正義執行

通行人B

正義執行

『いいか、どんな事があっても正しくあれ』

 それが父の口癖だった。

 私の父は警察官で、融通の効かない厳格な人だった。ルールや法律を重んじ、悪い事をしたら子供である私に対しても厳しく叱る人だった。


『いい?どんな事があっても貴女の在り方を貫きなさい』

 それが母の口癖だった。

 厳格な父の婚約者である母はそれを難ともしない歴史ある家系の人だった。厳しい家庭環境から育った故か父を否定する事は滅多になく、これまでの経験から正しい在り方というのを口にする人だった。


「私は不正は許さない」

 それが私の口癖だった。

 厳しい両親に育てられた私はそれに習うように常に正しくあろうとした。過去に犯した些細な失敗と両親の教育のお陰もあり、私は風紀委員として誰よりも正しさを示し続けていた。



「おはようございますお父さん」

「おはよう正夜まさよ。……今日は早いんだな?」

「はい。今週から風紀委員会の活動として朝の服装点検があるので早めに出ないといけなくて」

「そうか。しっかりやるんだぞ」

「分かっていますよお父さん」

 そんな朝の会話をしてはいるが時刻はまだ五時半。多くの人はまだ眠っているであろう時刻。そんな時間だというのに私達は既に起き、朝食を得て準備をし、誰よりも早く家を出た。以前ならおかしいと思ってた時もあったけれども、何年も続けばそれは私にとっては普通の日常に変わっていた。


「おはようございます!」

「おぅおはよう。語部かたりべか、相変わらず早いね。まだ誰も来てないよ」

 学校に着けば顧問の先生が点検表を作って待っていた。本来ならもう少し遅くに出勤する人だけども、服装点検がある事により私が早くに来る事を予想して早く来たのであろう。まだスイッチが入っていないのか、先生は眠気眼を擦りながらも準備を続ける。

 弛んでいる。父ならそう指摘するだろうと思うものの、私はまだ時間ではないからいいかと気にせずに作業を手伝う事にする。

 私は父と同じく正しくあろうとする気持ちは同じ。ただ、融通は多少なりとも効くと自負している。それはきっと父とは違って経験も知識も足りないからこそ、ある程度の融通を効かせないと判断できないという私の弱さからだ。

 弱いからこそこの学校で風紀委員として正しさを示し、自分の在り方を示し、正しくなる為の経験を学ぼうと意識していた。

「おはようございます」

「おぅ。……全員集まったか?」

「……ですね。全員います」

 次第に人が集まり確認が取れた瞬間、教室内の空気が引き締まる。

「おはよう。今日も遅刻等無しだが少し集まるのが遅い。……やる気あんのか?」

『押忍!』

「聞こえねぇぞ?朝だから寝ぼけてるんかお前ら?」

『押忍‼︎』

「……まぁいい。時間が無いから説明に入るぞ」

 数十分前までの眠そうな表情から一転し、先生の声に誰しもが背筋を伸ばし、朝から大声を張っていた。風紀委員として男所帯の中にいる女性という異質な私だけれども、誰にも負けないぐらいに声を張った。

 先生から言い渡された作業内容は生徒個々の服装及び荷物の点検。登校する生徒の中から抜き打ちで呼び出して点検するというもの。勿論抜き打ちとはいうが、明らかな違反者や挙動がおかしい人は例外なく呼び出して点検する。担当者は一応日替わりで交代し、それ以外は挨拶する役目となるものの、男子が女子の荷物等を点検するのも問題視されている為、必然的に女子生徒に対して期間中はずっと私が担当する事となる。

『おはようございます!』

「朝から元気が良くてうっせぇな」

「うっわ…今日点検あったんか……怠っ」

 時間になれば校門前に整列する風紀委員。その間を歩く生徒達を私達はひたすら声をかけて呼び出す。

「それ、不要物ですね。没収しますので放課後に生徒指導室まで取りに来てください」

「えぇ〜。別にイイじゃん。使いながら登校してるわけじゃないのにさ。それにみんな持っているし」

「持っているかどうかは点検を通して確認をしています。それ以前にコレは勉強には不要でしょ?……では、学年と名前を。提示出来なければ持ち主不明として処分します」

「あぁもぅ!分かった分かったから。……あぁ、めんどくさ」

 私は決して挨拶しなくて楽な仕事とは思わない。担当である為、朝のだらしない姿をしている生徒達を誰よりも鋭い視線で観察しては呼び出していた。

「ね、ねぇ?流石にそこまで厳しくしなくても良いんじゃないかな?ほら、学生なんだしそれぐらい持っていてもおかしくはないんじゃない?授業とかで私達が使っているのを見つけたら没収してるし」

「いいえ。例え使っていようがいまいが関係ありません。学校では不必要な物を持ち込んだ。その時点で校則違反です」

 女子生徒の担当を受け持つ女性の先生は風紀委員会の顧問ではない為、ある程度は寛大であるべきだと零すけれども私はそれを許さない。例え教師であってもだ。

「先生、一人を許せば他の人も許さなければいけません。使ったという証拠はありませんが使ってないという証拠も証明出来なければ没収した方が正確です。……元より、不要と分かっているの持ち込む方が悪いんですよ先生」

 いき過ぎだ。そういった視線を受けるが私は無視をする。私は間違ってはいないのに何故、違反者の肩を持たなければいけないのか。『正直者が馬鹿を見る』そんな言葉を私は認めたくはない。


「おはようございます。おはようございま——は?」

 そんな厳しい点検をする中、私は一人の生徒を見て愕然とする。地毛として黒もしくは暗い茶色が規定とされる中、その生徒の髪はワインレッドに染められていた。それだけならまだギリギリ外国生まれだとかハーフだから地毛と言われて通しそうなのだが、それに合わせるように染められたターコイズカラーのメッシュを見ては言い逃れできないと頭痛がした。

「ちょ、ちょっと!そこの貴女!こっち来なさい!」

「……え?私?」

 貴女しかいないでしょ!そう叫びたくなるほど頭が痛む。どうしたんだろうという表情をしながらやって来る姿に余計に酷くなる。

「……貴女、学年と名前は?」

「えっと…二年二組の天谷あまや鈴香すずかです」

 天谷鈴香。どう聞いても日本人の名前であり、そのワインレッドの髪も地毛として認めにくくなる。他クラスとはいえ同学年。今までこんな人がいたのに私は気が付かなかったのだろうか?

「天谷さん、ウチの学校は髪を染める事は校則で認められていないのはご存じですか?」

「え?……あぁ〜…………地毛っスね」

「……百歩譲ってその綺麗なワインレッドカラーの髪は認めれたとしても、そのメッシュについての言い訳は何かありますか?」

「……………………コレも地毛っスね」

 んなわけあるか。何処の世界に白髪を除くハッキリと分かれた二色の髪が生える人間がいるのかと問いたい。しかも近くに来てもらって気がついたけど制服は着崩されており、大人がする様なしっかりとした化粧もし、ほんのりと香水の香りもした。

 まさかと思い、鞄の中を開けて見せてもらえば悪びれる事なくそこには化粧品の入ったポーチや香水の入った瓶が鎮座していた。『コレでもまだ生徒を見逃すのか?』そういう視線を先生に向けると先生もとても苦い表情をしながらも笑っていた。

「……天谷さん。学校では化粧品や香水とかは不要物に当たりますのでコレらは没収します」

「えぇ〜」

「『えぇ〜』じゃありません。それとその髪も校則違反ですので明日までにその髪を黒く染めて来てください」

「いやだからコレは地毛だって——」

「だからじゃありません!」

 私の大声が朝の校門前で響く。多くの教師生徒から視線を向けられるけれども私は天谷さんの目を見つめる。

「いいですか?貴女のその着崩した服装も、その染めた髪も、その数々の化粧品や香水も校則違反です。それらは全て貴女も持っている生徒手帳に記された項目です。地毛云々を差し引いても貴女は違反者です。それを自覚しなさい」

「………」

「コレらは没収しますので放課後に生徒指導室まで取りに来てください。そして明日までにその髪も黒く染め直す事。いいですね?」

「………」

「いいですね?」

「………分かりましたよ」

 そう言って天谷さんは化粧品の入ったポーチと香水を渡すととぼとぼ校舎に向かっていく。周りから『やり過ぎだ』という視線を受けたが私はそれらを無視した。何故なら違反した彼女が悪いのであって、私は校則に則って仕事をしただけに過ぎないからだ。


 §


 放課後になり、私は掃除を手早くきっちりと済ませて生徒指導室に急ぐ。指導室には顧問の先生と幾人かの委員が違反者の反省文と不要物を交換して手渡していた。

 挨拶を済ませて残された荷物を確認する中、その中には天谷さんから没収した化粧品の入ったポーチと香水がまだ残っていた。

 これから天谷さんを待たなければいけないのかと少し不安になりながらも、私の予想に反して天谷さんは私が来た数分後にやって来た。

「すみません。……えっと、受け取りに来ました」

「来ましたか。では反省文を書いて下さい。書いた反省文ができ次第、これらを返却します」

「……分かりました」

 文句の一つや二つが吐かれると思っていたけれども、天谷さんは素直に用紙を受け取っては直ぐに書いて持ってきた。

「はい」

「……確かに受けとりました」

 反省文には『つい最近転校してきた為、校則に目を通せてなかった』と書かれており、成る程と納得した。

「天谷さん。前の学校ではどうだったかは分かりませんが、この学校では許されるものではありません。以後気をつけてくださいね」

「………善処します」

 そう言って天谷さんは荷物を受け取ると指導室を後にする。指導室を出るその背中は少し丸くなっており、少し言い過ぎたのではないかと思ってしまった。


 §


「……貴女…反省してなかったのですか?」

「あ、あはは……実は昨日は忙しくて染める時間が無くてですね…」

「………はぁ。言い訳は結構です。荷物は……昨日と同じ。天谷さん。放課後に生徒指導室に来る様に」

「……はい」

 翌日、いき過ぎた発言を悔やんだ私の所にやって来たのは、昨日と何一つ変わらない姿の天谷さんでした。天谷さんからは反省の色は見えず、荷物を確認すれば昨日と同じ化粧品の入ったポーチと香水が出てきた。

 まさか点検が昨日の一日だけだと思っていたのだろうか?思わずふざけるなと怒りたくなるものの、昨日の失敗を繰り返すわけにはいかず、私は怒りを喉元で押さえつけながらも天谷さんを注意するだけに済ませれた。


 §


 放課後、生徒指導室に向かうと化粧品の入ったポーチや香水は無くなっており、既に持っていかれていた。担当者から反省文を見せてもらうと『染める時間が無かった』『やる事が多くて鞄を整理する時間が無かった』という事が書かれていた。

「流石に二日連続で注意したんだし明日には直してくるでしょ?」

「……どうでしょう。朝は反省の様子も見えなかったですし……今日は我慢しましたが明日も同じ様だったらまた怒ってしまいそうです」

 先輩は苦笑いをするけれども、私は天谷さんがまた直さずにやって来ると思えて仕方がなく、明日はどんな言い訳が来るのか複数のパターンを考える事にした。


 §


「……貴女ねぇ」

「あ、あはは……風紀委員は朝早いんだね」

 翌日、天谷さんはかなり早い時間に登校してきた。まだ点検前なら通り抜けれると思ったのだろうけれども、私達の方が早くに到着していた為、あっさりと捕まってしまった。

 当然という様に髪はワインレッドとターコイズカラーのメッシュが入っている。化粧も香水も何となく以前より強くなっている気もする。

「え、えぇっとですね?」

「……詳しい話は放課後に聞きますのでちゃんと言葉を纏めて来る様に」

 没収したポーチと香水を仕舞い、校舎に入っていく天谷さんの背中を見つめる。風紀委員会の服装点検は今日を含めて後三日。もしかしたらこのままなあなあで終わってしまうかと思うと、私は無意識のうちに手を強く握りしめていた。


 §


 放課後になると急いで掃除を終わらせて生徒指導室に向かう。指導室に着くと既に天谷さんが反省文を書き始めており、やはり昨日の今日かと溜息が漏れる。

「終わりました……って…」

「今日も掃除が終わるのが早かったんですね?」

「あ、あはは……」

 明らかに私を避けている顔。書かれた反省文を見れば『お金が無かった為、できなかった』と書かれていた。

「天谷さん、貴女もしかしてこのまま点検期間までそうしているつもりですか?そうやって毎日私に呼び止められて、毎日こうやって言い訳を考えて帰るつもりですか?」

「そ、そんなつもりはないです」

「なら!何で出来ないんですか!」

 つい大声を出してしまう。指導室内に響いた私の声が一昨日の朝の様に視線を集めた。

「髪染めの件にしてはなら何故初日に買わなかったんですか?初日に時間がなければ昨日の朝の内に親御さんに学校から言われたと言って買って貰えば済む話でしょ?たかだか数千円以内の物、ましてやその髪を染めるだけの染料が買えたのだからどれぐらいかかるか分かっているでしょ?それに例え髪がどうこうあったとしても、この化粧品や香水は持ってこなければ没収される事ないと分かっているのに何故わざわざ持ってくるんですか?貴女、学校に何しに来てるんですか?」

 途中、隣の委員に腕を掴まれるがそれを振り解く。問われた天谷さんは「えっと…」と口籠もりながらも私から視線を逸らす。

「何ですか?他に何か言い訳があるんですか?貴女が毎日化粧品を持ち込んで香水をつけて、堂々と染めた髪のままでいられる私が納得できる理由があるんですか?」

「語部!」

 今度は強く肩を掴まれる。振り解けず振り返れば顧問の先生が『やめろ』と言いたげな目をしていた。

「……先生は彼女が許される理由を知っているんですか?聞いているんですか?」

「知らないし聞いてもいない。ただお前は言い過ぎだ」

「言い過ぎですか?……確かにある程度の事なら許容しますし、彼女が転校生だからある程度は仕方ないとは思います。ですが、二度も注意をしても直らないし、反省の色も見せない様では強く言って聞かせなければ分からないんじゃないですか?」

 天谷さんが認められる理由があるのならそれは仕方がない事だと理解し、これまでの言動を全て謝罪してもいいと思う。けれどそれがない。反省の色もない。そんな生徒を仕方ないと認めるのは許せない。正しくない。不正は許さない。

「ッ!」

「ちょっと!」

 私が顧問と話している間に天谷さんはポーチと香水を掴んでは指導室から飛び出していく。

 騒つく指導室内。聞こえる陰口。視線。どれも私の言動と天谷さんの行いのせい。

 肝心の天谷さんは既にいない。

「……すみません。少し頭を冷やしてきます」

 私は居心地の悪さから顧問から許可を貰う前に指導室を出て行った。


 §


 家に帰るまで、私の頭の中は天谷さんの事がぐるぐると回っていた。

 天谷さんは反省する様子もなく三日間やってきた。きっと明日も同じようにやって来るに違いない。悪いのは校則を守らない天谷さんだ。

 だけど私は天谷さんの事をよく知らない。もしかしたら担任の先生や保険の先生は、何かしらの理由を聞いているのではないだろうか?だとしたら、私は天谷さんに酷い事を沢山言ってしまった。

 そんな天谷さんの否定と私の失態。どっちが正しいか分からず、ただ答えが分からない問答をずっと続けている。

「……何かあったか正夜?」

 家に帰ると珍しく父が帰ってきていた。お酒を飲まない為、手には珈琲の入ったマグカップがあった。

「……実は」

 私は父にこの三日間の事を掻い摘んで話した。違反者である天谷さんの事、注意をしても反省していない事、理由があるかどうかも分からないまま不正について怒ってしまった事。

 一通り話し終えると、父は小さく溜息を吐いた。

「正夜。お前には口酸っぱく教えた筈だ。どんな事があっても正しくあれと。どんな理由があったとはいえ、その娘が違反した事は事実。……それでも納得できないようならその娘の担任や保険の先生に聞いてみなさい。……正夜、お前は正しい事をしている。いずれそれがわかる」

「……はい、お父さん」

 父に叱られた。だけれども言いたい事は分かる。だから私は父に言い返したりしないし、父も更に何かを言ったりもしない。

 そうだ。明日確かめてみればいい。明日は先生、もしくは本人の言葉を聞いてからでもいい。


 §


 ——翌日、天谷さんを見かける事はなかった。正確にいえば見つけれなかったというのが正解かもしれない。

 私は昨日同様に朝早くから登校し、点検を始めた。点検をしながらでも天谷さんの髪は目立つ。だからそれ程注視していたわけではなかった。

 結局、点検が終わるまであのワインレッドを見かける事がなく、拍子抜けの空気を纏めるように「まぁ、やっと正してくれたんじゃないか?」と肩を叩かれた。

 私の言葉を聞き受けてくれた。そう思い放課後に回収した不要物を返却する作業に向かう。返却物の中には当たり前だけれども天谷さんのポーチや香水は無い。

 四日目となれば返却物も少なく直ぐに終わる。そうだ。これだ。これが普通でこれが正しい事なんだ。そう思い、昨日より早く作業が終わり、解散して教室へと荷物を取りに戻る際、私は通りすがる教室前で足が止まった。

「おかえり〜。災難だったね」

「本当だよ。たかだか音楽プレイヤー持ってきただけで没収って。使ってないのに厳しすぎるでしょ」

「あぁ、あの女子の風紀委員の人でしょ?確か語部だったっけ?それにあれでしょ?アイツのせいで今日鈴香が休みなんでしょ?」

 天谷さんが休み。そう聞こえてしまい、廊下から聞き耳を立てた。

「やっぱりそうなん?確かに鈴香の髪は目立つから呼び止められるよなぁとは思ってたけど、あそこまで怒られたらねぇ。そりゃ学校にも来なくなるさ」

「ほ〜んと。昨日だってあの後鈴香泣きながら帰ったからね」

 泣いていた。そう聞いてしまい胸が痛んだ。やはり私は言い過ぎてしまったのではないか?そう責めてしまう。

 生徒達が帰る為に出口に近づき、つい隠れてしまう。私に気がつかない生徒達はそのまま談笑しながら通り過ぎていく。

「……あぁでも確か鈴香、今週バイトで忙しいって言ってたし、寝坊したまま休んだんじゃね?」

 去り際の一言に私はどうしたらいいか分からず、そのままトイレで吐き出してしまった。


 §


「……今日は…ちゃんと来たんですね?」

「ま、まぁ……あ、あはは」

 点検期間最終日。昨日の話が頭から離れず寝不足だけれども私はいつも通りに登校し、点検を開始した。

 天谷さんは早くも遅くもない時間に登校。ある意味予想を裏切る事なく、髪は鮮やかなワインレッドに染められたままで、ターコイズカラーのメッシュが私の視線を引きつけた。

 鞄を見せて貰えば当然のように化粧品の入ったポーチと香水の入った瓶が入っていた。息を吸えば香水の匂いがし、その匂いを追いかければ化粧をした天谷さんの少しだけ申し訳なさそうな笑みが見えた。

「……天谷さん。今日の放課後に取りに来て下さいね」

「え?……あ、はい」

 本当は昨日の話を問いただしたかったけれども、きっと時間が足りない。それに怒りと困惑と気疲れにまともな事を言える気がしない。

 私はまだまだ未熟だ。放課後までに何とか元に戻さないといけない。

「えっと…大丈夫?」

「……大丈夫じゃないです。心配してくれるのなら放課後に荷物を受け取った後に時間を貰える?聞きたい事があるから」

 長くなる。そう伝えると天谷さんは苦笑いを浮かべて校舎に戻る。

 ……結局、最終日なだけあって違反者は一握りしかおらず、今日も早く終わりそうだなと零した。


 §


「えっと……それで…話って何です?」

 放課後、予想通り返却物は少なく、直ぐに終わった。最終日のミーティングもすんなり終わり、私は天谷さんのいる教室に向かった。

 天谷さんは私から逃げる事なく待っていた。落ち着かなかったのか、メッシュを仕切りに弄っていたり……この後アルバイトがあるのか、時計を気にしていた。

「……天谷さん、単刀直入に聞きます。貴女には何か事情があって、その髪や化粧品を持ち歩いているのですか?」

 声は震えてないでしょうか?怒りが滲み出ていないでしょうか?私は心を平穏に保ちながら天谷さんの返事を待つ。

「あぁっと……ですね…」

 相変わらず天谷さんと視線が合わない。隠し事をしている。

「天谷さん。もし貴女にちゃんとした理由があれば言ってください。ちゃんとした理由が有ればこれまでの私のしてきた事を全て謝罪します。仮に納得できなかったとしても、今回限りですが私が髪染めを買う為のお金を出します」

 私の言葉に一瞬だけ目が合う。しかし、直ぐに逸らされては口籠もり、曖昧な言葉で言い淀まれてしまう。

 ……私は待ちました。何十秒も何分も何十分も。それなのに天谷さんは何も答えてはくれず、ただ視線を逸らして口籠るだけ。

 もう少しで下校時刻になってしまう。そうなっては逃げられてしまう。

 時間と共に私が天谷さんに対する感情が怒りへと切り替わっていく。

「……では天谷さん。貴女にはその髪を戻さない理由もなければ、化粧品や香水を持ち込むことに対しても理由がないのですね?」

「そういうわけでは……なくてですね………」

 やはりどっちともつかない返答。少し離れた所にある時計の長針が『カチッ』と音を立てて動いた瞬間、私は我慢できなくなった。

「天谷さん、貴女、アルバイトをしているようですね?」

「な⁉︎…し、知ってたんですか?」

「偶然小耳に挟んだ程度でしたがその様子ですと本当の様ですね?」

 理由は聞けなかったが、アルバイトに関する裏取りはできた。ならその理由もきっとこれと絡んでくると思ってしまう。

「まさか天谷さんは学校が終わり次第アルバイトに向かっている。その為に化粧品や香水を持ち込んでいる。違いますか?」

「……え、えぇっと…」

 明らかに視線が泳いでいる。もはや言い逃れは出来ず、私は天谷さんの胸倉を掴んだ。

「髪は元に戻さない。化粧品は持ち込む。化粧をしたり香水も付けて、アルバイト禁止なのにアルバイトに行って。……貴女、本当に何しに学校に来ているんですか?」

 そのどれもこれもが校則違反。アルバイトに関しては受ける前に学校側の許可を取らなければならないが、この様子では取っていないのだろう。

「貴女、今週一週間そのまま過ごして、後十数分の下校時間になったらきっと忘れてまた来週も同じ格好、同じ荷物を持って学校に来るつもりでしょ?……ふざけないでちょうだい。例え貴女が転校生だとしてもこれ程までの校則違反を見逃す程私は優しくはないですよ」

 ギリギリと掴む力が強くなる。天谷さんは次第に絞まる首に息苦しそうにしながらも何も言おうとしない。視線を合わせようとしない。それが余計に癪に触ってそのまま突き飛ばす。

「貴女はこの学校の風紀を乱しています。理由がない限り特例もありません。私は不正を許しません。私は貴女を許しません。貴女が守るまで私は期間外でも貴女を取り締まります。貴女が正すまで何度も貴女を叱りましょう」

 言いたい事は言った。そして天谷さんが正さない限り私は彼女を許せないと感じた。

 用事は済んだ。そう言って私は帰る支度をする為に教室を後にしようとした時「待って!」と呼び止められる。

「……まだ他に何かあるんですか?」

「………………私を怒っても良いけどさ、じゃあさ…私より先に……お、怒って欲しい人がいるんだけどさ」


 §


 私はそのまま天谷さんに連れられて目的地に向かった。道中に会話らしい会話は無く、あったのは天谷さんのアルバイト先に今日は出勤できないという電話と本当にアルバイトをしていたことによる謝罪だけだった。

「こ、ここだよ」

「……此処って…貴女の家ですか?」

「そう…だよ」

 着いた先はそれなりに年数の経ったアパートの一室。ネームプレートには天谷と書かれており、直ぐに彼女の家だと気がついた。

「……ただいま」

「お、お邪魔します」

 部屋に入って直ぐに私は顔を顰めた。

「な、何ですかこの部屋。汚いし…それに何ですかこの臭いは?」

 玄関には大量のゴミ袋が散らばっており、流しには洗い残された食器の山に開封されたお菓子にゴミ箱に入り切らなかった汚れたコンビニ弁当の容器が散らばっていた。

「こっちだよ」

 天谷さんは私の問いに答えず、ゴミの山を踏み潰しながら部屋の奥に進む。部屋の奥に行くにつれて生ゴミ臭さや足元に転がるペットボトルやお酒の入った缶から腐臭が強くなった。

「此処にいるよ」

 そう言われて最後の扉の前に来る。扉の奥からは薄暗い中に点滅する光。音からして誰かがテレビを見ているのだろう。

「えっと語部さん。私がアルバイトをしていた理由なんだけどね?私の親はお父さんしかいないの。お父さんはお母さんと離婚してから働かなくなって……だから私が生活費を稼ぐ為にアルバイトをしてたの」

「それならそうと、父親を説得するなり先生に許可を出してもらえれば良かったじゃないですか?」

「あはは。それが出来たら苦労しないよ」

 天谷さんが扉を開ける。其処は締め切られたカーテンに永遠と熱気を吐き続けるエアコン。テレビからは漫才が放送されているためかゲラゲラと笑い声がする。そんな部屋に確かに何かがいた。

「あ、あの人が天谷さんの……」

「うん。お父さん」

 丸々と太った体にキツそうなスウェット。手はスナック菓子とビール缶を交互に握り、その手で髪の毛や背中を掻く。そんな言葉にしたくない言葉を吐き出してしまいそうな大人がそこにいた。

「語部さん。語部さんが私のお父さんに怒って改心させる事が出来たら、私も髪の毛も元に戻すし化粧も香水も持っていかないし、アルバイトも辞めるよ。……だからほら、言ってよ」

「本当に直すんですね?……その言葉、信じますよ?」

 クシャックシャッっとお菓子の袋を踏みつけながらも部屋に足を踏み入れる。空気が淀んで気持ちが悪い。部屋が薄暗いから尚更だ。

 何とか明かりのスイッチを見つけて押そうとすると、油のせいかネトッとした感触に鳥肌が立った。

「……大丈夫。大丈夫」

 自分を言い聞かせながらも、ハンカチ越しでスイッチを押す。『パチッ』と音を立てると共に室内が明るく照らされる。薄暗かった為見えなかったけれども、そこらかしこに散らばったゴミの数々に脱ぎ散らかされた衣類、蛍光灯の灯りでギトギトに光る髪に一瞬吐き気がした。

「……あ?…何してんだお前?」

 流石に明かりが付いた事に気がついたのか、父親らしき男性が振り返ってきた。男性は私を一瞥した後、直ぐ後ろにいた天谷さんを見るなり、聞こえるぐらい大きな舌打ちをした。

「何だ鈴香?今日は帰りがはえぇじゃんかよ?……バイトはどうした?」

「バイトは休んだ」

「——あぁ?」

 ドスの効いた声が吐かれる。男性はテレビのリモコンを天谷さんに投げつけながらも重たい体を持ち上げる。座った状態では分からなかったけれども、男性はそれなりの身長があり、私達を見下ろしながらもゆっくりと近づいてくる。

「テメェが働かなきゃ…誰が飯の金を用意するんだよ!」

 吐かれる文句と悪臭。思わず顔を背けるも、天谷さんは慣れているのかなんて事ない顔で私の背中を押した。

「言いたい事は分かるけどお父さん、今日は語部さんがお父さんに言いたい事があるから来てもらったんだよ?」

「あぁ?」

 男性の視線が私に向く。背後からは天谷さんが「ほら、言ってよ」と私を急かす。

「大丈夫大丈夫大丈夫……」

 何度も何度も自分に言い聞かせる。大丈夫だ。私は間違えていない。私は悪くない。悪いのは娘に校則違反をさせているこの男性だ。この男性を改心させれば天谷さんも直してくれる。

 私は意志を固めて息を大きく吸い込んで叫んだ。



「あ、貴女は!自分の娘にアルバイトさせて、自分は家でそんな生活をして……は、恥ずかしくないんです「うるせぇ」」



 ……男性は私の言葉を遮る様に『バチン!』と頬を叩いた。体格や体重差もある為か、その一発はとても重く、私は呆気ないほど簡単にゴミの上に倒れ込んだ。

「お前が誰だか知らんけどさ……人の家の事情に首を突っ込むなよこのクソガキがよ!」

 男性が馬乗りになってまた叩いてくる。

「何も!知らん!やつが!俺に!命令!するんじゃ!ない‼︎」

 ……まさか叩かれるとは思っていなかった。こんなに怒鳴られるとは思っていなかった。だって私は間違えていないし、悪いのは向こう。それに私とは初対面だ。

 私が困惑している間にも男性は私に暴力を振るう。最初は平手打ちだったのが、次第に握り拳へと変わっていく。

「この!クソガキが!お前も!お、俺を■■■だって!●◆%#°¥÷*だって!おい!ゴラ‼︎」

 怒りには正当な理由がある。間違いを正す為に怒り、叱る。私の親はそうだった。そう教えられた。

 しかし目の前の男性の言っている事は支離滅裂で、正当性も無いただの溜まった不平不満を怒りとして吐き出しているだけに過ぎない。子供が思い通りにいかない時に起こす癇癪のような怒り。お酒が入っている為か余計に言葉に何の意味も感じられない。

「……ご、ごめんなさい…ごめんなさいごめんなさい…ごめんなさいごめんなさいもう殴らないでくださいお願いします」

 けれども私は目の前の大きな子供に言い返すどころか、振りかざされる拳や暴言から身を守る為に体を丸めて許しを乞いていた。

 暴力を振るわれて見えた滲む視界の先、天谷さんの方を向いたが、どんな表情をしているか分からない。

「……元はと言えば、お前がこんなやつ連れて来なければこんな事にならなかったんだ!……こんな事のために仕事を休んだのかてめぇ!」

 次第にくらむ遠ざかる意識の中、私が見たのは私と同じように実の娘である天谷さんに馬乗りになって拳を振り上げる男の姿だけでした。


 §


 …………結局、私は天谷さんの父親に何かをする事は出来ませんでした。

 深夜に天谷さんに起こされると、切られたのか短くなった髪の毛と青痣だらけの顔のまま、男性を起こさない様にと静かに家を追い出されました。

 後から気がついた事だったけれども、天谷さん化粧は怪我を隠すものでした。染められたワインレッドの髪もターコイズカラーのメッシュも隠しきれなかった怪我の痕から視線を逸らさせる為のもの。香水もあの部屋に染み付いた臭いと怪我の消毒液の臭いを誤魔化す為のもの。学校にそれらを持ってきたのも、早く家から出て、近くの公衆トイレなどで誤魔化す為にあったものでした。

 荷物は天谷さんの家に忘れてきたけれども、私はそれに気が付かずに痛む体を引きずって家に帰りました。

「正夜、お前こんな時間までに何……正夜?お、お前…何があった⁉︎」

 家に帰ると深夜なのに明かりがついており、中に入れば父が私を待っていました。父はボロボロの私を見るなり事情を聞き、母を起こしてはまだ深夜なのに対して家から出て行ってしまいました。


 §


 ……翌日、天谷さんの父親が家庭内暴力を理由に捕まり、娘である天谷さんは父親と縁を切り、施設に入ることとなったのを聞いた。

 その話を聞いた私は男性に暴力を振るわれた光景がフラッシュバックして数日間パニックに見舞われた。

「……おはようございます」

「正夜。……おはよう。もう大丈夫か?」

「……分かん…ない。……でも、休みっぱなしは……悪いから」

 やっとパニックが落ち着いた頃、私は再び学校に行く事にした。両親からは憐れみの視線を向けられるものの、その視線と合わせない様に下を向いて歩いた。

『おはようございます!』

「ひっ⁉︎」

 校門では既に集まっていた風紀委員達が挨拶運動をしていた。かつて自分もしていた大きな声での挨拶だったが、大きな音や男性、暴力に臭いと沢山なモノが原因でスイッチが入るトラウマができてしまった為、私はそれらから逃げる様に裏口から学校に入った。


「……じゃあ、語部は風紀委員を辞めるんだな?」

 授業に参加する前に私は保険の先生と一緒に顧問の先生に風紀委員を辞める事を相談した。事情を知っているのか先生は直ぐに了承してくれた。その際に「早く元気になれよ」と私の肩を叩こうとした瞬間、私はそれを躱す様に保険の先生の背後に隠れては身を丸く縮めてしまった。

「……すまない」

 いいえ。先生は悪くありません。悪いのはあの男であり、それに負けた弱い私が悪いんです。

 ごめんなさいお父さん。私は正しくあれませんでした。

 ごめんなさいお母さん。私は自分の在り方を貫けそうにありません。

 ごめんなさい。私は不正を正す事を恐ろしいと感じてしまう程、弱くて情けない人間になってしまいました。

 ごめんなさい。ごめんなさい。……ごめんなさい。


「あっ!」


 保健室に戻ろうとした際に聞こえた声に身が強張ってしまう。

「……あ、天谷……さん?」

 恐る恐る振り返るとそこには、大きく変わった姿の天谷さんが立っており、私を見るなり嬉しそうに近づいてきた。

「おはよう語部さん!」

 久しぶりに再開した天谷さんは化粧をしておらず、顔にガーゼが貼られた痣だらけの顔をしており、香水の匂いの代わりに消毒液の臭いがした。あの長くメッシュの入っていた髪も短く切り揃えられており、ワインレッドの髪の根元には本来の色であろう焦茶色の地毛が生えていた。

「今日から復帰したの?」

「そ、そういう天谷さんは……その、大丈夫なんですか?」

「うん!と言っても、私もついこの間復帰したんだ」

 あんなに言い淀んでいた髪も化粧も無くなったのに、今の天谷さんの表情はとても晴れ晴れとしていた。

「語部さん、私を助けてくれてありがとうね。語部さんのお陰でもう殴られなくてすむし、毎朝公衆トイレで身支度しなくてもいいし、学校が終わった後に夜遅くまで働く必要もなくなった。全部全部語部さんのお陰だよ!」

「……え、あぁ」

「語部さんのお陰だから約束通り化粧品も香水も持ってきてないし、髪は……まぁ本当に髪染め買うお金がないから買えなかったけど、こうして地道に地毛に戻すから安心してね!」

 そう言って天谷さんが私の手を握る。口々から溢れる感謝の言葉。

「……っと、チャイム鳴っちゃったし私行くね?今度一緒にご飯とか食べに行こうね!」

 チャイムが鳴ると同時に天谷さんは背を向けて走って行ってしまう。『廊下を走ってはいけません!』以前の私ならそう叫んでいた。けれど今の私はその言葉を吐こうとした瞬間、喉の奥がキュッと締まり、息が出来なくなる。

「大丈夫語部さん⁉︎」

「だ、大丈夫…です」

 先生に助けられながらも息を整える。

 ……私は両親の教えや自分の在り方を掲げて正義を執行しに行った。その結果がこのどうしようもない心の傷と一人の女子生徒を救えた事の二つ。

 私は正しい事をした筈なのに私は今後ずっと消えないトラウマを抱えてしまった。例え正義のお陰で一人救えたとしてもだ。

 私は…私は救えた事を喜ぶべきなんでしょうか?それともこのトラウマを抱えたこれからの暗い人生に悲しむべきなんでしょうか?

 教えて下さいお父さん。

 教えて下さいお母さん。

 私は正直者だから馬鹿を見たのでしょうか?


 最早自分では判断が付けられない。

 最早立ち上がることすらできない。

 どうしたらいいか分からず、私は嗚咽を漏らす。保険の先生に腕を引かれて立ち上がった時、僅かに反射した窓ガラスにはぐしゃぐしゃになってどんな表情をしているか分からない私の顔が映っているように見えた。

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正義執行 通行人B @aruku_c

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