5 春の風


 透明な春の日、ぼくらは一台の車で遠くに出かけることをきめた。風は忘れたように凪いでは思い出したようにまた吹いた。バックシートに思い思いの荷物を積んだ、そのときのぼくらには喜びも悲しみもまだどこにもなかった。過ぎていく風景のなかに、感傷は千々にちぎれて吹き飛んでいく。どこかに向かうこととどこにもいかないことの間に、そのときはまだちがいがあった。

ここにはもう戻らないと彼女は言って、ぼくは頷くかどうかを迷った。

 太陽はときどき翳った。カーステレオは上機嫌にうたっていた。開けた窓から吹き込む風がきみの髪を揺らしていた。もしもぼくらのむかうさきになにもなくても平気だと思った。そもそもぼくは、むかうさきになにもないことを知っていたのかもしれない。

 風は忘れたように凪いで、思い出したように吹いた。なにごともなかったかのように、カーステレオは上機嫌にうたっていた。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る