2

 きるけえを見送った私は寝室のドアを開けた。

「よう耐えたな、六十人目。めてつかわすぞ」

 濃い緋色ひいろの衣服に深い紫色の肩掛けを掛けた妙齢みょうれいの女が、寝台に胡坐あぐらをかいていた。

 その体は人と変わらぬ大きさだが、明らかに人ならざる後光が射していた。

 私は思わず床にひれ伏した。

「良い、良い。今夜は無礼講ぶれいこうぞ。六十人目、面を上げい」

 おそるおそる頭を上げると、薄桜色の指と空色の宝石をあしらった指輪が目に入った。


「あれには食指しょくしが動かぬか」

 けだるげに髪をかき上げ、勝ち誇ったようにいしゅたるは笑った。

「彼女は子供そのものです。何とむごい事を」

「なあに、神とはもとよりむごいものよ」

 その言葉に、私は後頭部を思いきり殴りつけられたような衝撃を受けた。

「考えてもみろ。お前の神はお前を救ったか。お前の仲間を救ったか」

「それは、そのような巡りあわせであったとしか答えようがありませぬ」

 いしゅたるはけたけたと笑いながら、黄金の杯になみなみと注がれた血色の酒を飲みほした。


「何が起こっても何をされても都合の良いように考えては前を向く。踏まれても踏まれても立ち上がる青人草あおひとぐさの何といことよ」

 黄金の杯に手酌てじゃくで血色の酒を注ぐと、ずいと私に差し出した。

 私は目をつぶってぐいと葡萄酒ぶどうしゅを飲み干した。

「良い飲みっぷりだ、六十人目。さあ、近う寄れ。ここに来やれ」

 私は言われるがままに寝台によじ登った。


「案ずるな、人の世のお前をそのまま食らう事は叶わぬでな」

「では人の世の男を食らいたくなった時にはどうなさるのですか」

 誠に不躾ぶしつけな質問だが、興味には逆らえなかった。

「簡単な事よ。我の神殿に仕える者どもに相手をさせるのみ」

 初めて顔が見えた。

 きるけえとどこか似た面差しだが、その神威しんいは人の姿をとってなお隠しおおせるものではなかった。


「キルケは主の先祖がまだ土くれであった頃に我が神殿に仕えておった。ある時、我は神から人に降りてでも手ずから愛でたい男を見つけたのだ」

 いしゅたるは、柔らかく巻かれた髪をほっそりとした指先でもてあそんだ。

「神である我が死すべき者であるその男を手ずから愛でるには、ある特殊な方法以外にすべがない。その男だけは神殿の巫女に相手をさせるのもしゃくにさわってな」

 神は嫉妬や独占欲を超越した存在であるはずなのに、いしゅたるの言はどれもこれも異質さがぬぐえない。


「その男が旬のうちに我が手に抱きたいと思うて、ちょっとした神託しんたくを出したのだ」

 神託を軽んずれば即命を落としたであろう、気の遠くなるような昔の話だ。

 いしゅたるのちょっとした神託とやらで、過去に幾人が命を落としたのだろうかと思うと私はぞっとした。

巫女みこは神託を受け取り人に伝えるただの肉の器だ。それをあの愚かな女ときたら分もわきまえず! 死を以ってあがなうなど生ぬるい」

 空になった黄金の杯をぽいっと床に投げ捨てると、いしゅたるはどさりと寝台へ身を投げ出した。

 巫女みことして最も重い罪とは何だろうか――。

 私は床に投げ捨てられた黄金の杯を、緩慢かんまんな動作で拾い上げ円卓に置いた。


「だからのう六十人目、あれに同情も憐憫れんびんも不要なのだ。あれは我から授かった力を己が力と思い上がり、自滅しただけよ」

 確かに私はきるけえに同情と憐憫れんびんの情を抱き始めていた。

 気の遠くなるような年月を過ごしているとは言え、今の彼女は愛情に飢えた孤独な女でしかない。

 誰彼だれかれとなく愛してしまうのに誰からも愛されぬ呪いは、死よりも辛いに違いない。


「それが罠ぞ。獣になりたくないのならキルケの誘いに乗るな」

 きるけえはふざけて人を動物にするような存在だとは思えなかった。

「ふざけていないから性質が悪い。あれは我の力を中途半端に身に着けて居るが故、意図せず相手を動物に変えてしまう時があると言っただろうに」

 私の脳裏に、波打ち際で鳥になってバタバタともがく己の姿がふと浮かんだ。

 必死で他の事を考えようとするが、考えようとすればするほど鳥の目線のように自分の目が回っていった。


 目を覚ますとまだ夜明け前のようだった。

 あれだけ饒舌じょうぜつだったいしゅたるの姿も気配も、忽然と消えていた。

 妻と子は元気にしているだろうか。

 そもそもこの小島と故郷での時間の進み方は同じなのだろうか――。


『死の世界だと決めつけたのはそなたであろう。ここはそなたが死の世界と思えばそうなり、生の続きだと思えばそうなる世界に過ぎぬ』

 いしゅたるの言葉が何度も脳裏をめぐる。

 例え私が未だ生の世界の住人であるとしても、竜宮城へ赴いた男のように故郷に戻った時には妻と子どころか子孫すら既に亡くなっている事もありうる。

 私の脳裏に、出迎える者も無くただ一人老爺の姿で海岸に取り残されたかの男の姿が鮮明に浮かび上がった。

 私は胃の中が空になるまで嘔吐おうとした。


 汚した寝台もそのままにふらふらと厠に向かった私は、蛙やとかげなどの顔をした人型の男達が、うずたかく積まれた木材を大八車だいはちぐるまで引いていくのを見た。

 一刻も早く船を完成させ、この島から逃げ出したい――。

 私は朝食を勧めるきるけえを制して一心に大八車だいはちぐるまのわだちの後を追った。

 私はひどく焦っていた。


 湿気を帯びた重い砂に何度も転びながら走り続けると、大八車が見えてきた。

「私はきるけえの客人で、故郷に向かう船を一艘いっそう仕立ててもらう約束をした。所であなた方は船大工だろうか」

 とかげの瞳孔が刀のごとく縦に細くなった。

「もしそうなら私を現場に案内して頂きたい」

 とかげはふいと前を向くと、そのまま大八車だいはちぐるまと共に歩き始めた。


 大八車はうっそうとした低木が生い茂る低湿地ていしつちを、車輪を泥にとられながら進む。

 およそ四半刻しはんとき(約三十分)で、川端に建つ石造りのやたらと高い天井の建物にたどり着いた。

 中ではさまざまな動物の顔をした男たちがカンナで木材を削ったり、猫やうさぎの名残をもつ女たちが布を旗竿にせっせと巻き付けていた。

 どうやらこの島の工場らしい。


 食い入るように作業場を見つめる私にれたのか、とかげの顔をした男は指で船の作業場で戻るように指示した。

 ここの船大工は元々はここいらの漁師たちであろうから、私の知る船作りの工程とはさほど変わるまい。

 私は乾いた木材に糸で器用に印をつけていく大工たちを見ながら、少なからぬ安堵あんどの念を抱いた。

「これはきるけえと約束した私のための船の準備か」

 とかげの顔の男に尋ねたものの、彼の手ぶりからすると違うようだった。


 とかげの顔をした男の後を付いていくと、幾人かの大工衆らしき男達が車座になっていた。

 どうやら海豚いるかの顔をした男が設計の責任者のようだ。

 男は船の模型を私に見せてきた。

 まゆのような甲冑かっちゅうのようなそれは、もはや船と言って良いやら分からぬ代物であった。

 私は困惑の色を隠すこともなく、海豚いるかの顔をした男を見た。

 キンとした耳鳴りがすると共に、海豚いるかの顔をした男が手まねきをした。


 無機質な部屋の壁には、海豚いるかの顔をした男が手にした模型の原寸大の船が海に浮かんでいる様が映し出されていた。

 昨夜私を引っ搔いたオオヤマネコが乗っている。

 影絵のようなからくりだろうが、風景をそのまま映すとはどのような原理なのか皆目見当もつかない。

 映し出された船は、水筒のふたを閉めるようにオオヤマネコの体を隠すと瞬く間に海の中に消えた。


 私は、棺桶を作って海に沈めてくれと言った覚えはない。

 私は意思疎通の出来ない現状を呪った。

 苛立ちながらもしばらく壁に映る海を見ていると、水平線近くからぬっと棺桶のような船が現れて、水筒の蓋のような部分が開いた。

「どういう事なんだ。これは海女あまのように海底を泳ぐ船なのか。あり得ない!」

 私の驚きもどこ吹く風で、オオヤマネコがすまし顔で出てきた。

 彼はそのまま船の上で丸くなって日光浴をしていた。


「私がここから抜け出すための船はこの棺桶のような船なのか。そもそもこの棺桶は何を動力にして動いているんだ」

 矢継ぎ早の質問に海豚いるかの顔をした男はしばし下を向くと、持っていた紙と筆で海藻の煮汁らしきものが分離した上澄みを描いた。

 それを黒い模型の後部にある弁当箱のような入れ物に入れるのだと手ぶりで示す。


「私はこんな見たことも聞いたこともない船は動かせないぞ!」

 海豚いるかの顔をした男は私をちらりと見ると、聞いたこともない異国の言葉を空に向かって早口でつぶやきはじめた。

「きええええっ!」

 私の額は奇声と共にぐりっと指でこじ開けられた。

 背骨を火炎が駆け上るような衝撃と共に、視界が異様に広がった。


 私はたった一人深海に投げ出されたようだった。

 静まり返った何の気配もない場所で、意識だけがいやに明晰めいせきだ。

 そして己が棺桶のような船に乗せられて海中に沈んでいくのを、他人の如く見ていた。

 どうやら得体のしれない術によって、一時的に超感覚を開かれたらしい。


『この船は貴方の世界には未だ無いものですが、別世界ではすでに実用化されています』

 いしゅたるの時と同じく、脳内に直接声が流れ込んで来た。

『自動で操縦そうじゅうできますので舵取かじとりの必要はありません。海藻かいそうを動力源とし、最大で半月の間航海可能です』

 海豚いるかの顔をした男はまるでからくり人形のように、一方的に情報を伝えてきた。

『これは以前手掛けた試作品ですが、手を加えて十六夜いざよいの月には完成させます』

 今日が新月のはずだから随分と早く仕上がるものだと感嘆しつつ、この船以外の選択肢ははなから用意されていないのだと私は覚悟した。

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