■■

 ――『アリス・リデル』に気をつけて。


 男の脳内に、自然とその言葉が思い浮かぶ。

 目の前にいるこのアリスは不思議の国になど存在しない。アリスのフリをした、別の怪物なにかだ。本物の少女アリスは、どこにもいなかった。


 アリスが生気を失った顔色の男を蔑むような目をして見つめる。そこに先ほどまでの表情はない。あるのは『無』のみ。ゆっくり、じっくり、男に近づき……アリスは男の顎を指を使い持ち上げた。


 自分という存在を見ろ、と言わんばかりの眼光で、アリスは男を見た。


「私はずぅっと、探していました。いつかの記者あなたたちを見つけて、何故あの時、執拗以上に父母を追い詰めたのか……。それを知るために」

「……っ……」


 男は何も言えなくなっていた。

 この場では、逃げることも隠れることもできない。ごくり、と男の喉が小さく鳴った。


「…………なに、が……したいんだ、お前……」

「何がしたい? 決まってる――ですよ」


 アリスの口角が怪しく歪んだ。


「母が不倫しようが当時の私はそれが悪いとは思っていなかったし、兄は自白し友人に対して申し訳ないと涙を流していた。ずっと、ずぅっと、彼は謝っていた。謝っていたんだ。自らの罪を認めていたのに……それを――それを……貴方たちは……」


 アリスの歪みは、消えることはない。

 それどころかどんどんと上がっていく。男の顔色はどんどんと青く下がっていく。

 さながら男は蛇に見込まれた蛙のように委縮していく。


「ちゃんと裏取はしたのでしょうか? ええ、したんでしょうね。した上で、あれだけ執拗に兄や母や父を問いただしたのですよね? ええ、ええ、そうでしょうとも。そうでしょうとも。貴方たちは真実を記すプロ! それはもうちゃんと確認した上であの新聞に書いたのでしょう!」

「……」

「自慢ではありませんが……私は記憶力がいい方でして。あの日外にいた人物の顔は全て記憶していました。


 ――『アリス・リデル』に気をつけて。

 男の脳内に再びその言葉がぎる。

 今思えば……と、男は考える。最初に死んだ一人目の犠牲者であるキャロル紙の記者と、二人目の犠牲者であるドードー紙の記者、そして男は『アリス・リデル』の言う彼の兄が起こした事件について追っていた。

 アリスがどれだけ記憶力が良くても何年も前の事件、しかも他にも沢山いたはずの記者の中から彼らや自分をピックアップして殺したというのか。

 復讐への執念。

 アリスを動かす復讐への執着心は想像以上に根深いものだった。


「知っていましたか? 兄は、友人を殺したのではなく、だったと。ええ、つまりは自殺幇助ほうじょです! 罪に問われることは間違いないことだと理解はしていますが、貴方たちの真実せいぎで兄はとして記された! ……私は、とても悲しかったですよ」


 アリスが男から離れる。その隙を狙い、男はある薬を鞄から取り出す。

 それは持病である高血圧症の治療薬であった。

 ポットから残りのグレープフルーツティーをカップに注ぎ、そのまま勢いよく薬とともに飲み干した。

 ふとアリスの視線が気になり、男は彼を見る。


 アリスは――嘲笑ちょうしょうしていた。


「……ああ……一つ、言い忘れていました……」


 男の視界が闇に呑まれていく。

 ぐらぐら、ゆらゆら、ずるずると。

 男の背筋が凍る。呼吸が、出来なくなる。

 それはこの状況下での気のせいなのか。はたまた、何か別の理由があるのか。

 男の脳内に巡るのは負の感情ばかり。そしてその予感は的中することとなる。


「私、貴方たちのことをずっと調べていたんですよ。貴方が高血圧症の持ち主だということも知っていました。貴方は復讐者。最高のおもてなしをと考えていたんですよ」


 どくり、と男の心臓が鳴る。


「憶えていらっしゃいますか? 私の家の……『ケーキ』を用意する意味」

「――――」

「……ええ、そうです。貴方に『ケーキ』を用意した――つまり、私は貴方に対してを込めて、作らさせていただきました。……フルーツ、何が入っていたか憶えていますか?」

「…………グレープ、フルーツ……」

「正解です! ご存知でしたか? 高血圧症の薬の成分とグレープフルーツの中にある物質……混ざり合うと薬の効果が強力になるんですよ」


 ぐらり、男の視界が完全に暗転する。

 がしゃん! とテーブルに男の顔が


「それはつまり血圧が急激に下がるということ。飲み合わせには気をつけないと……ああ、もう聞こえてないかな……?」


 アリスは嗤った。

 アリスは、人生で今一番充実した日を迎えたのだ。

 復讐は終わった。

 いや――始まったばかりなのかもしれないが。

 それでもアリスは目の前の男をことに安堵した。

 兄を、父を母を地獄へと落とした男を、社会から葬り去ったのだ。


「……これで、終わったよ、兄さん」


 男が動かなくなったことを確認し、アリスは声高らかに笑った。

 アリスの頬には一筋の雨が光っていた。

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