四十三 愛はキルケを救う
太陽がすっかり白くなった頃、私の体はきるけえから自然と分離した。
久方ぶりに放った私の欠片は、きるけえの
彼女の救いの光となる愛し子が生まれてくるような、聖なる交合とは程遠いものだった。
そう言えば、彼女は子を成した事があるのだろうか。
呪いを掛けられているとは言え、体だけは男たちに求められてきたのだから、彼女は数多の男の精をその胎内に宿してきたはずだ。
聞けるような話でもないが、私の放った精は彼女の
「私を愛していただけますか」
私の脳内の声が聞こえたのか、放心状態だったきるけえが体を起こして尋ねた。
「私はある意味においては、あなたを愛しているとも言えなくもない」
はぐらかすようで狡いとは我ながら思った。
「それでも良いのです。初めて、愛していると言っていただけました」
きるけえは目に涙をためきれず、私の肩口に顔を埋めてすすり泣いた。
私はふらんそわよりも残酷だった。
「それでも、良いのです。旦那さま、お慕い申し上げております」
私はたまらなくなってきるけえの首筋を強く吸い上げた。
結局浜昼顔を再び枕代わりにした私たちが館に着いた頃には、朝食はすっかり干からびていた。ふらんそわはいなかった。
館に戻った私は湯を一人で使う事にした。
それにしても、昨夜から数えれば半日で三回もきるけえと交わったと言うのに、私はまだ人の姿を保っている。
恐らく、水神の力の届く範囲である海辺で、月の力を打ち消す太陽光の下で交わった事も好影響だったのかもしれないと思った。
「意外とやりおる」
むわっとした薔薇の香りと共に、あの聞きなじみのある声が聞こえてきた。
「嫁と子供を裏切って食す女の味はどうだった」
くすくすと笑ういしゅたるの姿は見えない。
私は聞こえないふりをして頭を洗った。
「それにしても主は愛してもいない女に、愛しているなどと嘘をつける男だとは思っていなかったのだがな、これはとんだ誤算だ」
「嘘ではありません。嘘ならばきるけえに見抜かれましょう」
頭をすすいだ私は、虚空に向かってにやりと不敵な笑みを浮かべた。
くちなしのと青りんごの香りが漂った。
いしゅたるの姿がまるで水神のように、おぼろげに湯煙に浮かんだ。
「愛されぬ呪い、でしたな」
「そうだが」
いしゅたるの声がやや揺れたのを私は聞き逃さなかった。
「愛の種類がいかほどおありかと。恐れながら貴方様が考える以外の愛の姿が、人の世には無限に満ち溢れておりまする」
「ふん、小賢しい。
いしゅたるは明らかに苛立ったように湯船の水面をたたいた。
「私はある意味においてはきるけえを愛しているのです」
「言うな!」
いしゅたるが叫んだ。
「愛、愛、愛している、愛、愛、愛している」
「一回で十分ぞ!」
「
「止めよ!」
いしゅたるが絶叫するのに合わせて湯船がひっくり返り、館がみしみしと音を立てた。
「呪いは解けておらぬぞ! 解かせぬぞ!」
「愛しています。愛、愛、愛」
「妻子を裏切ったのだ。お前は妻子を捨てた」
「愛、愛、愛」
いしゅたるの言葉を耳に入れぬように、私はひたすらにいしゅたるが嫌がる『愛』という単語をつぶやき続けた。
「許さぬぞ。二瓶十兵衛。人の身にありながら神を出し抜こうとするなぞ言語道断。必ずやこの明星の大神を愚弄したことを後悔させてやる」
大音声で叫んだかと思うと、湯屋の天井がめりめりと音を立てて崩れ落ちてきた。
「悔いよ、土くれから出来た者」
私の体は落ちてきた天井と
館全体が強い揺れに見舞われたのか、いしゅたるの出現した湯屋だけが被害を受けたのかを私が推し量ることは出来ない。
私はひび割れた地面と天井を支える
そのうち、私は痛みの感覚をも失った。
この生きているとも死んでいるとも言える曖昧な世界で私は死を選ぶことになるのかと思ったその時だった。
鋭い犬の吠え声が聞こえた。ふらんそわだ。
「旦那さまっ」
「ご無事で」
私は声を張り上げようとしたが叶わない。
瓦礫の隙間からふらんそわの鼻先が覗いた。
「ああ……」
絶望したようにきるけえがため息を漏らした。
仮にこの状態で助け出されても、長くは生き永らえぬであろうことは自分が誰より分かっている。
私は出せぬ声を振り絞るように、埋め込まれたチップで増幅された想念がしっかりきるけえに届くように念じた。
『いしゅたるの弱点は愛です。愛はあなたご自身にも、この世界全てにも
それだけを声にならない声でつぶやくと、私の視界が真っ黒になった。
「旦那さま、旦那さまっ」
死の直前には聴力が最後まで残るのだと私は知った。
「旦那さま、許して。私を愛してくれた方」
それが私が最後に聞いた一言だった。
目を開けると、私は波打ち際にいた。いやに視界が高い。いや、何かがおかしい。
ぐるぐると視界が回る。
『どういうことだ!?』
私の叫びはもはや人語では無かった。
動こうとするたびにぐるぐると視界が回り、身を捩らせようともがくと私の体が宙に浮いているのが分かった。
あたかも何度か思い浮かべた光景のように。
必死でもがくが足が地につかない。
体が嫌に軽く、何より自分の口から出る叫びが耳障りの悪い甲高い鳥の声になっていることに絶望した。
「旦那さま、許して。旦那さまをお助けする方法はそれしか無かったのです」
「私は何にされたのだ」
私の言葉はもはやきるけえには伝わらない。
私はきるけえの傍らに
「きつつきです。全壊した湯屋から自力で出ていただくには、小鳥にする他に方法がなかったものですから」
「そうか……」
ハイブリッド型パイケーエス式潜水艦初号機も、墓場歩きもちたん製のちっぷも全ては無駄なあがきと成り果てたのだ。
因果律が働かず、時間の流れすらゆがむこの世界では、どんな理屈も道理も試行錯誤も何ら意味も持たなかったのだ。
いかにもイシュタル好みの、あまりに理不尽な結末だった。
「地震は島全体で起こったのか。とむは、法主様は、皆は無事か」
ふらんそわは悲しげに目を伏せた。
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