惑い

「二秒ですら、もたないか」


 三十センチはあろう長大なロレックのそれは蛇口の背から突き抜けている。指をわずかでも動かせば、肉や内臓がズタズタに千切れるだろう。

 失血で力尽き膝から崩れ落ちればそれだけで脳天まで裂けてしまうような鋭利さが、命の水に潤され、見ているだけではたまらなくなった吸血鬼、さっと腕を引き抜くと、血液は己の肘から滴っている。


「ん?」


 それは蛇口の血ではない。切り捨てられた己の血である。残った腕は蛇口の腹に刺さったままで、彼女はそれを素早く抜き取った。漏れ出る命に手を当てて止血と縫合、破れた制服がはためかぬよう適当に縛った。


「目にもとまらぬ速さだ。俺とて、数度しかお目にかかったことがない」


 星がどこかに落ちた。たなびく一条爆ぜて消え、地では流星霞むほど、かりそめの武威堂々と、血の鬼褪せりしその威風、蛇口の腹のがらんどうに収まりしは、意中に重くのしかかる最も強きのその言葉、たったそれだけである。


「ただ、速いだけだな。これが鬼とは笑わせる」


 ロレックへと浴びせる罵声には力があった。しかし見た目は死に体同然の弱々しさである。そして内実もそうであろうとロレックは看破した。


「ではもう一度」


 失った腕は切断面から伸びる触手によって補完され、もはや驚きもしない、綺麗なままの腕を出現させた。

 そして軽やかに消えた。先ほどと同じ動きだ、結果が似通うのは必然である。

 ただ違うことがあるとすれば、蛇口がロレックの爪の先を握り込み、刺突を防いだことだろう。一つの違いではあるが、戦闘の流れが変わるほどの大きな違いである。


「正々堂々の決闘はこうだから面倒だ」


 反対の爪が蛇口の首を狙うも、レディ・ベルの肉厚な刀身がそれを防いだ。爪と剣の壮絶なぶつかり合いは戦闘開始からまだ一分も経たないうちに数百を数える。


「一撃で決まるのが、決めるのが華だろう。だから打ち合いなんてしたくはなかった」


 爪とは身体の一部であるからロレックの攻撃は無理がなく、あらゆる角度から自在に刺突を繰り返し、縦横無尽に切りつける。


「しかし俺は無敗で、そしてさらなる高みへと昇らねばならん。これからは進んでやらねばならん。この」


 つまらん決闘をな。蛇口の振るうレディ・ベル、切っ先から刀身柄に到るまでまで、いや、もう剣ではなく彼女の腕と、そして連動する胸や腰、全身に同化して、踊るように恐怖の爪を弾いていく。体と武器の一体化はあくまでも精神的なものであり、彼女はある時は柄から手を離してアクロバティックでトリッキーな防ぎ方をする。だが精神的には間違いなく己を武器とし武器を己としていた。

 そうでなければロレックのうねるような攻撃の軌道をこれほど耐えられるはずがない。


「も少し殺意をよこせ吸血鬼。俺の気が動かんぞ」

「面白いことを。そんなことを言われたのは初めてだよ」

「ついでに見せてやろう。蛇口の闘法を」


 防戦一方だった蛇口だが、人間離れした鋭い足さばきから突きを放った。突然の攻め込みにロレックは首を捻ることでそれを避けた。


「そうだ、普通は左右どちらかに避けるよなあ」


 ロレックの頭が鷲掴みにされ、地面へと叩きつけられる。転がる小石が放射状に吹き飛んで、頭の三分の一がめり込んだ。これだけでは終わらない、尋常ならざる握力が、彼の頬の骨を砕き、顔の中心を握りつぶしたのだ。

 気道から吹く呼吸の残滓が血塊を飛ばし、しかし超生物としての威厳か、ロレックはもがきもせず蛇口の腹を蹴り飛ばして距離をとった。正確に腹を撃ち抜かれ、蛇口はまたがらんどうになっていやしないかと腹に手を当て確認する。


「長寿のお前らだが、どうだ、こうやって顔を剥がされたことはあるか?」


 それもただの人間によってなあ。嘲り、しかし弱気はない。流れに乗ってしまえば彼女はいつもこうである。

 パチン。奇跡とは指を鳴らすことと錯覚するようなロレックの回復の術は、時計を確認する暇ができた蛇口をはっきりと脱帽させた。


「ないねえ。でも私たちを狩るのはいつだって人間さ。これ以上ひどいこともされたよ。惑いのロレックはその名の通りの半端者だからね」


 爪はするすると定位置に収まり、それは拳と拳の肉弾戦をしようという誘いだった。蛇口は応じ、愛剣を地面に突き刺し、素手で構えた。


「よければ聞かせてくれ。時間はほら、まだ二分もある」


 吸血鬼の放つ閃光の一撃、ガードした蛇口の上腕を軽々と砕き、不気味な四分音符が乾いた空気によく響いた。


「よくある話さ。ワインの飲み過ぎが原因だよ。討伐隊が編成され、深手を負ったのさ。体に、そして心にも」

「はっ、あの美酒を理解せんとは無粋な輩だ」


 まともに攻撃を受ければ死ぬ。加護を発動させていてもそう直感できた。防げば骨が砕ける。それを回復させながらの命を懸けた軽口にロレックは笑った。


「きみのような人間ばかりなら私はもっと素敵な生を経ていただろうけど、その代わりに早死にしていたかもしれないね。ともあれ、私は討伐隊の連中に叩きのめされた。なぜかって、そりゃあ私も若かったし、何より彼らは強かった。姑息で、女好きで、化物に詳しくて、そして強かったんだ」


 蛇口の発動させている三つめの加護、渓谷の女神カーディオの力は体を治癒し、さらに水を操れる。それを血液に応用し失血死を免れているが、それも魔力が尽きてしまえば終わりである。

 砕けた骨は肉の内側に細かい破片を残し、左の肩からは得体の知れない骨も突き出ている。分厚い獣の皮膚、鋼のような体毛を、ロレックは過去を語りながら貫いている。


「英雄は色を好むもの。でもそんなの英雄に限ったことじゃない。私はあの時、彼らにどう見えたのかしら」

「珍しくもない。アイガーとウィルはデキていたし、サミーとステインは夜な夜な手を繋いで山へ魚を釣りに行っていたぞ。フレディとビットに関しては周知だった。むしろ誇るようだった、俺も祝福した、混じりっけなしの賛辞を述べた。祝宴も俺が一番金を出した」


 そうじゃないの。ロレックは悲痛を乗り越えた笑みで蛇口の頬を打った。正対していたはずが真横にくるくると回転しながら吹き飛び、意識は混濁し首がうまく動かせない。


「惑いのロレックはね、あの時まではこうだったの」


 馬乗りになった吸血鬼には豊かな乳房がある。声だってしっとりとした女のそれだ。色素の薄い金髪が偶然荒んだ風になびいた。


「十六人の英雄は、ただの好色家よ。あのワインに酔って、そして醸造家の真似事をしたわ」


 彼女にロレックの面影はない。美しく、二十歳前後の若いエネルギーに満ちた腹の上の感触に、


(馬鹿なハンターどもの気持ちもわかるなあ)


 と、視界の霞が晴れないまま、誰が聞いても激怒するようなことを思った。


「結界と無力化の秘術、銀の剣、およそ考えられるだけの対策をしてきた優秀な狩人たちだったわ」


 懐古し、鉄槌のような拳が蛇口の鼻に直撃した。障壁を展開していたのにも関わらず、そのダメージは尋常ではない。痙攣しやや蠕動した。


「部屋にあった髑髏は彼らのものよ。皆殺しにしたの、彼らの一族ごとね」


 もう一発。わざとそらしたのか、耳を削ぐような位置に拳は落ちた。


「そういう過去があったの。女の姿をやめて、それからはずっとロレック。だから惑いなの、昔の私を知る人はそう呼ぶわ。女であって、男でもある。吸血鬼にとってそんなこと大した問題でもないのに。多分、そうやって敗北したことを嘲っているのだわ」


 攻撃の手は休まらない。脳内に自分の頭蓋が割れる音がした。それを修復すると意識を向ければ障壁は薄くなる。もう一つのことにさえ集中できなくなっている。

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