五十二 愛する君の真の名は

 いしゅたるに取りつかれたきるけえを追って私は甲板へ飛んだが、甲板も遠くに見える海岸も静まりかえっていて、きるけえの言う様に肉を焼いた気配もなかった。

「神鷹、ウミヘビを捉え我が元へよ!」

 きるけえは誰もいない甲板で月に向かって手を高く差し出した。

 その様を紋次郎もんじろうがきるけえの死角からじっと見ていた。


 きるけえの声に応えて月の光から現れて夜の海に急降下した鷹は、ウミヘビを咥えて甲板に立つきるけえに差し出した。

「破!」

 紋次郎おいでもんじろうが目にもとまらぬ速さで印を組みながら叫ぶと、ウミヘビがきるけえの手から滑り落ちた。

 ウミヘビの元へ走り出た紋次郎もんじろうはその首を短刀で刺し貫くと、背から二つに裂いた。


「許さぬ、許さぬぞギルガメシュ。主は天の牡牛に引き続き天の蛇をも殺したか!」

 いしゅたるの言葉が野太い男の声となって甲板中に響いた。

「良いかギルガメシュ。お前は天の牡牛を殺した代償で永遠の命を渇望しながら死んだ。そして憎まれ者のオデュッセウスとして再び生を受け、長き苦難の旅路の途中でキルケに産ませた子供に殺される運命となったのよ。その苦しい生涯を経てもなお、天の牡牛を殺した罪は償い切れておらぬと言うに」

 いしゅたるに取りつかれていたはずのきるけえは、全身の力が抜けたようにくずおれていた。

「お前は今また小出紋次郎おいでもんじろうとして、天の蛇を殺すという大罪を犯した。お前は更に重い罪を背負う事となったのだ」

 きるけえの代わりに、いしゅたるは綺堂を依り代に選んだらしい。 

 きるけえは蒼白になりながら、綺堂が発するいしゅたるの言葉を聞いていた。

 ふらんそわはぺたりと甲板に座り込むきるけえを包み込むように側にいる。


「ようやくあんたの事を思い出したよ。あんた俺のことがまだ忘れられないのか。好きで好きでたまらずに、今度こそ俺に振り向いて欲しくてこんなバカな真似をしているんだろう。いやあ五千年を超える片思いってのは辛いねえ」

 紋次郎もんじろうはせせら笑うように叫んだ。

「悪いがね、俺はあんたのような女は好みじゃないんだ。五千年以上前に言っただろう」

 いしゅたるの依り代となった綺堂は、微動だにせず紋次郎を見据えていた。

「あんたは確かに見てくれは奇麗かもしれないが、男を欲して飽きれば獣にしたり拒めば気まぐれに逆剥ぎにしたり獣に食わせたり。この五千年間のたった一度でも男にあんたの真心の一つでも差し出したのかね。いや、無理だろうな」

 紋次郎もんじろうは一段と声を張り上げた。

「あんたは何一つ変わっちゃいない。あんたに真心なんかそもそもない。キルケに取り憑いてアイアイエ島まで俺を呼び出したあの時も、俺は同じ説教をしたよな。天の女主人を気取る割には学習能力がなさ過ぎていけねえや」

 綺堂えんきどうの体を乗っ取ったいしゅたるは、紋次郎おいでもんじろうを嘲笑った。


「男に真心だと。笑わせるな。我は死すべき者から真心を捧げられる者であって、我に真心や誠などという死すべき者の持つ徳とやらがあるわけもない」

 綺堂の左親指が二尺七寸はあろう剣の鯉口に伸びた。

「神とは力よ。神とは繁栄よ。神とは生み増やし死すべき者を地に返す営みの主宰者よ。愛や真心、正義に法などは死すべき者の為に我が編み出した幻に過ぎぬ。神はそのような物で縛られる存在ではないぞ」

「御大層な口ぶりだが明星の大神とやらが俺というちっぽけな死すべき男一人モノに出来ないのは何でかね。ちなみに言っとくが、俺はキルケなら抱く。あんたはその価値がない」

「天の女主人、明星の大神に何たる無礼。増上慢。滅びよ」

 いしゅたるに操られた綺堂は絶叫すると、薩摩示現流を彷彿とさせる剣裁きで小出紋次郎おいでもんじろうの頭蓋の中央向けて真っすぐ剣を振りぬいた。


「キルケ、ヨモギを持ってきた。頼む」

 ひらりと剣線を交わしながら、紋次郎おいでもんじろうはヨモギをきるけえに投げ渡した。

 きるけえは受け取ったヨモギの束で夜空に向かって文様を描いた。

「主の呪術は所詮我の力を元にしているに過ぎぬ。効かぬわ」

 風圧でヨモギの束を跳ね飛ばすと、綺堂えんきどうは切っ先をきるけえに向けた。

「キルケよ。主は我の一の神殿巫女であったくせに我を欺き裏切り、西へ東へ流転した果てに我を滅ぼそうとするか。主の力は我の力ぞ。思い上がるな」

 剣先を振り上げた瞬間、ふらんそわが矢のように綺堂の右肘に飛び掛かった。

「邪魔だ、邪教の犬!」

 腕一本で払いのけられたふらんそわはそのまま海に落ちた。

 きるけえは絶叫して海へと駆けた。


 いしゅたるに操られた綺堂は、紋次郎もんじろうの体力をなぶるように奪い始めた。

 蛇の毒や蜘蛛の糸が絡まりつくように、ねちねちとじわじわと紋次郎もんじろうを追いつめていた。

 私は綺堂の首の根元を鋭いくちばしで破壊してやろうかと一瞬思ったが、彼とていしゅたるに操られているだけだ。

 それが分かっているから、紋次郎もんじろうも急所を仕留める事だけは出来ずにいる。

「不味いな」

 いしゅたるは船の生き残り達も操り始めたようだ。

 ヨモギの焚かれたかがり火が消され、甲板へと男達がわらわらと上がってきた。

 私はふらんそわに教えたように、愛、愛、愛といしゅたるの嫌う言葉を唱え続けた。


「俺を裏切るつもりか。良いだろう」

 紋次郎もんじろうは石や生ごみが遠巻きに投げ込まれるのを避けながら、鷹のような眼光で自身を取り囲む男たちをぎろりと見やった。

「良い、実に良い眺めぞ。大人しく我の神殿に上がれば良かったものを、死すべき者の分際で侮蔑とともに拒んだがゆえにこのざまだ」

 生ごみが腐臭を放つ中、紋次郎もんじろうは芋虫のように甲板を這った。

「今生では最愛の友エンキドゥと相打ちで果てるか。共に天の牡牛を屠った神殺しのお前たちに似合いの末路だな」

 綺堂に取りついたいしゅたるは、切っ先を紋次郎もんじろうの喉元に合わせて嘲笑った。

「シャマシュ!」

 紋次郎もんじろうは、ふらんそわを追って夜の海へ飛び込んだきるけえに向けて叫んだ。

「それがお前が愛し愛される男の真の名だ。力の限り呼べ。まだ間に合う!」


「我の一の神殿巫女が異教の犬の洗濯女に成り下がるか。お前もあれも愚かよのう」

 切っ先が振り上げられ、月の光を吸い込んだ。

「さらばだ、ギルガメッシュ。愚かなるイタケの王オデュッセウス。浅はかなる小出紋次郎おいでもんじろう。我はお前を端から必要とはしておらぬ」

 切っ先が空気を切り裂いた刹那せつな、ふらんそわの真の名前を呼び続けるきるけえの絶叫が掻き消えた。


 船が大波にさらわれたのだ。

 飛び上がった私の上で、キルケの鷹が旋回するように舞っていた。

「ワシにはまだ、水神としての力は残っておるのじゃ」

 きつつきになった私の前に、水神が現れた。

 前に会った時に比べて随分と姿形がはっきりとしていた。

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