転生の秘密

神隠し

「みなさんお疲れ様でしたー。黒辻班は優勝おめでとう、私も職員室で鼻が高いのなんのって。どうだ吠え面かかせてやったぜーみたいな? めでたい! めっちゃめでたい!」


 大会が終わった次の日から授業がある。うだるのが普通だが、一年六組は熱を持っている。

 宝のいう通り、一年生でもっとも強いチームと教室を共にしているものだから、その興奮は並ではない。ちょっと宝の素が出ているが、それも感激の余波であろう、クラスメイトも最大限に盛り上がっている。


(朝からどうしたというのだ)


 例のごとく二日酔いの女神は、喧騒に顔をしかめた。彼女の飲酒は周知のことなので、だからといって加減はせず、女子たちは席を離れて巡を囲んで騒いだ。最近になって愛さずにはいられない存在だとも周知されている。

 その黄色い囲いの隣も素晴らしく賑わっている。このクールなウエスタンはやや弱気な女子たちから抜群の人気があった。

 男子の半数、そして気っ風のいい女子たちは火素に集まる。迎える彼女も照れもなく試合を振り返り、その試合というのも激戦に次ぐ激戦だったので自慢が自慢にならないし、自然と事実が武勇伝となる。

 黒辻班は席が隣接しているため、その周囲は非常な人口密度であるのだが、ポツンと頬杖をついてこのやかましさに辟易するものもいる。


(ちやほやされたいわけではないが、こうも差が出るものか)


 目の前で揺れる女子の尻を眺めていると、まあこれはこれで、と不埒で脳内を埋め尽くしていると、小ぶりな胸が弾むように視界に入ってきた。


(趣味ではないが、これはこれで)

「お疲れさま」


 宝である。教師がこうして出歩いているため、生徒も勝手に過ごしている。黒板には宝の綺麗な字で自習と書いてあった。


「頑張ったのに、あなたって人気ないのね」

(着痩せしているのかもしれない。触って確かめてみようかしらん)


 くっとかすかに指が動いた。蛇口にとっては教師と生徒の垣根などなく、その点、宝も陸も同じである。


「出番は結構譲っちゃったもんねえ。玄人向け? なのかな、あなたって」

(七十二、六十四、七十九。歳をくって俺も色狂いになったもんだ)

「きいてる? 蛇口さん」


 顔を近づけて瞳を覗かれる。どぎまぎするような蛇口ではないが、女子たちの尻と宝の肢体で下半身が妙に熱い。

 実のところ、蛇口の欲望は新世界に来てから放出されていなかった。発見と驚き、環境の変化でそれどころではなかったし、それが少し落ち着くともう彼女はどうやって山暮を倒そうかとそれしか考えていなかった。陸との接触でもよく我慢したと自分を褒めてやりたいほどである。

 時折発せられる下ネタやセクハラは、される方はいい迷惑だが、彼女のストレス発散法でもあった。

 だから、彼女は敏感になっている。連戦の惨状と女子たちの生きた匂い、それと宝の無自覚な接近に、いってみればかなり参った。


「効いているとも。てきめんにな」


 さりげなく片手を机の下に隠した。下着を弄り、その滾りの指向性を変えて、それで落ち着いたと自分に言い聞かせた。


「そ、ならいいけど。それにしても派手にやったわよね」

「宝先生、あんたまで噂を信じていたわけではないだろうな」


 するときょとんと目を丸くして、


「まだ隠してるつもり? みんな知っていわよ」


 と、けろり。それでも声を落として言った。


「一年生たちはどうかわからないけど、先生たちも上級生も、まあそうだろうなって感じよ」

「証拠はあるのか?」

「ないわ。だからでしょ」


 大きな概要だけで猟奇魔の正体を考えれば、まず間違いなく黒辻班の犯行である。しかし、そのあとの状況を含めれば、その正体に靄がかかる。

 蛇口のことはよくわからないが、黒辻の名前は広く知れていたので、大方黒辻の家名に傷がつかないよう班員がうまくやったのだろうと、そういう評判である。


「噂は噂。それよりもよほど衝撃的だっただろう、黒辻や火素の試合は」

「なんで他人事? あなたもでしょ」


 と、宝はふむと少し記憶を探した。


「尾崎さんたちとの試合。火素さんの影に隠れて、あなたもひとりやったでしょ」


 草陰さん、と名前をきいて蛇口はゆっくり頷いた。彼女にとって記憶すべき名前ではなかったので記憶が曖昧である。


「あれだって相当な技術がいるわね。生かさず殺さず、どうにでもできるだけの技術がね。それで浜野さんたちもうまくやったのでしょうけど」


 蛇口はそれを小さく笑い飛ばしたが、それ以上は何も言わなかった。


「氷澄くんもそう。あの子、とんでもない努力家で、修行でしか人生は成り立ってませんってくらいのクレイジールーキーなの。強いのなんのって、先生たちのあいだでも噂なのよ」


 それに優しくてかわいいし。とうっとりとするあたり、宝や教師たちの本音はそこにあるのだろう。


「タイマンでは押され気味だったけど、あなたって誰かのためになら力が出るのかしらね」

「どういうことだ」

「だって、黒辻さんが危ないから」


 あんなふうに駆け出したんでしょ。宝に言われて、初めて自分がそうであったと気がついた。夢中だったとはいえ、振り返ってみるとそうとしか考えられない。負けることがいやだからとか、あの瞬間、そんなことは考えていない。


(なるほどそうかもしれん。勝ち負けよりも優先するべきものもある。その上で勝たねばならんのか、これは大変だ)


 敗北を与えてやると神は言い、それに抗うべく己の不敗を守ってきた。そこにかすかな光が差すようであった。前生の際に浴びた、フォルトナの後光のような光である。


(無敗のままでは成し遂げられん。それに負けろと言われ、負けぬだけでは男が廃る)


 ここはひとつ、勝ってみせようか。示された負け続ける人生の、その正反対をいってやろう。

 稲光のような思いつきに勝手に痺れ、くくくと小さく笑った。性差を超えた蛇口の魂にめらめらと炎が高く高く立ち昇り、それが口から漏れ出たのだ。灼熱の吐息は己の決意の表れみたいで気恥ずかしく、それを隠すも炎は下へも雪崩れていて、またもぞもぞと下着を弄り、宝へは、


「氷澄と遊ぶのが馬鹿らしくなったから、押し付けに行っただけさ」


 と、適当なことを言う。


「素直じゃないのね」

「もういいだろう。この俺に尻を向けている連中をさっさと席に着かせてくれ。良い加減、な」


 さすがに我慢の限界であった。このままでは宝に覆い被さってしまいそうで、その障害になるであろう戦友までを排除しそうな自分がいる。


「そうね。ま、お疲れ様」


 宝はもう黒板の自習の字を消していた。


「はーい注目ー。楽しいおしゃべりは一時中断してねー」


 授業の準備が始まったが、モテてて困るぜと火素が振り返った。


「人気者は辛いねまったく」

「こら、そんな浮ついていてはいかん。それにここは坂々だ、いつ負けてもおかしくはないんだから」


 まんざらでもなさそうな黒辻だが、言葉にすることによって気を引き締めた。


「平気だよ。勝てるさ」

「みんなそう思っているよ。でもそれができないから私たちは少しでも目標に近づけるよう学ぶのではないか」


 目標。黒辻は何を思っていったのだろうか。もちろん蛇口にはわかっていた。負けたくないを勝ちたいに変更したばかりであるから、それはもう納得といったふうに頷いた。


「美琴、俺は負けんぞ」


 赤と黒が論争している最中に、ぽつりと言った。


 巡は「はあ?」とズキズキと疼く頭をもたげた。「それは今までもそうだっただろう」


「そう、だがもうひとつ段階をあげるのだ」


 蛇口はどこを見ているのか、足を組み、腕も組み、正面に瞳をおいてはいるが、虚空の、何か自分の描いている未来を睨みつけているようでもある。ただ、残酷で辛いだけの未来ではないようで、隣の巡からでもわかるくらい、新たな女の顔で、元のルカ・ジカルドのような男ぶりの笑みでいる。


「負けないではない。いつか赤毛が言っていたが、勝つんだ。それでこそ俺の負けを拝みたい連中の鼻を明かせるというものだ」


 また無茶なことを言う。巡はバカなと頭を振るが、頭痛はいくらか和らいでいる。


「この強者集まる坂々で、俺の名を最強に代わる言葉にする。みなが俺に道を空け貢物を持ってくる。ははあ、最高じゃないか」


 その時は、とようやく未来から視線を外し、巡を片目でうかがった。


「その時、お前はどこにいる?」


 蛇口の描くそれが、はたして素晴らしい楽園のような学園なのか、それとも修羅の巷のような地獄なのかはわからない。ただもう頭痛は消えていたので、巡はポケットから紙パックの清酒を取り出した。


「どこって、そりゃあ黒辻の後ろだろう」

「なるほど。つまりは俺の後ろだ。ついでに赤毛の後ろでもある」


 己だけではなく、仲間までも自分の未来へ引きずり込もうとしている。もちろん許可などは取っていないが、彼女たちならばこのおぞましさすらある無鉄砲にも付き合ってくれるだろうという確信があった。


「呼んだ?」


 振り向く赤毛、ウエスタンを散りばめた影も宝の目を気にしながらもこちらに気を向けた。


「さっきからヒソヒソと何を喋っていたんだ?」


 また悪巧みか。そう黒辻は笑った。


「いやなに、俺も青いということだ。この歳になって、ましてや死んでから最強を目指すのだから」


 相変わらず意味が不明瞭だが、それだけがわかればいいというくらい眩しい単語がある。

 素直に胸を打たれ、黒辻は呼吸を忘れた。坂々学園でそれを目指す連中の大半は死ぬ。生き残っても、負けの許されない常に崖っぷちにいるようなものである。

 しかしそんな危ういながらも輝ける称号に誰もが虜になる。虜になったものがここにいる。


「はーいみんなー、授業ですよー」


 宝の呼び声に教室は鎮静するも、各々の胸の高鳴りだけは鎮められない。


(ん?)


 蛇口の机に丸められた紙切れが飛んできた。黒辻が後ろ手に投げたものだ。

 開いてみるとシャープペンシルには勿体無いほどの達筆な字が、彼女のときめきを真っ正面から伝えてくる。


(お前が私の後ろ、か)


 年甲斐もなくこの胸よ、豊かになっちまったこの胸よ、なっちまった無敗ではなく、なりてえ最強に高鳴るか。蛇口の胸中の春の嵐は、そのまま口から放たれる。


「ガッハッハ。なんだ、やりがいのある人生だ。俺の拳も剣も、もちろん槍も疼きやがる」

「え? え? ちょっと蛇口さん?」


 宝はもちろん唖然としている。クラスメイトは若さか順応も早い、また蛇口が喚いたなと開いたノートを見返している。


「気分がいい! 良順でもからかってくるから、授業は進めておいてくれ。おっと、黒板は消さずにおけ、あとで写すから」

「からかうって、授業中よ? ああ、待って待って」


 宝はひきとめるための術を言葉以外用意していない。ズカズカと蛇口は張り切って廊下に出ると、さっと姿を消した。


「へ?」


 私も、と身を乗り出していた火素は、思わず静止した。黒辻も蛇口の背を追っていた瞳に驚愕の色を浮かべている。


「消えた」


 廊下に出た瞬間、蛇口の姿は忽然と消えたのだ。言葉通り、追いかけてその姿を探してもどこにもない。廊下の先にもなく、どの教室も静まり返っている。


「こんな昼間っから神隠し?」


 理解不能、畏怖する火素のつぶやきに、巡だけが腑に落ちた。


(呼び出しか。ご苦労なことだ)


 そのうち戻ってくるかもしれんが、まあ私には関係ない。巡は蛇口の行き先にかけらも不安を抱かずに、黒辻たちを席に着かせた。


「心配するほどのことでもないだろう。そうだ、猟奇魔にでも襲われたのかもなあ」


 と、春のそよ風のごとくのんびりと言った。

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