一 浜辺の女

 酷く寒い。いや、痛い――。

 うっすらと目を開けると、一人の女と目が合った。

 口の中が磯臭く、横たわった背中には荒めの砂が食い込んでくる。

 私は桃山幕府御用達の旗を掲げた船に絹織物を満載し、タコつぼ湾を避けながらウツボ海を渡っていたはずだった。


 ここは何処だ――。

 他の乗組員の気配もなければ、女以外の気配もない。

 波の音だけがいやに耳につく。

 目の前の女に聞きたい事が色々あるが、鼻で息を吸うのがやっとである。


 女は年のころ二十歳ぐらい。

 このあたりの女にはあまり見かけぬ、色あせたわかめのようにうねった髪に高い鼻が目立った。黒真珠の瞳が印象的だ。

「貴方だけが助かったのです。おいたわしい」

 彼女は嫣然えんぜんとした声で私に告げた。

 髪を梳く手つきもそこいらの女のそれと明らかに違う。


 妖女きるけえに捕らわれると悪名高いタコつぼ湾を避ける針路をとっていたはずなのにどうしてだ。

 本当に、乗組員は全滅してしまったのだろうか――。

 私は再度自分の力を振り絞って起き上がろうとするが、体がまるで言うことを聞かない。




「ひどい波にもまれてお体が動かないのですね。すぐに楽にして差し上げますわ」

 女は服の胸元から二枚貝を取り出すと、膏薬こうやくを指ですくい上げた。

「目を閉じて、体の力を抜いてくださいませ」

 言葉のままに目を閉じると、ぬとっとした質感をまとった指が私の唇をなぞる。


「少しなじませますわね」

 いうや否や、女の舌が私の唇をこじ開け、私の髪をいていた指がその頭を抱いた。

 いったいこれはどういう事だ――。

 催眠にかかったように体が動かなかったものの、私は全身を固くして拒絶の意を伝えた。




「わたくしが醜いからですか。わたくしを愛してはいただけませぬか」

 女の声は、彼女が私の拒絶に酷く傷ついた事を告げていた。

 だが私はそれどころではない。

 全身から熱が奪われ朦朧もうろうとし、体を動かす事も出来ぬ状態の男に何を求めようと言うのか。


 その上私は妻と幼い子を故郷に残してきた。

 子守歌の上手で優しく美しい妻と、彼女に良く似た息子だ。

 私が欲するのは、盛りのひまわりの如き笑顔に程よく日に焼けた肌、少し筋肉質の健脚で骨太な妻ただ一人だ――。




「わたくしが愚かだからですか。愚かな女は愛されぬのでしょうか」

 素性もわからぬ浜辺に打ち上げられた男にいきなりまたがって愛されようなど、狂気の沙汰だ。

 そうして種を得たところで、一人孤島で赤子を育てあげる事が出来ようものか。

 そこまで思った瞬間、私は自分の上に悲しげにまたがる女の素性に気が付いた。


「どうぞわたくしの名前を呼んでくださいな。幾年もわたくしは名を呼ばれておらぬのです」

 呼んではならない。だが、女の声は逆らえぬ命令に等しかった。

「きるけえ」

 呼ばわった私の声は女のように濡れていて、自分の声とはとても信じがたいものであった。


「うれしゅうございます、旦那さま」

 唇を再度塞ごうとしたきるけえから身をよじって逃れると、私は潮風の濃い香りを吸った。




 妖女きるけえの住む小島に流れ着いて戻ったものはおらず、精を抜かれ機嫌を損ねれば獣に変化させられ元に戻れなくなる――。

 ウツボ海の漁師達に聞かされていた話の通りならば、間違いなく彼女の機嫌を損ねる事だろう。

 とにかく、機嫌を損ねずに時間稼ぎをしながら対策を練るしかないと思った私はとっさに逃げ口上を使った。


「私はあなたの事をまるで知らない。あなたの事を知ってから、私の事を知って頂いてから、我々の仲を深める訳には参りませんか。それに私はいきなり見知らぬ場所に流れ着き、動揺しているのです。気持ちが落ち着くまで、私をそっと見守っては頂けませぬか」

「あまりに長い間一人きりで過ごしておりましたので人恋しくて。とんだ失礼を致しました。どうぞお許しを」

 あっさりときるけえは私の上から降り、砂を柔らかな手つきで払った。


「旦那さまがお戻りになるための船を造らせますので、それまでゆるりと館でお過ごしくださいな」

 きるけえは立ち上がると、砂浜の奥に見える館を指さした。


 船を仕立てると言うものの、一人としてきるけえの元から戻ってきた者はいない。

 いっその事、ここは死後の世界なのだとでも思った方が合点が行く。

 そう自分に言い聞かせると、先ほどまでの硬直と寒さが嘘のように解けた。

 私はきるけえの後を無言で追った。

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