第六話「別れ」

 それからの会話の内容はあまり覚えていない。これまでの人生ではじめてとか、これから先ずっとといった根拠の乏しい大げさな表現はどこか陳腐に聞こえることが多いけど、そのときのぼくの頭と心の中は「今までにないほど」ぐちゃぐちゃだった。


 そんな混沌の中にあってぼくは、果たしてなにかが始まっていたのかも分からないこの関係を終わりにしようという決心だけでその間の言葉を紡いでいた。彼女は決してぼくに何かを求めていたわけでもなく、きっとひとりの友人としてでも、そういった友人同士が一緒にごはんを食べに行くくらいの頻度で時間を共有することさえできたらよかったのだと思う。ぼくの境遇を理解してもそれ以上を望むようなことをしない、そんな聡明な女性だった。


 もしぼくも同じように賢人であれば、そして賢人であり続けられることが確かだったら、友人としていることを喜んで受け入れたかもしれない。ただぼくは彼女に対する思いが募るにつれて、彼女にふれたいという我欲が見え隠れしはじめていることにも気付いていたし、きっといつか暗黙に存在する約束を破ってしまうだろうと分かっていた。だからなにかが起こってしまうより前に別れようというのは、脅迫じみていようとも自分自身で正しい判断だと信じていた。


 「いやです」と震えた声で発したあとにも彼女は何度かおなじことばをつぶやいた。それは少しずつ震えが消え去り、彼女の確かな意思として伝わってきた。ぼくはその言葉を聞くたびに自らの胸に杭を打ち付けられているような痛みを感じながら、必死に首を横に振り続けた。




 どれくらいの時間が経っただろう。彼女のマンションの下に車をとめた。さきほど見上げた月は、より高くのぼり、より優しい光を放って寝静まった街を照らしていた。


 「ほんとうにいいんですね。行っちゃいますよ」


ぼくがもうその手を引き留めようとしないことを分かっていながら彼女はそう問いかけた。


 彼女の記憶に残るかもしれない最後のぼくが少しでも表情であることを願って無造作につかみ取った何枚ものティッシュペーパーで涙の跡を拭い去った。自然であることを祈って必死に口角をあげようとした。結局彼女に告げるべき最後の言葉は分からないままだった。


 彼女がハンドルを引っ張り、少しドアを開けたとき、


「今までありがとう」


ぼくは口の赴くままに、そう告げた。彼女の澄んだ瞳だけを見つめながら。彼女もぼくの目をまっすぐに見つめていた。ふたりだけの永遠のときが流れるようだった。


 彼女がゆっくりと瞳をとじた。その瞬間、その目から一筋の涙がこぼれ、ゆっくりと頬を伝った。その涙がぽつと音を立てるように彼女の黒色のスカートにそっと落ち、今度はとじるよりも更にゆっくりと彼女は瞳をひらき、再びぼくの目を見つめた。


 彼女はもう何も言わなかった。そして身体を外に向けて彼女は車から降りた。

 

 もうぼくを見てくれることはなかった。ドアをゆっくりと閉めて、彼女は歩き出した。


 次第にその姿は小さくなってやがて見えなくなった。


 目を閉じる。車内にはまだ彼女の香りが、体温が残っている気がした。ゆっくりと手を伸ばす。確かにそこにいたはずの彼女の濡れた頬に向けて。その涙をふいてあげたかった。なによりもっと彼女を感じていたかった。ぼくの手は空を切る。


 目を開ける。彼女は行ってしまった。そこには香りも体温も、もう残っていなかった。


 ぼくは不恰好に挙げている左手を、ぎゅっと握りしめた。




 いち段落、

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