空を見たのは初めてかもしれない。提灯がふらふらと風に揺れていた。気の早い客なのか、スタッフなのか、マッチ棒みたいな人間が数人歩いているのが見えた。
そこまでして、なんで月野さんにこだわるわけ、と俺は自分に訊きたいのかもしれない。西山の答えは見事だった。さて、俺は、どうしたものだろう。
気がつくと西山は、パフェを食べ終わっていた。そして、頬杖をついて、しげしげと俺を眺めていた。
「なんだよ」
「お前さ、最後まで怒らなかったな。あの日のこと」
「なんだそれ」
口の端を持ち上げて笑おうとしたが、西山の目は笑っていなかった。
「お前が怒らないなら、オレは謝らないからな」
俺は黙ってパフェの最後の一口を口に運んだ。そういう言い方はないだろう、と俺は不快に思った。何か言うべきなのは分かっていたが、でも、やっぱり、態度に出しては怒れなかった。俺はいつもこうやって、言うべき何かを捕らえ損なっている。怒ることができるのは、自分が正しいと確信がある人の特権なのだ。正しさとか、本当の気持とか、そういうものに確信が持てない俺は、いつまでもこうやってタイミングを失いつづけていく。
パシャリ、と音がして、顔を上げると、西山が携帯電話のカメラを構えていた。親指を動かして、せっせとメールを打っている。
「ちょっと、何してるんだよ」
「ナナミに送ったの。今、岩崎と都路里でパフェ食べてるって」
すぐに西山の携帯がぴかぴかと光って、返信メールが入る。
――ずるい、わたしもまだ食べてないのに。
そういえば、いつかナナミが京都に来たときに、抹茶パフェを食べたいと言っていたことを思い出した。でも、行列に並ぶのが面倒くさいから、俺がつきあわなかったのだった。
とろけそうな顔をして楽しそうに返信メールを打っている西山を見ていると、写真を撮られた文句を言う気も失せた。ナナミの携帯には、空のパフェグラスと一緒に、情けない顔した俺が送り届けられたのだろう。俺はナナミの携帯の中で、逮捕された容疑者みたいに、しょぼくれた顔をしていることだろう。
頭が隠れる巨大なリュックサックを見送って、俺は駅を出るとチャリにまたがった。鴨川を眺めながら京都の町を北上していく。雨がずっと降っていないせいで、川の水位は浅かった。真っ白なサギが川の中を歩きながら、魚を狙っている。日は今にも暮れそうで、暑さも行きより和らいでいた。
やがて四条の川原が見えてきた。川床料理の店の提灯が連なっている。川原には、等間隔でカップルが座り、橋の上から観光客が写真を撮っていた。
あのときは、凍えるような夜だったから、俺と月野さん以外に川原に座っている人間はいなかった。あの日は、自分でも驚くような行動力だった。けれど、それもこれも、俺がふられる気満々で、動機がシンプルだったからできたことなのだ。西山のシンプルさをうらやましく思った。東京に行ったあの日、俺がシンプルにナナミだけを好きだったら、すぐさま行動に出たのだろうか。
――お前が怒らないなら、オレは謝らないからな。
今となっては、もう怒りようがなかった。
月野さんの住むマンションまで、ここから自転車で三分もかからない、と思ったとたん、胸がしめつけられて泣きそうになった。サドルから腰を上げ、ペダルに力をこめる。ぐんと自転車が前に出る。あの部屋が遠ざかる。風を切って走り始める。夏の夜の空気は湿気を含んで生ぬるかった。吸っても吸っても息苦しかった。
家に帰ったころには汗だくだった。全部脱ぎ捨てて、水のシャワーを浴びながら考える。俺は失恋したのだろうか? 普通に考えれば、二度と顔を見せないでと言われたのだから、嫌われたうえに、今後も望みがないということになるのだろう。それは困るな、と俺は声に出してつぶやいてみた。風呂場に声が反響した。風呂から出て体を拭きながら、それは困る、ともう一度声に出して言ってみた。月野さんと二度と会えないなんて、俺はとても困るのだ。
気がつけば、俺の思考回路も西山に負けずシンプルになっていた。月野さんと二度と会えないという最悪の事態を回避するためなら、なんでもやってやると思った。
カップラーメンを食べた。それから、ベッドに寝転んでシオリさんに電話をかけた。天井を見上げて、シオリさんが出るのを待つ。月野さんの怒った顔が思い浮かんで後ろめたい気持もしたが、ほかに方法が思いつかなかった。何回もコールが続いて、もう切ろうかと思ったときに、シオリさんが出た。寝ぼけているような声だった。
「ちゃんと生きてる?」
と、俺は尋ねた。
「ちゃんとは無理だけど、どうにか」
と、シオリさんは眠そうな声で答えた。
「あのね、シオリさんに訊きたいことがあるんだけど」
言いながら、何を訊きたいのか説明できる気がしなかった。いっそ西山みたいに、月野さんの彼氏になるにはどうしたらいいと思う? と訊きたいのかもしれない。北山浩二と月野さんの共通の友人であるシオリさんに尋ねるのは間違っているけれど。でも、ほかに誰がいるというのだろう。
「いいよ、明日でいい?」
「いつでもいい」
また部屋に来いと言われたら、俺はどうしようかな。懲りもせず、部屋に行ったりシオリさんとそういうことをやったりするのは、月野さんをますます遠ざけるから避けたかったけれど、でも部屋に来いと言われたら行ってしまうし、部屋に行ったらやってしまう。いやいや、そんなんだから月野さんが怒るわけだ。強い意志を持て、と俺は自分に言い聞かせる。
「分かった?」
と、シオリさんが言った。
「は、何が?」
「明日の待ち合わせの場所」
シオリさんはカフェの名前を言って、場所を簡単に説明した。
「ランチしましょう、十三時でいい?」
は、ランチ? 俺は拍子抜けした。俺の強い意志は登場の機会を失った。おやすみ、と言って、シオリさんは電話を切った。
おやすみ、か。俺は時計をにらみつける。まだ二十時にもなっていなかった。
電話を放り投げて、寝返りを打つ。今ごろ、西山はどのあたりにいるのだろう。分厚い時刻表を開いて見せながら、どの経路を通って、どこで降りて、どう乗り換えたら最短で東京からもっとも離れた場所に行けるか語っていたが、俺には数字の読み方さえ、さっぱり理解できなかった。
ナナミはさみしがりやだから、いつも近くにいた西山が離れてしまえば、ありがたみに気がついて、案外ころっと落ちるかもしれない。でも、パフェ屋のあの調子だと、西山は行く先々でせっせと旅の報告メールをナナミに送っていそうだ。すぐに返ってきたナナミの返信を思い出した。ナナミがメールをするのは、もう俺じゃなくて西山になったんだと思うと、体の一部が削られて持っていかれたような気分になった。自分勝手だと分かっていても、さみしかった。
月野さんに会いたかった。電話は相変わらず着信拒否になっている。君に会いたいな、と、またメールを送る。こんなふうに言葉にして会いたいと思えば思うほど、苦しくなる。携帯電話をにぎりしめて画面を見つめる。返事がないのは分かっているけれど、届けつづけることしか俺にできることはない。
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