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男は、息をすることを忘れた。
『アリス・リデル』が優しく男に囁く。
「どうしましたか?」――と。
男は頬を伝う汗を無意識に拭う。男は喉が異様に乾いていた。紅茶を飲もうとしたところ、カップの中身はすでに
アリスが再び席を立ち、少しして紅茶の入ったポットを持ってくる。ポットが傾きゆっくりと注がれていくグレープフルーツティーの香りが男の心を癒した。注がれたカップに口をつけ、一気に飲み干す。先ほどまで感じていた香りも味も、全てが泡となり溶けていった。
男は、生きた心地がしなかった。
「……貴重なお話、ありがとうございます」
やっとのことで男が発したのは建前の言葉だった。アリスの表情を見ることができずに男の発言が自然と
男の心に住み着いた黒い黒い闇、その名前は――恐怖。
何故、恐怖という名の感情を、彼に対して抱いたのか。男は徐々にその答えにたどり着こうとしていた。
つまり、言い換えるのであればそれは、心当たりがある話だったということ。
「どうかしたのですか? 顔色が、悪いようですが」
アリスがわざとらしく男に問う。男は額に掻いた冷や汗を手持ちのハンカチで一度拭うと、その重たい口を開いた。
「つ、つまり、貴方にとっての『ケーキ』とは、どのような存在だったのでしょうか?」
アリスはきょとんとした後、すぐに微笑んだ。その笑みは男には、まるで首を絞めに纏わりつく蛇のように思えた。
「……よく考えてもみてください。兄が何かをした際、兄以外の家族にはケーキが用意された。そして母が何かをしたと思われる際も同様に。それが何を意味するのか。…………ええ。つまり、私の家では『ケーキ』というものは、後ろめたいことがあった際にのみ謝罪の意を込めて用意された『ケーキ』だったのです」
くらり、ぐらりと男の足元がぐらつく。そう感じているのは男だけかもしれないが、少なくとも男には今、足元が覚束ない状態であることに変わりはなかった。
きっと、とアリスが言葉を続ける。
「兄のしたことが何だったのか、今では知り得ることができませんが……母のしたことが何だったのかはなんとなく想像がつきます」
「…………それは」
「不倫ですよ、不倫。父以外の人間と関係を持ってしまった。それを後ろめたいと感じた母は『ケーキ』を用意し、謝罪の意を込めて私たちに振舞ったのです」
「……」
「兄が大人とともに家を去った日。私は兄が何をしたのかを知りませんでした。当時私はまだ十二歳くらいでしたから、まあ、当たり前と言えばそこまでなのですがね?」
「……はい」
アリスは男の表情がころころ変わるのを見ている。何が面白いのか笑みを絶やさない。発言している事柄は世にも怖ろしいものだというのに、それを感じさせないくらいにアリスは意気揚々と男に話し掛ける。
まるで、なんでもないことですよ、と言うように。
「兄は、あの日友人を殺したんだと思います」
隠すことなど、ないと宣言するかのように。
「可笑しいと思っていたんですよねぇ。あの日の兄は何故か警察の方に連れていかれて、父母は記者やキャスター、カメラに真実の言及を求められて。真実なんてひとつなのに、どうしてそこまで追い詰めるのか。その理由が当時の私には分かりませんでした」
男の顔色が、
「……ああ、そういえば、しつこくてしつこくて堪らない、出版社の方々がいましたよね。ほら、貴方もご存知なのではないですか?」
それは、悪魔の囁き。
無垢で、純粋な、綺麗な心を持った者の、囁き。
「キャロル紙、ドードー紙、マーチラビット紙。――ああ! マーチラビット紙は、貴方の所属している部署でしたね」
知っていて、彼は男を呼んだのだ。
「――貴方、あの時、家に来ていた記者の一人ですよね――?」
ガシャン――!
男の足元は完全に崩れた。
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