火素、怒る


「ちょっと、腹ごなしに散歩してくる」

(きた。うまくやれよ蛇口)


 黒辻は飯の味を感じることもなく、黙々と昼食を済ませた。彼女は作戦を聞かされても顔に表れず、態度も自然であろうという理由で打ち明けられたのだが、箸を食事中に二度落としかけたりと少しぎこちない。


「散歩? いつもの伝説の俺話はどうすんだよ。昨日の湖に潜むバケモノ蛙退治の続きは?」


 火素はすっかりルカ・ジカルドの冒険譚の虜となっている。内容は稚拙なファンタジーのようだが、蛇口は誇張抜きで語っている。


「明日にしよう」

「じゃあ私も散歩に行く。歩きながらでもいいだろ、巡もほら、黒辻も」


 蛇口はちらとその視線を彷徨わせる。断る言い訳を探していた。


「火素、宿題を提出してないだろう。巡にいたっては、入学以来課題を一つもやっていない問題児だ」

「あ、そういやそうだな」

「内容はわかっている。宿題なんて意味ない」

「酒を飲むよりはためになる。ほら、手伝ってやるから」


 黒辻のウインクに頷き、蛇口は外へ出た。人目につかない場所で屈伸や腕立てをするも、なかなか出血しない。服がべったりと汚れるくらいが理想なのだが、一滴も出ないのだ。


「あ、ふさがってやがる」


 黒辻の絶技はこんなところで誤算を生んだ。

 仕方なしと大きめの石を拾った。その先端はなるべく鋭いものにした。

 これくらいなら、とためらわず彼女は身の毛もよだつ狂気を行う。


「よっと」


 ずん、と石の切っ先を右の脇腹に突き立てたのだ。そこから横にぎりりと進ませると、さすがに呻いた。ようやく黒辻の刀傷からぱっと血が吹いた。

 匍匐し、土やアスファルトに血痕を滑らせていると、その明らかな重症者が悲鳴と共に発見された。

 坂々学園ではこうした怪我人はよく見られるが、それにしても凄まじい出血である。蛇口は急ぎ親切な数人の手により医務室へと運ばれた。

 陸はその数人から蛇口を引き取り事情をきいた。そのことを担任の宝にも伝えた。


「治療は終わりましたが、決して軽傷ではありません。明日までは医務室で様子を見ます」


 看病は私がいたしますとも言った。

 このことを宝はすぐにクラスメイトに伝えた。激怒したのは、火素である。


「山暮ェ!」


 昼休みも終わる頃、火の玉みたいに教室を飛び出そうとするのを黒辻が引き止めた。これが作戦であるということは内密であるが、この怒りようには作戦だから安心しろなどとはとても言えなかった。


「誰がやったかはまだわからない」

「関係ない。手ェ出すのはいいが、出されるのは勘弁ならねえ」


 と、幼い理屈を言った。それが仲間のためを思ってのことだから火素らしい。

 火素はすがりつく黒辻を引っぺがした。通り過ぎる同級生たちがみな道を開けるほど、怒気がはっきりとあった。

 教室には談笑する怨敵がいる。あまりにも興奮しすぎていたために、立ちくらみを起こしそうになった。

 口をひらけばそのまま拳が出てしまいそうで黙って山暮の前に立った。


「あら、何かしら、卑怯者」


 山暮は昼休みを利用して蛇口たちと同じように作戦を練っていた。人気のない場所を活用することも、試合の前から戦いが始まっているという意識も似ていた。

 ただ違うのは、話し合っていることは騙し討ちの計画ではなく、自分たちの連携や非常事態に陥った際の行動、さらには作戦暗号を用いるなどの綺麗すぎる秘密会議だ。

 まだ一致団結とはいかずまとまらないながらも、先日に負傷した田町の仇を取らなくてはならない決意と、自分たちなりの戦い方で決着をつけようとする覚悟があった。

 アイデアを出し合っている時期でもあり教室に戻ってからもかなり盛り上がっていた。そんなところに火素が現れたものだから、彼女に対してやや軽率な物言いになった。

 それがいけなかった。

 山暮は宙に浮いた。それが当たり前であるかのように、風に舞うように宙づりになって初めて気がついた。

 火素に胸ぐらを掴まれて、木の枝を掲げるような滑らかさで吊られているのである。


「口には気をつけろ。言っとくが、今の私はちょっとおかしいから」


 そしてまた当然のように手を離し、柔らかく席に着かせた。何が起きたのか山暮ですら知覚できない高速の荒技である。


「火素!」


 山暮の咳き込む音だけがする教室に、黒辻が血相を変えて飛び込んできた。


「迷惑をかけたのならば申し訳ない。だが、私も同じ気持ちでいる」


 この時はなんのことかわからなかった山暮たちだったが、放課後になって蛇口の噂が流れてくると、胸に暗雲が立ち込めて、どこか周囲の視線も棘のあるものになっている。

 不幸にも彼女たちは昼休みに姿を消している。無人の屋上を会議の場所に選んだことが災いした。

 これが正当な仕返しであれば他者も納得しただろう。しかし田町の怪我に証拠はなく、黒辻もその不幸を嘆いたことをクラスメイトは知っている。むしろ先に山暮が一方的な怒りをぶつけたことが彼女たちの不利になった。


「蛇口さん、ひどい怪我だそうよ。見つかった場所にかなりの血痕があったみたい」


 浜野は噂を集め、そう報告した。


「誰が、なんで、あいつらを狙ったのかしら」


 まさか流血をもっての自作自演だとは思いつかない。こうなると田町を痛めつけたのも誰か別人なのではないかとすら思えてくる。

 山暮たちですらつかめていない現状である、噂は千里を飛び、事実無根な憶測までもが生まれていた。

 グルになって大会を盛り上げようとしているだの、黒辻のファンクラブの連中が暴走しただの、蛇口の怪我は嘘であり油断を誘うためのものだとかが流布していた。最後の噂は事実に近いが、それは蛇口ら以外の誰にもわかり得ない。


「お見舞いには行きづらいわね」


 教室に乗り込んでまで啖呵を切った女がこういう弱気なことを言うことこそ、彼女の心が乱れている証拠である。絶対に負けたくないという思いは不幸の連続と同情に疲れ、早くも薄れている。


「陸先生に一言伝えてもらいましょうよ」


 浜野は敵であるというよりも、同期の友人としてのいたわりを持っていた。


「そうね。園田くんもそれでいいでしょ」


 山暮班のひとり、園田常彦は首を振った。


「見舞うほどでもないと思う。これで数は同じだし。早く帰って寝た方がよっぽどいい」


 と、この甘さを見せた女子に告げた。しかし、二人からの非難の視線にすぐに意見を翻した。

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