第2話 お買い物編【再掲】

「あ」


 ぬいぐるみのベティを7つ折りに畳んだところで、春子ははたと気づいて手を止めた。


 ……緑のたぬきが切れている。ストックが無い。


 思わず天を仰ぐ春子。その隙を縫って、ベティがすかさず洗濯物の山へと逃げ込んだ。

 どうやら半端な乾き方がお気に召さなかったらしいが、春子並のサイズのぬいぐるみに生乾きのまま潜り込まれると、他の洗濯物に湿気がコピーされてしまうので困る。

 まあ、影響は総量の10分の1にも満たないだろうが。

 10回中9回は逃げ回るやや完璧主義気味のベティは放置して、春子は腕組みして呻き始める。

 夫の出張は2泊3日、そう長くはない。ただ、それはあくまで“こちら”の時間であって、“あちら”の時間ではない。

 今回の出張先は一日が天候次第で16時間から最大約83時間の地域で、月間天気予報から推計される“あちら”での体感滞在時間は……


 確か、大体3週間だ。夫によると。


 体感だと結構な期間である。水分はラクダの瘤及びサボテンのレンタル移植で約1ヶ月分確保出来ているし、断食ヨガのオンライン検定準2級を取得しているから、夫の飲食については心配は不要だ。

 いや、不要ではあるが、帰宅の瞬間は間違いなく相当な飢餓状態だろう。

 春子の夫は、飢えが一定ラインを超えると奇っ怪なチャンネルが開くので、極力回避する必要がある。上下上下左右左右前後斜め隣の家庭の安寧のために。

 アレで幸せなのは本人だけなのだから。


 うんうんと頷く春子、その膝元がいやに冷えてきた。見ると目の前の洗濯物の山の裾からひたひたと水面が広がりつつある。

 ベティの湿気がねずみ算的にコピーされ、湿気と形容できる範囲を逸脱し始めた。ねっとりと広がる元湿気は、着実に周囲に絡みつきつつある。

 これはこれで嫌いではない春子だったが、今はちょっと考える邪魔をしてほしくはない。


「晩ご飯はオムそばね」


 春子に言われた飼いウサギのメネスの両目が赤く光った。

 じゅっ! と湿気が湿気に戻った上でさらに吹き飛ばされる。続けて、洗濯物の山の奥からベティが吐き出された。

 カラッカラに乾いたショックで失神している。メネスの赤目の分子振動促進効果には、業務用電子レンジも足元にも及ばない。何故か表面だけには効果がないが、その程度なら後はメネスの鼻息で十分だ。

 結果は予想通り、湿気の影響は総量の10分の1にも満たなかった。

 予定調和な現象は置いておいて、目下の課題は、緑のたぬきの在庫切れである。


 買いにいかなければなるまい。


 候補は、坂を少し下ったところのご近所スーパーか、隣の○丁目の商店街。無論、緑のたぬきはスーパーで売っている。

 ただ、問題は、スーパーへの道筋には横断歩道が、何と3つもあるのだ。

 いかに近いとはいえ、3つはさすがにリスキーだ。往復で6回も渡ることになってしまう。ここはやはり、夫との約束通りに安全第一、多少遠くとも商店街を選択すべきだろう。

 それでも横断歩道は1つはあるのだが。


 意を決して春子は立ち上がり、桐箪笥から保冷バッグを取り出す。その中に、携帯型超電導投射式蠅たたき『叩くんですmk-Ⅲ改(※中古型落ち・バッテリー欠品)』、逆位相転写式安全呼び鈴『どこでも柏手(※呪力充填池保証期限切れ)』、それから注連縄を詰め込んだ。

 注連縄の確かな存在感が頼もしい。

 そして、メネスを横に、洗濯物の山を正面に、居住まいを正す。

 両手を、指を組んで、大きく息を吸って、止めた。

 独股印大金剛輪印外獅子印内獅子印外縛印内縛印智拳印日輪印隠形印と一気に九字を切り叫ぶ。


「ツクツクボーシ!」


「「ツクツクボーシ!」」


「「「ツクツクボーシ!」」」


 ターンッとメネスのスタンピングが響いた。

 かけ声が山彦と寸分違わず重なって、3回目には春子の声がきれいに三重となった。実に縁起がいい。洗濯物の山は実に上手に山彦を返してくれる。

 これで、政府支給のわら人形を消費しなくても済みそうだ。春子は既に1体、浄水センターの階段で自称河童に蹴つまづいて落ちたときに使ってしまっている。死んでも巻き戻せるのは残り2回きりなのだ。

 ちなみに春子の夫も1体消費して残り2体。昔に横断歩道で“落ちた”ときに、本人曰く「身体が破裂した」とのこと。やはり横断歩道は恐ろしい。


 縁起の有効時間は180分か360分だが、2倍モードは細かなところが粗くぼやけてしまう。ケチらずに標準モードにセットして、夫が売りに行った商品『全天候型電波腕時計』を着けて時間を確認。

 Ca●io製の逸品はコンマ11秒の誤差も許さない高精度を誇る。ただし、電波を手動で合わせなければならないのが玉にキズだ。


 "あちら"ではこちら以上に電波が飛び交っているらしく、しかも過半数が無意識からの個人電波だそうだが、果たして売れるのだろうか?


 セラミックス層を内包しているアラミド繊維混合のジャージに着替え、保冷バッグを肩にかけて出発する春子。一路42.195km先の商店街へと歩き出した。

 靴底に神足通(劣)が封入されているブーツのお陰で疲れはほぼ感じない。速度も多分速いのだろう。周りが歪んで見えるので春子には良く分からないのだ。

 15分程で大体中間地点に到達。


 件の横断歩道だ。


 ぱっと見は普通のただの横断歩道と大差はない。というか、距離を空けていると全く見分けはつかない。

 しかし、そうではないことは5歩手前で通り過ぎたマンホールに『封』と甲骨文字で書かれていたことからも明白だ。

 春子が恐る恐る近づいてのぞき込むと、初めて、そこに“穴”が広がっていることが漸く見て取れる。

 霊道だか龍脈だか知らないが、“何か”が通るルート上に何故かぽっかりと空いてしまった穴。一般的にはそう認識されており、そしてそれ以上は現代科学をもってしても全く不明という、現代のリアル七不思議である。

 とにかく、“落ちた”場合にどうなるかがまるで分からないのだ。春子が“落ちた”ときのように3時間ほど未来へ飛ばされるだけで済むこともあれば、春子の夫のように破裂することもある。白亜紀の化石として発見された人もあったそうだ。その際には半分人では無かったらしいが。

 白線は超絶小さな模様と文字がこう、みっちりと詰められているもので、電子顕微鏡でもないと判読できない。

 この白ペイントの保証期間が8,592時間、一年に少々届かないという微妙な範囲で、実はその誤差が事故原因の8割を占めていたりするのだが、何しろお役所仕事は年度区切り固定のためどうしようもない。

 故に、小学校の道徳の時間にがっちりと仕込まれた交通標語を唱えながら、皆この白線の部分だけを踏んで渡るのだ。

 両手を合わせて、小さく呟く春子。


「闇夜に霜の降るように」


 ふ、ふ、ふ、ふ、ふ、ふ、ふ、ふ、ふ、ふぁ。

 つま先で、体重をかけず音も立てず、触れずに水面を滑るかのごとく渡る。“天人舞踏”は小学校低学年の必須科目で、泣きながらブートキャンプで修練させられた苦い思い出の技だが、おかげで今でも身体が勝手に動いてくれる。

 停まらずに渡りきって、春子は大きく息を吐いた。

 極度の精神集中から息が荒くなる。

 前屈みになったその春子の前方、向こうから指パッチンが二回鳴り響いた。

 見上げると郵便局の若い配達員が駆けてくるところだった。彼は春子とすれ違うときにはサムズアップも追加してくれた。

 思わぬ賞賛に驚く春子。指パッチンは一般的な交通マナーだが、親指も加わるなら単なる社交辞令ではない。とっさのことで、返礼の指パッチン一回をし逃してしまう。

 と、ニコッと爽やかな笑顔を残して、速度を緩めず横断歩道へと足を乗せる郵便局員。


 ふふふふふふふふふふわぁおっ。


 最後には長身が高く宙を舞う。

 目を見張る春子。

 春子の現代版ではない、古式ゆかしい「寒夜に霜の降る如く」の“天人舞踏”だ。優美さとキレの良さを両立し、もはや無重力と見紛うステップに力強い一挙一動を感じさせる美技。

 故に、もはや理不尽なレベルといえる難易度を誇る技で、そうそうお目にかかれるものではないのだ。さすがは配達員、合格率1%を突破した実力は伊達ではい。

 しかも、本来配達員には神足通(極優)付与の郵便ブーツが支給されており、どんな悪路でも、たとえ横断歩道であっても完全に無効化できるはず。

 直前の春子の舞踏に敬意を表してくれたのだ。

 その粋な心に感銘を受けて、春子は指パッチン二回に続けて頭上で大きく二回柏手を打つ。

 最大級の賛辞に指パッチン一回をスマートに返して、配達員は優雅に去って行った。


 予想外の喜びに上機嫌となった春子は、残りの山河も難なく踏破し、無事に商店街へと到着。

 木製小物雑貨店に入ってすぐ右手のからくり扉から隣の本屋へ移り、そのバックヤードから裏通りの精肉店へ入って、その冷蔵倉庫の地下室の零八制式拡張型短中距離転移装置を起動して表通り斜め向かいの駄菓子屋兼クリーニング店に転移し、その屋根裏の釈迦如来の掌の上に連なっている千本鳥居を潜って百貨店の屋上の鳥居へたどり着いた。

 そして百貨店の地下で、万感の想いとともに、ついに、緑のたぬきを買い物カゴへ。

 レジでは、白寿と見受けられる店員さんが、カゴを置いた次の刹那にはもう、包み紙で丁重に包まれた緑のたぬきが春子のバックに仕舞われているという妙技を披露してくれた。

 その緑のたぬきに併せてチラシが一枚。

 商品の宅配サービスのご案内だ。買い物をするたびに入れられていて、どんな商品でも玄関まで届けてくれる。最近人気らしく、百貨店も目下アピール中である。

 が、春子は一瞥しただけですぐにゴミ箱へ。

 だって流儀に合わないから。


 獲物は自分のこの手で狩って(買って)ナンボのものなのだ。

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