第2話 Aパート
伊藤家は明日香を失って以降、三人家族である。単身赴任の父、専業主婦の母、そして、美波だ。元々、家族自体が賑やかな方ではなかったが、明日香と父親がいない今。一層我が家は閑散としていた。母親が耳のお供にと点けているテレビが、聞き漏らすことなく耳に届いている。
そんな空間を切り裂くにはほど遠い声音で、美波は言うのだった。
「ねえ、お母さん」
「んー?」母親は、せっせと夕飯の支度をする手を止めない。丁度、ジャガイモを鍋に入れる最中だった。
「――夕飯ならカレーよ」
それに関しては、大体予想がついていた美波。肉じゃがとの二択であったが、やたらと序盤でタマネギを炒めていたので、肉じゃがの線を消したのだった。
「いやいや、そうじゃなくて」
「じゃあ、何?」至って穏やかに言う母親。しかし、相当忙しいのか一切手を止める気配が無い。
一方の美波であるが、やはり本題を言い出せずにいた。
今でも美波の脳裏には、風間の言葉が残っている。だから、何か手がかりはないかと考えたときに、明日香の部屋を思いついたのだが、一つ問題があった。明日香の部屋は完璧に母親が管理しており、塵一つない空間であろう。それは母親が明日香にどの程度入れ込んでいたかを表しており、それ故に入るのは憚れる気がした。
ついに言い淀む美波に痺れを切らした母親。すっとんきょんな質問を美波に投げかけた。
「言いにくそうにしているけど、やましいことなの?」
「全然違うよ」食い気味に否定する美波。
「じゃあ、言ってみなさいよ」その試すような態度に駆られ、美波は本題に入った。
「お姉ちゃんの部屋に入りたいんだけど、いい?」
びくりと反応する母親は、そこで初めて手を止めた。やはり不味かったと息を飲む美波であったが、振り向きざまの母親の表情を見て、それが取り越し苦労だと分かる。
「どういう風の吹き回し?」口角の上げる母親は、さらに続けた。
「あなた、明日香が居なくなってからまったくそのことに触れようとしなかったじゃない」
フッと、母親は息を漏らした。
「いいわよ。って言うか、許可なんて必要ないのに」
「でも、お母さん、毎日お姉ちゃんの部屋掃除してたじゃん」
「そりゃそうよ。だって、あの子も嫌でしょ。自分の部屋が埃まみれなの」
「だね。……じゃあ、ちょっと行ってこよ」どっこいしょと言わんばかりに美波は腰を上げる。
「別にいいけど。もうじき夕飯ができるから、そうしたら降りてきなさいね」
「了―解」美波は母親に向けてサムズアップ。
体を翻して、ダイニングキッチンを後にした美波。廊下にまで具材を炒めた匂いが充満している。尚更、中枢神経が満足感を欲していた。
それに抗いつつ、2階に位置する明日香の部屋へと向かう。階上を見上げる美波。この階段も物心がついてから幾度となく踏みしめてきたが、今日に限っては心持ちが違った。
ミシミシと鳴る階段。その回数が、部屋までの道程を数えている。
――ミシ、ミシ、ミシ。
登り切り、左折する美波。そこが目的地だった。
あすかと掲げられたドアを、鼓動を抑えつつガチャリと開ける。これまでに、これほど緊張したことがあっただろうか、このドアを開けるのに。いや無かったはずだ。
音を立てて、開くドア。その刹那、ふわりと芳香剤の香りが鼻を通る。それは、いつかの匂いと同じだった。
「お姉ちゃん、英語の辞書貸して」
ノックをすることもなく、美波は明日香の部屋へと踏み入れた。案の定、檄が飛ぶ。
「いつも言ってるじゃない。ノックしなさいって」
「はいはい。分かったから、貸してよ」聞き流す美波。それが癪に障った明日香は、さらに叱責する。
「あなた、自分のはどうしたのよ。持ってるんでしょ」
「まあまあ、いいじゃん」
「良くないわよ。どうせ、学校に忘れてきたんでしょ」
図星だった美波は言い返えすことができない。それに気付いた明日香は、大きく息を吐いた。
「そういうところよ、美波。お姉ちゃん、心配だわ。これから、あなたが……」
グチグチと言う明日香に耐えかねた美波は叫んだ。
「分かった。もういい」
勢いそのままに、美波は部屋を飛び出した。
おおよそ2年ぶりの香りに、美波は自分の姿を見た。よく言えば純真無垢、悪く言えば傍若無人。気に入らなければ直ぐに癇癪を起し、その都度、明日香が嗜めた。
そんな明日香ももういない。制止する人間がいなくなったのなら、もっと状態は悪化すると思われた。しかし、張り合う相手を失った美波の幼さは息を潜め、残されたのは感情の起伏が少ない少女だけである。
――パチン。
廊下から差す光だけでは心許なく、スイッチを探すのにしばらく時間を要した。露わになった明日香の部屋。思った通り、綺麗に整頓されている。それを物色するのは大変心苦しいが、背に腹はかえられなかった。
当たりを付けて、そこを重点的に探す方針で明日香の机に着手する。
一般的な学習机。ブックエンドには、当時の教材が並べられていた。そこから一冊のノートを手に取る。罫線がないにもかかわらず、整然と並ぶ文字。そこから明日香がどれほど几帳面であるかが窺えた。
次いで、引き出しに手をかける。一番大きな引き出しには、ポストイット、修正テープなど筆記用具が収めてあり、その隣の引き出しは暗証番号が必要で開けることができなかった。
美波は顎に手を添え、思案する。
「なんだろう……」
明日香から連想される4桁の数字を思い返すも、ダイヤルキーに設定するような数字は思いつかない。一縷の望みをかけて、美波はダイヤルを回した。
「0、……7、……0、……7、っと」つまみをONからOFFにする。
カチッという音で、その数字が正解だと分かった。
「分かりやす過ぎ、お姉ちゃん。自分の誕生日って」
明日香の意外な一面に加え、これからさらに深淵に触れようとしている。かつて無い好奇心に、美波の気も急いた。
徐々に露わになっていく内部。開き切ったところで、美波は一言。
「これって……」
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