孤島のキルケ(note版)

モモチカケル

1

 時は旧暦九月の新月前。

 フリーライターである私は、とあるタウン誌の取材でウツボ海に浮かぶ母子南島はこなじまにやって来た。


 日本のアドリア海の異名をとるウツボ海に浮かぶこの島は、ウツボ海随一の漁場として名高い。

 母子南島はこなじま唯一の観光資源である海鷹四方木神社みたかよもぎじんじゃのきるけえもうでの前日とあって、ひなびた漁村であるこの島はにわかに活気づいている。




 飛鳥あすか時代の昔からあつく信仰されているかの神社は、熊野造くまのづくり社殿しゃでん鎮守ちんじゅの森におおわれた、ひなびた漁村にふさわしい素朴な作りである。


 祭りの準備に沸く氏子衆うじこしゅうがいそいそと立ち働く中、写真を幾枚も撮って取材をしてきた私は、民宿に着いて休む間もなく大広間へと通された。





「ほら兄ちゃんもヨモギ団子をようけ(いっぱい)食いんさい」

 自然薯じねんじょのとろろ飯に岩牡蛎いわがきとニラの味噌汁、それから地鶏の直火焼とタコつぼ湾で取れた活タコを平らげて茶をすすっている私に、男が声を掛けてきた。


「ここだけの話、ここの親父さんの手作り団子の方が、道の駅のきるけえ団子よりご利益があるで」

 取材の為に│母子南島はこなじまの宿に前乗りした私と同じく、祭りの見物客なのだろう。蛙のような顔をした五十がらみの男である。


「明日の祭りの取材かいな。あんた若い男なのに良うやるな」

 口からヨモギの香りを漂わせながら、とかげのような顔をした男が口をはさんだ。


「ヨモギ団子をようけ(いっぱい)食っとかんと。きるけえ様に真っ先に狙われるで」

「おうよ。きるけえ様は若くてええ男に目が無いけえのう」

 それぞれウツボ海沿岸の別の港町から来たのだと言う二人は、この宿の常連だそうだ。


「お二方も、海鷹四方木神社みたかよもぎじんじゃのきるけえ詣でを見に来られたのですか」

 数えで十七歳になる青年たちが、沖合にある夫婦岩まで遠泳して干しヨモギを奉納するきるけえもうでは、県の無形文化遺産である。


「ワシらは氏子うじこじゃけえ、祭りに顔を出さんときるけえ様に怒られるわ」

「では、お若い頃には遠泳もされたのですか」

「そうよ。旧暦九月の新月を迎える朝には、雨だろうが泳がにゃならん」

 蛙のような顔の男が、顔をゆがめながらとかげのような顔をした男の方を見た。


「ワシらの頃は氏子は強制参加よ。今の若い男は参加せん者もおるけえな」

 全く最近の若い者はとため息をつきながら、とかげの顔をした男は数本目の団子に手を伸ばした。


「ワシらの頃は『きるけえが人さらいに来るぞ。きるけえに豚にされるぞ』と言われりゃ皆行儀が良うなってなあ」

「あるある。ワシもようけ(いっぱい)言われたんじゃ」

 私はメモを片手に、二人の常連客の会話に聞き入った。




「おっ、親父待ってました! いよっ大旦那!」

 蛙のような顔をした男の叫び声で、私は大広間のステージに目をやった。

 サンタクロース然とした宿の主人が、ステージ上で私たち宿泊客に頭を下げて語りだした。


「昔々、神代かみよの頃に、きるけえと言う名の、まじないと薬作りに長けた妖女がおりました。

 はるか西の国の出であるきるけえは、ウツボ海に浮かぶ孤島で一人寂しく暮らしておりました。


 さて、ウツボ海の漁師の中にはきるけえの元に流れ着く者がおりました。タコつぼ湾の奥にあると言うきるけえの島に流れ着いた男達は、二度と島から出る事は叶いませんで――」


 私は大旦那を前に激しい睡魔に襲われ、思わず広間の隅に横になった。

 目を閉じると、妙にくっきりとした視界の中に、黒真珠の瞳をした美しい女が海辺でたたずんでいた。


 彼女と目が合った瞬間、脳の中心が揺さぶられるような衝撃が襲った。




※※※




 酷く寒い。いや、痛い――。

 うっすらと目を開けると、一人の女と目が合った。

 口の中が磯臭く、横たわった背中には荒めの砂が食い込んでくる。

 私は桃山幕府御用達の旗を掲げた船に絹織物を満載し、タコつぼ湾を避けながらウツボ海を渡っていたはずだった。


 ここは何処だ――。

 他の乗組員の気配もなければ、女以外の気配もない。

 波の音だけがいやに耳につく。

 目の前の女に聞きたい事が色々あるが、鼻で息を吸うのがやっとである。


 女は年のころ二十歳ぐらい。

 このあたりの女にはあまり見かけぬ、色あせたわかめのような色のうねった髪に高い鼻が目立った。黒真珠の瞳が印象的だ。

「貴方だけが助かったのです。おいたわしい」

 彼女は嫣然えんぜんとした声で私に告げた。

 髪を梳く手つきもそこいらの女のそれと明らかに違う。


 妖女きるけえに捕らわれると悪名高いタコつぼ湾を避ける針路をとっていたはずなのにどうしてだ。

 本当に、乗組員は全滅してしまったのだろうか――。

 私は再度自分の力を振り絞って起き上がろうとするが、体がまるで言うことを聞かない。




「ひどい波にもまれてお体が動かないのですね。すぐに楽にして差し上げますわ」

 女は服の胸元から二枚貝を取り出すと、膏薬こうやくを指ですくい上げた。

「目を閉じて、体の力を抜いてくださいませ」

 言葉のままに目を閉じると、ぬとっとした質感をまとった指が私の唇をなぞる。


「少しなじませますわね」

 いうや否や、女の舌が私の唇をこじ開け、私の髪をいていた指がその頭を抱いた。

 いったいこれはどういう事だ――。

 催眠にかかったように体が動かなかったものの、私は全身を固くして拒絶の意を伝えた。




「わたくしが醜いからですか。わたくしを愛してはいただけませぬか」

 女の声は、彼女が私の拒絶に酷く傷ついた事を告げていた。

 だが私はそれどころではない。

 全身から熱が奪われ朦朧もうろうとし、体を動かす事も出来ぬ状態の男に何を求めようと言うのか。


 その上私は妻と幼い子を故郷に残してきた。

 子守歌の上手で優しく美しい妻と、彼女に良く似た息子だ。

 私が欲するのは、盛りのひまわりの如き笑顔に程よく日に焼けた肌、少し筋肉質の健脚で骨太な妻ただ一人だ――。




「わたくしが愚かだからですか。愚かな女は愛されぬのでしょうか」

 素性もわからぬ浜辺に打ち上げられた男にいきなりまたがって愛されようなど、狂気の沙汰だ。

 そうして種を得たところで、一人孤島で赤子を育てあげる事が出来ようものか。

 そこまで思った瞬間、私は自分の上に悲しげにまたがる女の素性に気が付いた。


「どうぞわたくしの名前を呼んでくださいな。幾年もわたくしは名を呼ばれておらぬのです」

 呼んではならない。だが、女の声は逆らえぬ命令に等しかった。

「きるけえ」

 呼ばわった私の声は女のように濡れていて、自分の声とはとても信じがたいものであった。


「うれしゅうございます、旦那さま」

 唇を再度塞ごうとしたきるけえから身をよじって逃れると、私は潮風の濃い香りを吸った。




 妖女きるけえの住む小島に流れ着いて戻ったものはおらず、精を抜かれ機嫌を損ねれば獣に変化させられ元に戻れなくなる――。

 ウツボ海の漁師達に聞かされていた話の通りならば、間違いなく彼女の機嫌を損ねる事だろう。

 とにかく、機嫌を損ねずに時間稼ぎをしながら対策を練るしかないと思った私はとっさに逃げ口上を使った。


「私はあなたの事をまるで知らない。あなたの事を知ってから、私の事を知って頂いてから、我々の仲を深める訳には参りませんか。それに私はいきなり見知らぬ場所に流れ着き、動揺しているのです。気持ちが落ち着くまで、私をそっと見守っては頂けませぬか」


「あまりに長い間一人きりで過ごしておりましたので人恋しくて。とんだ失礼を致しました。どうぞお許しを」

 あっさりときるけえは私の上から降り、砂を柔らかな手つきで払った。


「旦那さまがお戻りになるための船を造らせますので、それまでゆるりと館でお過ごしくださいな」

 きるけえは立ち上がると、砂浜の奥に見える館を指さした。


 船を仕立てると言うものの、一人としてきるけえの元から戻ってきた者はいない。

 いっその事、ここは死後の世界なのだとでも思った方が合点が行く。

 そう自分に言い聞かせると、先ほどまでの硬直と寒さが嘘のように解けた。

 私はきるけえの後を無言で追った。



※※※


 

 体を清めた後に案内された部屋の寝台は、私が慣れ親しんだものとは相当異なっていた。

 ふくらはぎほどまでの高さの足台の上に、やけにかさ高な敷布団と軽い掛布団が設えられていた。

 このような品を手に入れれば大商いが出来そうだ。

 だが今の私はどこで手に入れられるのかを知った所で、二度と商いに出る事も出来ぬのだと直ぐに目の前の現実に打ちのめされた。


 気が付けば私は、妻が子供に聞かせていた子守歌を口ずさんでいた。

 妻は特段目立つ女では無かったが、歌声だけは雲雀ひばりか天女かと言うほどに伸びやかで、妻が歌う子守歌を聞いているだけで私の心は清められた。


 妻の声に似ても似つかぬ野太い男の声ではあったが、子守歌を歌っている間だけは余計な事を考えずに済みそうで、私は一心に子守歌を歌い続けた。




 さすがに子守歌を歌い続けて喉が痛くなってきたので再度部屋を見直した。

 子供のころに見学した天草あまくさのせみなりよに似ているが、それよりも豪奢ごうしゃで、少し趣向しゅこうが違う。


 平べったい瓦が無造作に積み上げられている一角には、羊皮紙ようひしに文字とも落書きともつかぬ書付のたば

 よくよく見ると、くさびのような記号が規則的に並んでいる。




 私は伸びをすると、部屋の奥の円卓へと歩み寄った。

 私の腰のあたりまであろうかという程の高さの円卓には、リンゴと桃を掛け合わせたような果物がかごいっぱいに積まれていた。

 私はリンゴと桃を掛け合わせたような果物に手を伸ばした。

 刹那せつな、私の手に落雷が走った。




「無礼者」

 鋭い叱責しっせきの声に、私は思わずひれ伏した。

 若い、しかしながら威厳に満ちた女性の声であった。




「そなたが六十人目の男か。中々良い」

 声の主に目を向けかけると、閃光せんこうが私の目をくらませた。

「無礼者、神の姿を見る奴がおるか。ひれ伏せい」

 私は訳も分からないまま、平べったい瓦が積み上げられた一角に向かってひれ伏した。


 むわっとした薔薇ばらの芳香が私を取り巻いた。





「我はイシュタル。この世の大権を握る明星の大神なり」

 濃密な薔薇ばらの芳香をまき散らしながら、声の主は高らかに宣告した。

 はていしゅたるとは聞いたこともない。狐憑きつねつきか何かのたぐいであろうか――。

 私は姿を見せぬ尊大な物言いの存在をいぶかしく思った。


 とは言えここが異界いかいであるならば、生前の世とは道理が違っても受け入れる他はあるまいと私は思い直した。

「物わかりの良い男だな」

 いしゅたると名乗る声の主は読心術どくしんじゅつけているようだ。

 声質は強いが、どことなくきるけえを思わせる響きがあった。




「たわけ。あのような小娘と同じにされてたまるか」

 きるけえは恐ろしい女で、人を馬や犬に変えるなどと散々聞かされてはいた。

 だが実際にきるけえをこの目で見た私には、寂しさの余り見知らぬ男にいきなりまたがり愛を乞う愚かで哀れな娘としか思えなかった。


「ふん。男というものはいつの世もあのような媚態びたいにころりと騙される」

 ふと私を取り巻く空気が密度を増した。


「あれを愚かで哀れだと思うなら、あれをめとってやらぬか」

 突然の質問に唖然としつつも、私の脳裏には妻子の顔が浮かんだ。

 私は首を横に振った。


「やはりな、また拒まれたぞ。愚かなキルケ、哀れなキルケ、裏切り者のキルケ」

 薔薇ばらの香りで窒息ちっそくしそうなほど、濃密な芳香ほうこうがさらに密度を増した。


「愛の神イシュタルをあざけり裏切った罰じゃ、罪じゃ。お前は未来永劫えいごう誰にも愛されぬぞ。愛されて良いわけがない」

 『これ』は九尾きゅうびの狐の如き物の|怪『け』であろうと私は身構えた。




「キルケよ。お前は決して誰にも愛されぬ。そのくせ目にする男全てを狂おしいほど欲し、全ての男に拒まれ続けるのだ。哀れよな、辛かろうな。生きたまま胸をさそりに食われ続けるように苦しかろうな」

 いしゅたると自らを名乗る存在は、残虐ざんぎゃくで力に満ちた気で私を圧した。


「キルケよ。我にひれ伏し許しを乞うても無駄だ。神の言葉は絶対ぞ」

 落雷したかのような衝撃が部屋に走った。




「キルケよ。世の終わりまで命を与えられた裏切り者よ。その命続く限り己を愚かで醜いと嘆き悔み一人寂しさにさいなまされ、決して叶わぬ愛を乞い続けよ」

 姿は見えぬもののいしゅたるの哄笑こうしょうが直接脳内に響いてきた。



『わたくしを愛してはいただけませぬか』

 砂浜で聞いたきるけえの声が哀切さを以て私の胸に蘇った。


「同情は毒ぞ。あれは大人しく哀れで従順な女の振りをして、男を食い荒らす妖魔ようまよ」

 楚々として大人しく従順、そして哀れみを感じさせる女は男の欲をそそるのかもしれない。

 だが妻子と再び会えればそれで良い私にとっては関係の無い事であった。




聖呪せいじゅに動かされるままに男に狂い、愛を乞い愛に飢え男に憤怒し取りすがるキルケの姿は滑稽こっけいで良い暇つぶしよ」



「男と体だけは通じるように呪いを掛けておいたのがキモでな。我の与えた力が中途半端に残っておるがゆえに、キルケ自身が望むと望まざるとに関わらず、体を通じ合わせた男は獣となってしまうのだ。神の力を分け与えられながら、神に背いた小娘に似合いの末路よ」

 神を名乗る割には率直に言って随分と下種げすな趣味だ。



「きるけえに罰を与えるにしても、男達に対して余りに酷い仕打ちではありませぬか」

 私は思わず口をはさんだ。

「ほう、神に差し出口をするか。いや、お前は我を邪霊か何かと勘違いしている様子じゃの」

 笑い声と共に、透き通った鈴のような音がかすかに響いた。




「男はいくつになっても女が好きだろう。キルケは呪いのせいで相手が老爺や醜男でもその心身を欲するのだ。これが男にとって救いでなければ何だ」


「私には妻も子もおります。少なくとも私にとっては救いではありません。貴方が真に神だと言うならば、今すぐ私を妻子の元へお戻しください。私を生の世界へ返してください」

 私は畳みかけるように目に見えぬ存在へ食らいついた。




「生の世界へ返せ、だと。何を馬鹿な事を。死後の世界にでも来たつもりか」

「ここは生の世界だとでも」

 帰ってきた言葉に私は意表をつかれた。

 私は妻子と再会できるかもしれぬと、希望に体を震わせながら尋ねた。


「何と愚かな事を問う。死の世界だと決めつけたのはそなたであろう。ここはそなたが死の世界と思えばそうなり、生の続きだと思えばそうなる世界に過ぎぬ」

 いしゅたるは私に雷撃を落とした。

 そして私は気を失った。



※※※



 目が覚めると、部屋に差し込むのはせこけた月明かり一つであった。

「旦那さま、夕餉ゆうげの支度が出来ました」

 このいかにもたおやかな物言いも、ただの擬態ぎたいなのか。

 私は手早く着衣を直すと、足早に声の聞こえる方へと急ぐ。



『キルケには我が話したことをゆめ伝えるでない。伝えればお前を妻子のもとへ帰してやれぬ』

 頭を中から鈍器で殴られたような衝撃と共に、いしゅたるの声が響いた。

『貴方の話を伝えなければ、必ず私を妻子の元へ戻すと約束して下さいませ』

 いしゅたるは何の答えもよこさなかった。




 食卓に 背の高い椅子が八脚並ぶ。

 この大きな食卓で一人食事を摂っているのかと思うと、きるけえに対して更に憐れみの情がく。

「わたくしは独り身ですが、慰めてくれる仲間はおりましてよ」

 そう言うときるけえはぽんと手を一度鳴らした。


 その音に応じるように、オオヤマネコと金色に光り輝く大型犬が、のそのそとやってきた。

 彼らも元はここらの若者だったのだろうと思うと、急に全身の血液が極寒の海にさらされたように冷たく感じた。

 そして食卓から湯気をたてている肉も牛や豚にされたという――。

 思わず身震いした私をちらりと見て、きるけえは悲しげに目を伏せた。


「そのような噂が町では流れているのですね」

「いや、いや。ただその、あなたはすっかり人の心が読めてしまうのですね」

「出来るだけ聞かぬようにはしているのですが、気を抜くと聞こえてしまうのです。本当にまわしい力です。捨ててしまいたいのですが捨て方も分らぬのです」

 きるけえは叱られた幼子のようにうつむいた。


 悲しげに目を伏せるきるけえの腿に、大型犬が金色の前足を乗せた。

 きるけえをなだめるようなしぐさと垂れ下がった耳の動き、そして何より大粒の涙をこぼさんがばかりに濡れた黒く大きな瞳は若く美しい男のそれであった。


 私もこの料理を食べたからには彼らのような獣にされてしまうのか。

 再び戦慄せんりつが走ったが逃げる宛もない。

 頼みの綱になりそうなのはいしゅたるだけだが、簡単に助けてくれるような存在ではなさそうだ。


「イシュタルですって」

 しまった。絶対に言うなと厳命されていたのに。

 いや、口には出していないから約束をたがえたわけではないはずだ――。

 私の心の臓がいつもの三倍ぐらいの速さで飛び跳ねた。


「旦那さまはイシュタルに会ったのですね。イシュタルは何と」

 きるけえの口調は切迫していた。

 だが、明星みょうじょうの大神を自称するいしゅたるとの誓約を破れば、故郷に戻ることは叶わぬだろう。


 私は大きく息を吸って都の賢者仕込みの呼吸を繰り返し、頭に何も浮かべぬようにした。

「イシュタルに口止めされたのですね」

 きるけえは力なさげに黒真珠の瞳を伏せた。


 頬に影を落とすほどの長いまつげが微かに震えるのを視界の端に入れながら、きるけえの力になってやれない自分をもどかしく思った。

 私はきるけえに妙な哀れみと一種の情を覚え始めていた。





 きるけえは緑色の液体が張られた器を運んできた。

「食後酒をどうぞ」

 受け取ろうとした私の手の甲の皮膚を鋭く破る激痛と、緑色の飛沫ひまつと共に器が砕け散る音が同時に私を貫く。

 オオヤマネコが床の下から黄金色の目を見開いて、私をきっと見据えていた。


「すぐに手当をいたします」

 きるけえが私の裂傷れっしょうを舌でなぞると、初めから何も起こらなかったかのように即時に痛みも傷も無くなった。

「これで痛みもぶり返さぬでしょう。これ、旦那さま何という失礼を。謝りなさい」

 オオヤマネコはきるけえの叱責にしっぽをたしたしと床に叩きつけて応じた。

 オオヤマネコの言葉は分らぬが、きるけえに叱られた事がいたく不服そうであった。


 きるけえにも二頭の獣にもたずねたい事が山とあった。

 だが、心の中を読めるきるけえ相手に質問をするのは難しそうだ。

 結果として私は自分から口を開けずにいた。




「よろしければ湯浴みをなさいませんか。わたくしが背を流しましょう」

 おずおずとした素振りで、はっきりと欲情の色を浮かべたきるけえが声を掛けてきた。

「いや、お気遣いなく」

 島に流れ着いた男に一目で心を奪われる呪いをかけられた哀れなきるけえは、熱をはらんだ目で私をそっと見上げた。



「宜しければ明日、船大工らに会わせてはいただけませんか。私が乗る船ですから彼らと打ち合わせがしたいのです」

 強引な話題転換に、きるけえは一瞬逡巡しゅんじゅんした素振りを見せた。

「かしこまりました。そのように手配を致しましょう」

 素振りの割に声色は揺らぐこともなく、きるけえは静かにうなずく。


 ややあってきるけえが手を二度叩くと、蛙の顔をした男が広間に現れ、湯屋へと先導した。

「おやすみなさいませ旦那さま」

 きるけえの声が、枯野を渡るさやかな風の如く響いた。





「貴殿は人語を解するのでしょうか」

 私の問いに、蛙の顔をした男はげろげろとうなるばかりだった。


 そもそも蛙の発声では人語はつむげない。

 ならば筆談をしようと思ったが、読み書き算盤そろばんが出来る者は太閤殿下たいこうでんかによって平らかとなった日ノ本ひのもと広しといえどもまだまだ少ない。


 増して元はここいらの漁師であったであろう者相手に筆談は難しかろうと、私はため息をついた。

 それきり無言になった私に、蛙の顔をした男は湯上がりの着替えを差し出した。

 ヒノキの香りが湯気に混じって私の全身を覆った。



※※※



「大儀であった。疲れただろう」

 にやにやと半笑いをしているような声が、薔薇ばらの香りに運ばれてきた。

「約束通り、あなたの事は口には出しませんでしたぞ」

「きるけえに我がここに来た事を感づかせたのだから、口に出そうと出すまいと同じではないか。まあ良いわ。遊び相手が増えたと思うて、主をしばらくからかおうぞ」

 いしゅたるが笑うと鈴のような音が響いた。


「主がはげめば、妻子の元に帰れる道も開けようぞ。主が開いた道ならば、我は敢えて引き留めはせぬ」

 私をからかうと宣告した上で告げられた言葉を信じるほどおめでたい性質ではなかった。


「ふむ、さすがは大商人おおあきんどだけの事はあるわ。我に怯えもせず我の言葉を鵜吞うのみにもせぬ。面白い男じゃわ。それにしてもあのヤマネコも粋な事をする」

 湯舟の辺りに、くちなしの香りが薔薇ばらの香りに混じって漂ってきた。


「あの緑の酒は一種の媚薬びやくでな。愚かなキルケはその力を借りて男と肌を合わせようとするのじゃ。我の呪いは体の欲望を対象にはしておらぬから、媚薬びやくの効果も相まってキルケは簡単に男の体のみは手に入れる」

 いしゅたるの声色からは、してやったりと意地の悪そうな笑い顔が目に浮かぶようだった。


「あの酒やら手製の薬を使わずに男を手に入れる術をキルケは持たぬのよ。あれは散々男に愛を拒まれ続け体だけはホイホイと供して来たものだから、自分自身の魅力一つで男の寝室に忍ぶ事も出来なくなってしもうてな。だから今夜は安心して枕を高くして休むが良い」

 私と共寝する手段をオオヤマネコに絶たれたきるけえは一人寝の夜を過ごす事にしたようだ。

 

 いつの間にやら薔薇ばらの香りが消えた湯屋から上がると、石造りの壁に囲まれた長い廊下を歩いて寝室へと向かった。

 階段を上がると、きるけえが部屋の前で待っていた。


「どうされましたか」

 いしゅたるの読みは外れたようだ。

 私はきるけえが何を求めているか重々承知の上で空とぼけた。


「一人は、寂しいのです」

 きるけえは駆け引きめいた事を一切知らぬのだろう。

 知っているのは男の体だけ。


 その男の体すら薬やまじないの力を使わねばどうしてよいやらわからず、ただ赤子が母の乳房を探るように男に取りすがるしか出来ない。

 きるけえはいしゅたるの呪い通り、体を抜きに男と通い合った経験すらないのであろうと思った。


「妻子とは、家族とはそんなに大切なものなのですか」

 そんな事すら分からない境遇に置かれ続けたのかと、きるけえの事を痛ましく思った。

「私には、家族とは何かが分からないのです。ずいぶん遠い昔にそれらしき人はいたのかもしれませんが、私の覚えているかぎり家族はおりませんでしたから」

 部屋の扉にもたれてきるけえが目を伏せた。


「失礼ながら、あなたはどのぐらいの年数を過ごしてこられたのですか」

「それすら分かりません。私は父も母も知らずに過ごしてきました。いや、父や母から生まれてきたかも定かではありません。旦那さまもすでにご存じの通り、私は他の方とは違う時の流れにいます」


 きるけえの見た目は若い娘そのものだが、その瞳にどれだけの歴史を映してきたのだろうか。

 それとも、太古の昔からひっそりと隠れるように小島に引きこもって存外何も知らぬのだろうか。


「あなたは死すべき者なのですか、それとも死を超越した者なのですか」

「それすら分らぬのです。私が覚えているのはこの島に来る前に故郷の島で長く暮らしていた事ぐらいで、その時も今と大して変わらぬ暮らしをしていたのです」

「これからもこの暮らしを続けるつもりですか」

 私はいしゅたるときるけえが和解すれば、きるけえの苦しみも消えるのではないかと思った。


「イシュタルに呪いをかけられたらしいことはうっすら覚えています。ですが私が何をしてイシュタルを怒らせたのかも思い出せないのです。旦那さまはイシュタルと話したのでしょう」

 私は首を横に振った。

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