■■■

 男は、息をすることを忘れた。

『アリス・リデル』が優しく男に囁く。


「どうしましたか?」――と。


 男は頬を伝う汗を無意識に拭う。男は喉が異様に乾いていた。紅茶を飲もうとしたところ、カップの中身はすでにからであった。そのことに気がついたアリスは「おかわり、要りますか?」と男に問う。男は少しだけ迷ったが、どうしても喉が渇いて仕方なかったため「お願いします」と答えた。

 アリスが再び席を立ち、少しして紅茶の入ったポットを持ってくる。ポットが傾きゆっくりと注がれていくグレープフルーツティーの香りが男の心を癒した。注がれたカップに口をつけ、一気に飲み干す。先ほどまで感じていた香りも味も、全てがとなり溶けていった。


 男は、生きた心地がしなかった。


「……貴重なお話、ありがとうございます」


 やっとのことで男が発したのは建前の言葉だった。アリスの表情を見ることができずに男の発言が自然とはばかられる。

 男の心に住み着いた黒い黒い闇、その名前は――

 何故、恐怖という名の感情を、彼に対して抱いたのか。男は徐々にその答えにたどり着こうとしていた。

 つまり、言い換えるのであればそれは、ということ。


「どうかしたのですか? 顔色が、悪いようですが」


 アリスがらしく男に問う。男は額に掻いた冷や汗を手持ちのハンカチで一度拭うと、その重たい口を開いた。


「つ、つまり、貴方にとっての『ケーキ』とは、どのような存在だったのでしょうか?」


 アリスはきょとんとした後、すぐに微笑んだ。その笑みは男には、まるで首を絞めに纏わりつく蛇のように思えた。


「……よく考えてもみてください。兄が何かをした際、兄以外の家族にはケーキが用意された。そして母が何かをしたと思われる際も同様に。それが何を意味するのか。…………ええ。つまり、私の家では『ケーキ』というものは、があった際にのみ謝罪の意を込めて用意された『ケーキ』だったのです」


 くらり、ぐらりと男の足元がぐらつく。そう感じているのは男だけかもしれないが、少なくとも男には今、足元が覚束ない状態であることに変わりはなかった。


 きっと、とアリスが言葉を続ける。


「兄のしたことが何だったのか、今では知り得ることができませんが……母のしたことが何だったのかはなんとなく想像がつきます」

「…………それは」

「不倫ですよ、。父以外の人間と関係を持ってしまった。それを後ろめたいと感じた母は『ケーキ』を用意し、謝罪の意を込めて私たちに振舞ったのです」

「……」

「兄がとともに家を去った日。私は兄が何をしたのかを知りませんでした。当時私はまだ十二歳くらいでしたから、まあ、当たり前と言えばそこまでなのですがね?」

「……はい」


 アリスは男の表情がころころ変わるのを見ている。何が面白いのか笑みを絶やさない。発言している事柄は世にも怖ろしいものだというのに、それを感じさせないくらいにアリスは意気揚々と男に話し掛ける。

 まるで、なんでもないことですよ、と言うように。


「兄は、


 隠すことなど、ないと宣言するかのように。


「可笑しいと思っていたんですよねぇ。あの日の兄は何故か警察の方に連れていかれて、父母は記者やキャスター、カメラに真実の言及を求められて。真実なんてひとつなのに、どうしてそこまで追い詰めるのか。その理由が当時の私には分かりませんでした」


 男の顔色が、土気色つちけいろを通り越す。


「……ああ、そういえば、しつこくてしつこくて堪らない、出版社の方々がいましたよね。ほら、貴方もご存知なのではないですか?」


 それは、悪魔の囁き。

 無垢で、純粋な、綺麗な心を持った者の、囁き。


。――ああ! マーチラビット紙は、貴方の所属している部署でしたね」


 知っていて、彼は男を呼んだのだ。


「――貴方、あの時、家に来ていた記者の一人ですよね――?」


 ガシャン――!

 男の足元は完全に崩れた。

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