世界の中心で愛が死んだ日

夏羽 希

世界の中心で愛が死んだ日

 忘れられない思い出は、彼女がいない今も尚、図書室の特等席で息をする。


 私が図書室に通うようになったのは、現代文の授業課題のために本を借りに来た時からだ。学校に通って一年も経つくせに初めて入った図書室は、静かでどこか寂しげだった。私はあまり本を読まない。色とりどりの背表紙の中から課題のための本を見つけ、さっさと借りようとカウンターへ向かおうとした私は、棚と棚の奥、入り口からも他の席からも見えづらいスペースに見知った影を見つけた。

「あれ、珍しいね。珍しいっていうか、初めて見たかも。図書室にいるの」

 近づく私に気づいた彼女は、先に声をかけてきた。

「現文の課題やんなきゃいけなくて。もう課題終わった?」

 彼女とは去年も同じクラスだった。部活が違うからそこまで話したことはなかったけど、目が合ったら挨拶はする仲だった。

「終わった終わった。現文は得意だから。今日はただ本読みに来ただけ」

「私あんま読まないんだよね。漫画とかは読むんだけど。途中で疲れて読むのやめちゃうな」

 彼女は小さく笑うと、読みかけだった本を閉じて私に差し出した。

「これは読みやすいかも。ひとつひとつの話が短いからすぐ読み終わるよ」

 せっかくの好意だから、断ることも出来ずに私はありがと、とそれを受け取った。綺麗な表紙の本だった。

「ねえ、本読むの好きなの?」

「好きだよ。休みの日はずっと読んでる」

「なんでそんなに本を読むのが好きなの?」

 声に出してから、馬鹿なことを聞いてしまった、と思った。理由なんて無くても、好きなものは好きだろう。

「人生が一回しかないからだよ」

 心の中で焦っていた私に、彼女は何でもないように、当たり前のように答えた。小さな窓から差し込む夕陽に照らされた彼女の顔は、長い髪と本に隠れて私からは見えない。放課後の図書室はとても静かで、世界に私たち二人だけしかいないみたいだ。

「それってどういうこと?」

「どうって……そのまんまの意味かな。私は私の人生しか生きられないでしょ。宇宙を旅したり、世界的なピアニストになったりなんてできないでしょ。だから本を読むんだよ。本の中でなら、別の世界を生きれるでしょ。」

 彼女は笑っていつかわかるよ、と言った。


 そんなある日の出来事をきっかけに私は、放課後は図書室に通うようになった。もともと所属していた美術部はあまり活動が盛んな方ではなかったため、特にこれといって支障は無かった。最初に彼女が貸してくれた短編集はとても面白く、私でも無理なく読める量だった。私は生まれて初めて、本を読むことが楽しいと感じた。その後も彼女が薦めてくれる本はどれも面白くて、だんだん私も読める量が多くなり、速度も上がっていった。自分から気になる本を手に取るようにもなった。

 私たちはいつも、図書室のあの奥まったスペースで本を読んだ。教室ではあまり話さない。小声で感想を言い合ったり、互いのお薦めを紹介したり。放課後にだけ、厚い本越しに交わされるそれがとても心地良くて、大好きだった。

 彼女と、そして本と出会い、私の今まで生きてきた世界がガラッと変わったかのようだった。いや、世界の中心が彼女と本になった、の方が正しいのかもしれない。私は彼女と共に引き裂かれる恋を覗き、富士を見た。指輪をめぐる冒険を見守り、燃え盛る金閣に息を漏らした。私は、あの日彼女が言ったことの意味を理解した。本の中でなら、別の世界を生きられる。私以外の他の誰かになれる。彼女が私を変えてくれた。

「私、将来は図書館司書になりたいな」

 学年が上がり、将来のことを考えなくてはならない時期になってきた時のことだった。彼女が呟いた夢は、他の何よりも彼女にぴったりだと思った。

「いいじゃん。図書館で本読んでる姿、イメージできるよ」

「なろうよ、図書館司書。大学は違うとこかもしれないけどさ、将来またどこかの図書館で、今みたいに本読もうよ」

 彼女からの提案は、何よりも輝いて聞こえた。受験という避けては通れない道に、私は密かにこのひと時の終わりを恐れていた。しかし。しかしだ。私が感じていたように、彼女もまた私との時間を楽しく思ってくれていた。とても嬉しいはずなのに、何故だかじんわりと泣きたくなって、それを誤魔化すように私はちゃんと働かなきゃだめだよ、と笑った。

 今思えば、私は彼女に恋をしていたのだろう。当時は気がつかなかった。ただ彼女との時間が大切で、私は恋を知らなくて、その気持ちに名前はまだ付いていなかった。


 私たちは、それぞれ違う大学ながらも無事に文学部に進んだ。彼女は日本文学科、私は英米文学科だ。合格を報告し合った日、学科を聞いて私たちらしいなと思った。

 離れていても私たちは本の話をやめることはなかった。あのシリーズの新刊もう読んだ、とか、あの小説が今度映画化するらしいよ、だとか。しかし互いの生活が忙しくなるにつれ、最初は週に二、三度だった連絡が週に一度になり、三週間に一度になり、月に一度になり。しまいにはそれすらも途切れてしまった。もともと私たちはSNSを頻繁に更新する方ではなかったため、今相手が何をしているのかを知る術は無かった。思い返せば私たちはいつだってほんの話をしていて、最近元気にしてる?など改まって連絡するのはなんだか気が引けてしまった。

もちろん大学でも気が合う友達を見つけ楽しく過ごしていたが、それでも私は、あの日の彼女との夢を叶えることを第一に、ただひたすらに頑張った。相変わらず私の世界は本を中心に回っていた。彼女と図書室で出会う前の私が見たら、とても驚くことだろう。本を読むと、あの図書室で過ごした日々が頭に浮かんだ。彼女が好きそうな本を見つけたら、忘れないようにメモに書いた。いつかまた、あの日々のように薦めるために。


 彼女のいない4年間は長いようで、それでもあっという間で、私は夢を叶えて司書になった。彼女に連絡を取りたかったのだが、連絡先が変わったらしく私も他の友人たちも、誰もその新しい連絡先を知らなかった。SNSもずっと更新されていない。もう使っていないのだろう。最後に投稿されていた写真の日付は二年前だった。残念に思いながらも、しかし私はいつかまた彼女に会えることを信じていた。

 私が通っていた高校でちょうど司書を募集しており、当時世話になった先生方からの後押しもあって私が採用されることになった。最初のうちは慣れない仕事に苦戦したが、大好きな空間で働くことができて嬉しかったし、やり甲斐もあった。よく来る生徒たちとは打ち解けて、学校の様子を聞いたり、好きな本の話などをした。基本的にはずっとカウンターにいたが、誰も来ない時は少しだけ、あの思い出の空間で本を読んだ。


 それは突然やってきた。あの日と同じ図書室で、あの日と同じ夕方に。

「久しぶり、卒業式以来じゃない?」

 彼女だった。入館証を首から下げ、顎までのショートヘアを耳にかけて。

「久しぶり……」

 驚きすぎてそれしか言えない私に、彼女は早口で続けた。

「覚えてる?二年生の時に同じクラスだった子から連絡もらってさ、ここに居るって聞いて。全然変わってないからすぐわかったよ。髪型とか。それにしても、本当に図書館司書になったんだね。夢を……叶えたんだね。あのね、私ね。途中で諦めちゃったの」

 私の知る彼女は、こんな風に、泣きそうな顔で笑ったりしなかった。

「今は普通にね、就職してる。最近はもう本も読んでないんだ。連絡途切れちゃったのもごめんね、本読まなくなってから、なんて連絡していいかわかんなくなっちゃったんだ」

 私の知らない笑顔で、私の知らない彼女が言った。

「ごめんね、また一緒に図書室で本読もうよって言ったのに」

「……やだなーー、謝らないでよ。元気そうで良かったよ。わざわざ会いに来てくれたの?」

 どうやら表情が感情に追いつかないみたいで、私はなんとか取り繕うことができた。

「うん、それと、どうしても伝えたくて」

 私が怒ってないことにほっとしたのか、彼女はさっきよりゆっくりとした口調で、

「私、今度結婚するの。今日は、その招待状渡したくて来たの」

 彼女のそんな笑顔は見たことがなかった。どんなに面白い本を読んでも、幸せな本を読んでも。そんなに温かな何かが溢れ出すような笑顔を、私は見たことがなかった。あの日読んだ夏目漱石や森鴎外ならば、この気持ちを何と表現するのだろう。彼女はきっと、愛を知ったのだ。あの日と何も変わらない世界で、あの日から何もかも変わった彼女がそこにいる。目まぐるしく移りゆく季節の中で、私だけがずっと取り残されていたことを知った。


 彼女は私に招待状を渡し、私は彼女にメモを渡せないまま彼女は帰った。夢にまで見た再開は、あの日々のように厚い本越しで交わされることはなかった。

 放課後の図書室はとても静かで、世界に私一人だけしかいないみたいだ。私は棚と棚の奥、入り口からも他の席からも見えづらいスペースへ行って本を手に取った。自分じゃない、他の誰かになるために。

 

 これは彼女に薦めたかった本だった。

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