俺の脂
「ほれ、そのなまくらでどうにでもしてみろ」
言葉尻に、良順の刀が深々と腹に刺さった。会津のそれは太ももに突き刺さり、抜かずに真横から刀を振り抜いた。
「こ、ここ一番で、体を張るのが俺の仕事よ」
死ねでは少しチープで、殺すでは感情的すぎる。物言わず衝動のみで良順は動き、会津もそうした。そのあとのことは一切考えず、まずはこのうるさい三流弁士を黙らせる、それのみであった。
「ああ、痛ってえなあ」
驚くことに、蛇口は骨まで達する深い傷を、たったそれだけですませてしまった。その上で腹に刺さった刀を掴み、にんがりと笑んだ。
「赤毛」
その一言で、会津は己に迫る危機を察知したが、火素はそれより早く振り抜いたばかりの血糊の浮く刀を蹴って弾いた。
素手でも会津は闘うことができる。一年生の中でも上位に食い込める闘争の鬼なのだが、火素はその上をいった。刀を落としたばかり、さらには不気味な蛇口に遭遇したばかりの心理状況であり、対して火素はずっとこの時を、疼いて疼いて仕方のない拳の痒みを晴らしたいだけである。どちらの攻撃が、威力と速度において優勢かは明確だった。
会津の腹に深々とめり込む拳骨、破砕の音が体内で反響し、力なく倒れた。
「会津!」
「そこまで。そっ首を落とされたくなければ」
黒辻はひたと良順の首筋に刀を当てた。少し引けばしぶきが上がる、そういう位置にある。
良順の刀は奇抜な方法で動けなくなっている。伝わる蛇口の血液が腕ごと濡らし、会津とは違い手を離さないのは、まだやれるという己への鼓舞によるものだ。
「うるさい! 諦めるものか、この」
鼓舞したがゆえに、それが彼女に負けを認めさせない。そして、先に続く言葉を言えないのも、おそらくはそのせいだ。
(この理不尽めが)
腹に刺さったままの刀を握るとはどういう思考からはじき出されるものなのか。しかも太ももは半分ほど切れ目が入っている。そのままで踏ん張りがきくのはどういう理屈なのか。
これを強いとは認めたくはない。弱ければこんなことはできないのだが、それでも認めたくはない。
様々な常識を集めても到底こんな馬鹿をすることは容認できず、また強弱では測れない狂わんばかりの精神がある。何にすがればこうなるのか。良順は怒りに任せて刀を引くも、それは依然として動かない。
理不尽を許したくない、しかし、そう断言せねばならないことが許せない。
(この、この、この!)
ガチガチと歯が鳴った。その狂わんばかりの心を言葉に変えた。
「お前らに負けたのではない。私は、私の友人のために勝負を降りる。この狂信者め、貴様の心、いつか必ずへし折ってやる」
勝たねば死ぬると願掛けしても、こうはいかない。その拠り所を信じきって、己を殺すことすら厭わない信心深さを感じたため狂信者と言ったが、蛇口は神は認めるが祈らず恨まずの女である、だが異常性ははっきりと認めなければならない。良順も会津も、黒辻や火素でさえ、血まみれのまま笑みを貼り付けた彼女にぞっとしている。
「俺に勝ちたいなら、八十年は修行しろ。もしくは、俺の昼夜を通して戦えるコツやらタネやらでもくれてやろうか? そうすれば、まあ二十年には短縮できるかもしれんぞ」
腹の異物から、力が抜けた。良順は手の内を緩めている。
「抜くから、手を離せ」
「待て、おい審判。どうだ。俺たちの勝ちでいいか?」
この狂気の惨劇を近くで見物していたものだから、審判は正気を取り戻すのに数秒かかった。ゆっくりと頷き、それは受理された。
「勝者、黒辻班」
血に湧き肉体の爆ぜる姿に興奮する坂々学園では異例の静寂をようやく審判が解き放った。するとそれを皮切りに大気を震わせるほどの歓声が起こった。
するりと刀は抜けた。蛇口自ら赤い手で抜いた。
「夜霧の錆となるのは俺の脂だ」
(イかれている)
舌打ちをして良順は武装を解いた。刀は木刀になり、制服へと姿を変えて、若干の戦闘意欲を残したまま会津を担いだ。
敗者は語らずの美学だろうか、審判に氷澄のことを頼み、自らも医務室へと向かった。
「やー、実に大変な戦いだったな」
ひたいの冷や汗をぬぐいながら巡がのこのことやってきて、さも大手柄を挙げたように仲間たちをねぎらう。
「みんなご苦労だったな」
良順に狙われていたことなど彼女は気がついてもいない。火素のショッキングな光景にただ目を奪われて、そのあとの集団戦は、正直なところ半分しか目で追えなかった。
「すごかったなあ」
まるで観客のようである。しかし彼女自身、戦闘に参加していたような心地でいる。それを否定する黒辻班ではない。
「無事で何より」
凶刃に触れることのなかったことに黒辻は心底安堵して、巡の無邪気さいっぱいの頬をそっと撫でた。
「さすがのお前も、落ち着いてはいられなかったようだな」
重傷に間違いないはずの蛇口は、もう自分で傷の手当てをしている。回復魔法をかけ、止血はおろか傷の修復まで終えている。こびりついた血の塊を払い落とし、からりと笑った。
「む、ごろ寝でもしようとしたさ、ただお前が不甲斐ないからできなかっただけのこと。ようくと火素と黒辻を見習えよ」
「はっはっは。確かに不甲斐なかったな。俺だけでは勝てなかったかもしれん」
「マジで?」
火素は巡を後ろから抱いて体を揺らした。審判たちが大会進行のため動き回り、表彰の準備が行われている。
「ああ。黒辻の無様が、俺を発奮させたわ」
「おっと、否定できないことを」
はにかむと、巡が信じられないといった顔でいる。巡は黒辻のことを、これ以上ないくらい完璧で圧倒的な強者であると思っているようだ。
「なァに美琴よ、俺にだって恐ろしいと思うものがあるのだ、黒辻にも欠点の一つや二つ、というよりも、何事にも上には上がいるのだ」
慰めるようなふうでもない。言い聞かせるふうでもない。今の心境そのままに、ただ巡へと向けているだけである。
「お前に?」
黒辻は首をひねる。「蛇口無心に恐ろしいものなんてないだろう」
「それがあるのさ」
蛇口は巡の股をぽんと叩き、さらには右の乳房を指で押した。「ぎゃわ!」
「女でさえこうだ、俺にとっちゃあ、命取りよ」
「馬鹿! 次はないといつも言っているだろう! この変態、狂人、下衆!」
「おう下種だとも。まさしく下には種があるわ。はっはっは」
この連中の優しさは、少々おかしな仲間に対しても仲間であるという意識を捨てずに愛するというところにある。
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