危機

「どうした残影! その程度か!」


 鋼でできた雲雀がいれば、きっとこういう音で鳴くだろう、刃と刃のぶつかり合いはその都度眩しい火花を散らし、太陽の光の中でも影と星を鮮やかに浮き上がらせる。


「くっ」


 黒辻は良順の苛烈な攻め込みに逃げ回るばかりである。身をよじる姿はダンスのようにしなやかで、しかし短身の良順よりもずっと小さくなって、ただ防ぐことしか頭にないようだ。


(時間稼ぎ? しかし何を待っている)


 このまま一対一は望むところの良順だが、円舞を踊るさなか、巡が目に入った。火素へと集中し、まるっきり注意力を失っている。


「はっ、馬鹿がいるな」


 あのよそ見をする女が助太刀に来るとは思えない。おそらくは彼女から目を遠ざけ、他の二人の援護を待つつもりだろう。と良順は考えた。よく考えればわかることだろうが、今までの対戦相手は圧倒的な暴力によってそんなことすらできなかった。

 流れ星は実力により思考するという権利を得た。くるりとステップを踏みかえ、その矛先を巡に向けようとした。それは体の揺れ程度の微細な動きだったが、黒辻は鋭利すぎる感覚をもってそれを防ごうと、つい不用意に刀をふった。

 わずかにそちらへ気を向けるだけで、十分に黒辻は気がつく。相手の実力を信じるがゆえの策だった。


「明星流剣術、堡塁断ち!」


 天より落ちる竹割りの一撃が黒辻の胸元にぶちあたった。肉を破り骨を断ち、そして臓腑へと迫るとき、九死に一生、黒辻は刀の鍔元でそれを食い止め自ら後ろへとんで引き抜いた。

 巡への過保護が、彼女に瀕死寸前の重傷を負わせた。しかし片膝立ちで苦しそうに呻く程度にしか表に出さず、しかもまだ気持ちの上では折れていない。

 観客の視線はほとんど会津と火素に注目している。見下ろす星と地にうずくまる影は、春ながらも寒々としている。終わりの静寂というべき、命のともしびが吹き消える寸前の沈黙があった。


「これが残影か。弱いな」


 その空気を破ったのは良順だ。手を伸ばせば届く距離の勝利に酔うことなく、予断を許さず、とどめを刺そうと慎重に近寄った。


「げほ」


 黒辻は血塊をはきながら、巡の無事を確かめた。どこかこちらではない一点を見つめ、唖然としている。


(無事か。そもそも、こいつは巡など眼中にないのだ。私の隙をつくための罠だったのだ)


 企みに気がついても、すでに遅い。ダメージは深刻で自分の愚かさを笑うこともできなかった。


「弱いものは戦場に出るな。死ぬだけだ」


 返事などできるはずがない。死にゆく影は虚ろな瞳で星を見上げる。


「影よ、夜霧の錆と散れ」


 突き殺そうとしている。それしかできないほど大げさな構えは、首をはねるには偲びなかったからだろう。

 良順だって楽な戦いではなかった。ずっと攻勢ではあったが、隙を作れたのは巡を使ったのが最初で最後だったし、それをしても仕留めるには至らなかった。

 黒辻一族は人身警護が主務である。そのため守りに徹すると、それを破るには数倍の力量が必要とまでいわれている。良順の堡塁断ちは容易に人を断ち切れる尋常ならざる威力を持つが、それをもってしても即死とまではいかなかった。

 良順の体が動いた。それをじっと見つめる黒辻の瞳には、こんな状況でも勝利を確信したような光があった。




(恐れというものが、こいつにはないのだろうか)


 良順が巡を使った罠を張ったころ、火素の背から刀が飛び出る少し前、蛇口もまた窮地にいた。


「せやぁ!」


 相手が女だとか、仕入れた情報の有無だとか、実力差も武器も関係なく、氷澄は狂ったように攻撃を繰り返した。まるで一撃をいれなければ自分が死んでしまうような勢いである。蛇口はそれにしっかりと応じて、手足を落とそうと幾度も剣をぶつけている。

 しかし、氷澄はまるで気にしない。動くのならば、斬れても失ってもいいとすら思っているようである。

 では、どうするか。まずは胴を薙げばいい。それに突いてもいいし、振り下ろしや切り上げ、要するに手足を狙わず胴や首、体であればどこでもいいし、目標となる部分は大きい。


「この獣め」


 蛇口は、迷わずにそうしている。そうしているのだが、氷澄はそれも厭わない。蛇口がするような、自分の体を盾にするやり方でしのぐ。切れ味の鈍い箇所に自らをぶつけにくる。

 そして躱す時は、将棋の格言にある大駒は大きく動かすの通りで、まるで自分を飛車のように動かしさっと波が引くように逃げてしまう。

 そして攻撃する時は、何が何でも一撃をぶつけようと躍起になる。そのためには自分が死んでも構わないような狂気の覚悟がある。自然、そういう相手には小細工も通じない。蛇口はそれで困っていた。


(殺してもいいものか)


 生粋の戦士ではあるが学園生活に馴染んできたのか、そんなためらいがあった。

 そして窮地である理由がもうひとつあった。


(それ以前に、当たれば終わりだ)


 氷澄の拳に、蹴りに、かすっただけでも皮膚が爆ぜるような心地がした。その威力は剣の腹で受け止めると痺れが全身を貫くほどである。反撃には己が身を削るような攻撃に変えてくる。技術と力を理屈で動かす獣であった。


「先ほどの続きだが、やはり金的は痛いよなあ」


 軽口にも無言である。細い目に玉をはめ込み、そよ風を颶風に変えている。

 訪れるべき結果であろう、迷いのある蛇口とそうでない氷澄、どちらに軍配があがるかは明白である。

 蹴りだ、と思った。それを防御するために腕を差し込み、残りの腕で剣を繰ればいい。そう考えた。

 その正誤の判断よりも、まず痛みが蛇口を襲った。

 差し込んだ腕は肘とその周辺の骨が粉々になり、肉を破った。ついで横腹への衝撃で、肋骨が二本まとめて折れた。臓器を貫く重さに胃の中身が自然と噴出し、宙に吐瀉物をまいて転がっていった。

 理解は遅れ、何かをしくじってしまったのだろうという認識しかなかった。手をついて立ち上がろうとすると、当然のように転んだ。激痛に顔をしかめ、ただくっついているというていのそれと、氷澄とを見比べた。


(あの優男が)


 仰天し、ようやく腹の不調にも気がつく。壊れた水洗トイレのようにバシャバシャと胃液を吐き出し、回復もおぼつかないままもはや慣れ親しんでしまった這いつくばるポーズで何が成せるかを考えた。


「降伏を」


 起死回生の一手を探して蛇口は息も絶え絶えに動かない足に活を入れる。動くな、と氷澄は言った。ほんの少しだけ彼本来の優しさがあった。


「降伏をした方がいい」


 良順ならば、と真似をしたつもりだが、生来の甘さでそんなことを言った。


(してしまおうかしらん)


 よぎったが最後、心身が屈しそうになった。これまでなら絶対にありえなかったことではあるし、激痛にも蛇口は負けたりはしない。

 だが、たった一撃でこうなってしまうとさすがにこたえた。真剣勝負を何度も行いその度に勝ってきた蛇口、ルカ・ジカルドである、この現実を認めてしまうことを恐れながらも、楽な方へと流されかけていた。


(負けるのは嫌だ。死ぬのも、今は嫌だ。どうする、回復まで時間を)

「動くな」


 最後通告のつもりか、氷澄は構えた。

 応援を頼むしかなかった。自分ひとりでは手に負えないと判断すると、すぐに黒辻に目配せをした。


「堡塁断ち!」


 蛇口はまさにその瞬間を目撃した。良順の刀が黒辻の胸元に吸い込まれ、彼女らしくない無理な体捌きでそれを受けたのを。


「黒辻!」


 叫びは叫びとならない。よたつきながらも猛然と、反射的にそちらへ体を投げ出すように走り出した。


「邪魔はさせない」


 蛇口の意識はもう完全に黒辻の姿を取り込んで、猪突猛進といったていになっている。痛みも忘れ、氷澄に背を向けるほど遮二無二だった。

 氷澄はその無防備な背に蹴りをあびせた。ちょうど肩甲骨のあたりである。


「なっ」


 それは驚愕の声である。氷澄は今、自分が蹴ったものの存在を改めて確かめなければならなかった。大木か、瀑布か、それとも米の詰まった袋か、そういった触れただけで重みのわかるたくましさがあった。この少女のどこにそれほどの膂力があるというのか、大剣をこの細腕で扱うことにも驚いたが、この肉体の異常性にどこか人知を超越した途方も無い奇跡があるように感じた。

 氷澄の攻撃によろけはしたが、足取りは軽い。腕も腹も無意識のうちに回復魔法を施していた。傷ついた体では助けに行くにも足手まといだと本能がそうさせていた。


「黒辻ィ」


 叫びは叫びとならない。しかし、とどめを刺される寸前の黒辻は、一足一刀の間合いをとり、死に体ながらも最大限の準備をしている。準備とは、この絶望的な状況から抜け出す小さな希望を捕まえて、そして離さないためのものだ。


「影よ、夜霧の錆と散れ」


 希望とは、黒辻の知る限り、抜群の実行力をもつ女だ。すると決めればそれをする、貪欲な勝利への執着を持ちながら、仲間を思いやるあの女だ。

 良順の放つ突き、その刀の先端はまず間違いなく黒辻の喉笛を貫くはずだった。


「貴様」


 そうされて、初めて存在に気がついた。さっきまでの真剣勝負に水を差され、大激怒の良順である。


「邪魔立てするかァ」


 刀の側面は蛇口の靴底でそらされて、肝心の本人は蹴ったその勢いで転がっている。同時に黒辻を脇に抱え、胸の傷をも回復させていた。


「良順さん、すいません」


 氷澄は横に並び、腰を落とす。二対二の構図だが、先ほどからの実力差であれば、どこか敗北を先延ばしにしているだけという見方もできる。


「黒辻、お前、実は弱いな」


 蛇口はそう言って、治ったばかりの黒辻の胸を揉んだ。癒すという名目のセクハラであり、そうすることでおどけ、余裕を見せた。


「自負はあったが、お前のいう通りだよ」


 情けない。と、行われている行為に対しては無感情でいる。当然ながらそれどころではない。


「美琴は」


 すると巡はただ一点を見つめ、唖然としている。その先にはおそらく火素がいるはずで、巡の表情から察するに、あまりいい状況ではないのだろう。


「おっと、見るなよ黒辻。お前がそぞろになっては勝てんのだ」

「おう」


 火素ならば、どんな場合に陥ってもどうにかするのではないか。そんな心地でいるが、これといって根拠はない。彼女のいつもの明るさや暴虐性がそうさせているのかもしれない。


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