望むもの

「……ここは?」


 蛇口の視界は一瞬だけ黒く染まり、霧が晴れたその先は目に鮮やかな部屋である。

 全ての調度品が赤と黒で統一され、それは天井は血の滴り落ちそうなほどに赤く、柱時計は棺の様に黒い。灰皿は赤く、吸い殻は黒い葉巻、真っ赤な椅子の背には漆黒のジャケット、戸棚に並ぶいびつな形の頭蓋骨のオブジェはどれもが滑りのある光沢が照っていて、むろん赤い。


 色彩に眩む蛇口は背後に気配を感じた。「私の屋敷だよ。散らかっていてすまないね。来訪者はしばらくいなかったもので」


 初めからそこにいたかの様に、燕尾服の男がそこにいる。かけてくれと椅子を勧めた。彼は椅子まで引いてやった。


「私の別荘さ。静かでいいところなんだ」

「俺の安アパートとは比べることすら失礼だな」

「紅茶でいいかい? 葉巻はどう?」


 執事の様に傍に立ち、両の掌を差し出す。とりあえず、と手品の様に湯気の立つティーカップと葉巻、シガーカッターをテーブルに置いた。この奇跡に種はなさそうで、蛇口は臆病を噛み潰すのに時間がかかった。


(乗り込んだはいいものの、早計だったかしらん)

「葉巻じゃなくて、紙巻はあるか?」

「もちろん」


 奇跡は何度でも起きる。その紙巻煙草はウェストリードで製造されているものだった。


「あー、素面ではしづらい話かもしれん」

「そうだろうとも」


 ワインのボトル、グラスは二つ。


(おっそろしい相手だ。良順や黒辻などが赤子に思えるわ)


 指を鳴らすだけでテーブルは華やいだ。香りのしない真っ赤な薔薇、悪趣味な黒い燭台、坂々学園の制服である蛇口はちょっと場違いである。


「火ぃつけてくれ」


 喜んで。と男はマッチを擦って紙巻煙草の先端を灯す。久しぶりの煙だったが、少女の肺にも喉にも拒絶反応はない。


「さて、このままだと食事の用意までさせられそうだ。本題に入ろうじゃないか」


 蛇口の対面に腰かけた。


「聞きたいことは多々あるが」


 足を組む余裕はなかった。牢での不遜さは全くなくなっている。


「あんた、じゃあ味気ない。なんて呼べばいい」

「近しい者は『惑いのロレック』と呼ぶ。きみもそうしてくれるかい」

「その二つ名は」

「古い話だ、それに愉快な逸話でもないし控えさせてくれ。それで蛇口、次の質問は?」


 爽やかな語り口、しかし怖気がした。彼から発せられる霧の様な全身を包んで離さない空気そのものが感覚をざらつかせるのだ。会津のあの闘気に似ているが、はっきりと非なるものだとわかる。これにはもっと害意の棘がある。


「なぜ俺を転生させた。ディグスラを使ってまでして」


 単刀直入なのは、この場所が気に入らないからに他ならない。火のついた煙草を使って新しいものに火を移した。


「変だな。きみは会話を楽しめる人間だと思っていたのだけれど」

「場所が場所、相手が相手。忘れないでほしいが俺は人間だ。怯えている」


 くすくすとロレックと名乗る吸血鬼は軽く笑い、蛇口の正直な臆病を受け入れた。


「そうだったね。きみは人間だ。しかし、私を脅すほどの胆力を持っている。対魔の法、あれはハッタリかい」

「素直に答えてくれるとは思っていないが、そうとも。虚勢だ、それも特大の」

「どう転がっても切り抜けられる札を持っていると判断しているけど」

「誤解だ。俺は非力で無力さ」

「吸血鬼に比べたら、かい?」

「忘れないでほしい、ロレック。あんたが俺をどこに放り込んだかを。いつでも俺は人の枠から外れずに、その中で細い勝利を掴んできただけだ」

「大丈夫。きみは強さを誇ってもいい。あの世界の強者はそこらの下級魔族なら簡単に八つ裂きにできるから」


 埒が明かない。蛇口は灰皿に火を押し付けた。


「ゆっくりしたいのは山々だが」

「急かさないでくれ。来客は本当に久しぶりなんだ。結論だけ伝えてさようならなんて、寂しいじゃないか。誘ったのはきみなんだよ?」


 ワイングラスを揺らし、赤い香りにうっとりとする。ふと、蛇口はそのワインが気になった。グラスの内側を縁取る水面の粘度はワインのそれではなく、さらにはやたらと色濃いことに。


「気になるかい?」


 この場合より目敏いのはロレックの方だろう、その不自然さに気がついた蛇口の微細な表情の変化を読み取ったのだから。


「これは十五年ものさ。田舎臭いけど、それがまたいい。不純なものは一切混ざっていないし、病気だってしちゃいない。これを作り出したあの夫妻のきめ細やかな製造方法には拍手を送ったよ。土に触れているから育ちも良かったのだろうね、もう少し寝かせてもよかったが、待ちきれなくて」


 口に含み、ゆっくりと喉へ滑らせ、彼は胃に収めるその瞬間までこのワインを楽しんでいた。度を超えた長寿の種族ではあるが、待つばかりの十五年である、やはり一入美味らしい。


「きみもどうぞ」


 ロレックは指を鳴らす。それに促され蛇口もグラスを揺らした。ロレックの嗜むそれと同一の揺らぎがある。


「私の好きなものをきみが好んでくれるのならば、こんなに嬉しいことはない。素面ではできない話をするのだろう、ゆっくり味わって、飲み干してくれ。そうしてこそ我々は談義できるというものだ」


 これはワインではないと確信し、その正体も想像ができる。見慣れたはずの液体だが、こうしてグラスに収まると不気味なだけであり、さらにはそれを飲まなくては先には進まない。


(迷うな。呑め)


 心で強く念じるも、体が拒否する。ステムを持つ指も、口に運ぶための腕も、蛇口は心身の結びつきが崩壊し、まんじりとグラスに映る己の顔を見つめることしかできなかった。


「毒を疑っているのかい? だがこればかりは信じてもらうしかない。私が味見を、いいや駄目だな、その方が不安を煽りそうだもの」


 ここまで劣勢なのはいつぶりだろうか。ジカルドで味わった苦労より、蛇口として跪いた苦難の方が先に思い出された。新しいものから想起する記憶の常識としてではなく、単純な窮地の度合いによってだ。それもそうであろう、蛇口は蛇口でいる間、ずっと強者に囲まれて過ごしているのだから。

 そして思い出す。自分が不敗のルカ・ジカルドであることを。そして蛇口の名を最強の代名詞にしようとしていることも。


「吸血鬼の供応、歓待、歓迎に乾杯だ」


 言うが早いか真紅の液体を一息に飲み干した。グラスの底は天井を向き、最後の一滴まで残すまいと、ロレックよりも浅ましく、しかしこれぞ吸血鬼であるといったふうにしたなめずりでグラスを置いた。


「若ければいいという訳でもないが、これは美味い」


 これにはロレックも目を丸くしたが、すぐに「よければもう一杯」と席を立った。


「腹は決まった。飲んでやるから持って来い」


 いくらでもな。こんなものは虚勢である、しかしロレックはそうと思えずにいる。

 それは蛇口は裏に切り札を持つが故のハッタリしかかまさないと、ディグスラを通じて理解しているためだ。最強になるためにはこうするしかないという、他者にはちょっと理解し難い覚悟までは見抜けなかった。

 やや粘性のあるそれは紅となり、彼女の唇を染めた。


「言え。目的はなんだ」


 ロレックは笑みを造り替えた。ワインを瓶詰めしている時のような嗜好への興奮と、吸血鬼としての本能がさらけ出されている。


「口止めをされている訳ではないし、教えてもいい」

「もったいぶるな。まさか今度はステーキでもご馳走してくれるんじゃないだろうな」

「どうせたいらげてしまうのだろう。無意味だ。本当にご所望ならばそれでもいいが、まあいいさ。あまり引き止めておくのも悪いからね」


 ロレックは席を立ち、こちらへと手招きをする。嫌な予感がしているものの、今は従うしかない。


「場所を移そう。客間を汚したくないから」


 霧とともに転移した場所は屋外だった。赤い月と蒼い星が美しい、紫がかった夜空である。

 周囲に緑はなく、幹だけのやせ細った木々が散見されるだけの寂しい場所だ。地面には岩が転がり、足場が悪い。天地の片方は不気味な輝きを、もう片方は貧しいばかりの異形の世界だ。


「ピクニックか。天気はいい見晴らしもいい、だが手ぶらだ」

「次はしっかり用意しよう。でも今回はちょっとしたゲームをしたくてね」

「三流のようなことをするな。先が読めるわ」


 蛇口はその気無しと鼻で笑った。「どうせ俺が勝てば教えると言うんだろう」


「くっくっく。決闘は伝統的な手法じゃないか。何かを賭けて争う、どの種族だってやっていることさ」

「お次はこうだ。きみが勝てば知りたいことを教えよう、だろう? それで、俺は何を差し出せばいい」


 話が早い。ロレックは手を広げ、正気を捨てた。紫の天空、赤と青の星月すら霞んでしまう、身震いするような血の臭いを烟らせた。


「決闘に応じてくれるだけで私は満足さ。だけどすぐに終わってはいけない。五分間だ、ほんのそれだけ付き合ってくれ」


 それが望みだ。ロレックは勝敗の先にあるものではなく、決闘そのものを望みとした。


「果たせなかったら?」

「あのヴァルキリーたち。そしてきみの学友。彼女たちをどうするかなんて、言わせないでくれよ」

「どうなろうと俺の知ったことではないが、まあ頑張ってみよう」


 静かにセルジュ老からの加護を発動させた。肉体の強化と、攻撃の軌道を視覚化させる。


「手加減をしてくれると助かる。それから参ったと言ったら攻撃はしないでくれ」

「わかった、なんて、どうせ何を言っても信じないだろう」


 獣王レオシスタの加護は感覚を鋭敏にする。発動させると蛇口の手足や首筋、肌という肌から金毛が生え出した。爪は太く厚く、動向は縦に細く、腰からはするすると尾が生えた。

 ロレックは指の節を鳴らしたり、首を回したり、屈伸をしたり、することは簡単な準備運動の域を出ない。たったその程度の動作が、蛇口に加護の発動を躊躇わせない。


(同時に三つの加護、か。これをやると明日が辛い。だが明日がある身かどうか)


 ロレックは例のごとく指を鳴らす。針の止まった大時計が現れた。「あときっかり五秒後にスタートだ」


 秒針が動き出す。蛇口の時間感覚はロレックの圧力によって狂った。カチリと一秒、また一秒、そのコンマの瞬きでさえ永遠のような心地がした。


「始めよう」


 ガシャン。一際大きな音がして、それを合図にロレックは溜めもなく、ふっとその場から消えた。そして次の瞬間には蛇口の腹に深々と伸びた爪が突き刺さっていた。

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