やりすぎ

「私はなんだか情けなくなったぜ」


 帰り道に火素はため息をついた。先ほどの一件についてである。


「黒辻にあんな、嘘泣きなんかさせてさぁ」

「俺は槍を突きつけられたんだ、それに比べればマシだ」


 何もかも演技であった。黒辻の言葉も、献身的な火素も、弱者の蛇口も、三下の巡も、全てが嘘であった。


「私なんか体の震えを演出するために、ほら、見ろ」


 黒辻は小さなガラス片を握り、その痛みで震えていた。その傷口に火素が唾を吐く。


「おわ! ばっちいな」

「すぐ治るさ」


 正義漢との噂が流れる火素だが、この闇討ちに次第に賛成するようになっていた。

 俺が全部やると蛇口が汚れ仕事を請け負ったこと、それとリーダーである黒辻が参加しているものだから、自分だけが仲間はずれなのも嫌だった。


「次は浜野だ。これは来週だ」

「私たちは何もしなくていいのか?」

「赤毛の出番はもっとあとだ」

「いつだ?」

「いざ始めよ、と声がかかった時だよ」

(それは本番だ)


 黒辻は微笑ましく役目を与えられて喜ぶ火素を眺め、


「私と巡もか」


 と、きいた。近頃、黒辻は巡をちょっと注視している。酒の匂いを撒き散らし、授業は爆睡、放課後になってようやく活発になるこの女のどこに神秘的な雰囲気を感じているのだろうかと、それを探っているのだ。


「そうだな。お前はともかく、美琴に何ができるんだ」

「飯を食うこと。あとは賽の目をふるくらいだ」

 大威張りに胸を張るその仕草に一同は和んだ。愛すべき阿呆、という風があった。


「南、俺だ」


 翌週、田町が入院してから五日ほど経っている。放課後に医務室を訪れた蛇口は、ささやくように来訪を告げた。


「あら? 蛇口さん」


 無心、と下の名前で呼ぼうとしたが、それをするにはよほどの勇気がなければできなかった。


(化粧をしているな)


 陸は普段の薄化粧より、多少派手でいる。しかし公衆道徳から一歩だって踏み外していない、医師として教師として奇跡のような美しさだった。


「実はな、ちょっと頼みがあるんだ」


 拝むように手を合わせ、眉を下げ、軽く笑んだ。陸にすれば家に連れて帰って愛でたくなるような類の仕草だった。


「た、頼み? 一応、聞かせてちょうだい」


 耳元に唇を寄せた。誰もいない医務室でこうしたのは用心深さゆえだろうが、陸はまさしく色眼鏡をかけてこの行為を見ている。

 紡がれるは、濃ゆい悪事の綴りである。一切隠し事のない企みだ。が、陸はすぐに受け入れた。

 しかし表面上は難しい顔でいる。


「そんなことしたくありません。正直でありたいのよ」

「一度でいい。俺のためじゃなくていい、俺の仲間のためだ。黒辻たちの泣き顔を見たくないのは、南、お前も同じだろう」


 両肩を強く掴み、蛇口は軽く揺さぶった。


「頼む。俺にはお前しかいないんだ。こんなことを頼めるのはお前だけなんだ」


 陸はなおも渋る。首を振って、残念だけどと断った。


「都合がいいことを言っているのはわかる、だからという訳ではないが、お前の頼みも聞くから、頼む、この通りだ」

「ちょ、やめてよ、そんなことしないで」


 這いつくばって頭をさげた蛇口は、半狂乱といっていい有様で、頼む頼むと繰り返す。陸は冷静を求めベッドに腰を落ち着けさせた。


「南」


 体を縮こませまるで捨てられた犬のようだが、その大きな瞳には強い決意がある。


(了承しろ、南)


 這いつくばったのも執念あってこそだ。執念があれば彼女はなんでもできた。


「頼む」


 ようやく陸は折れた。もっとも折れることを蛇口は知っていたようでもある。そうでなくては先日知り合ったばかりの医者を頼りにはしない。


「わかったわ。でも、これっきりにしてね」


 根負けしたていではあるが、これは陸のちょっとした演技である。蛇口との接点をこれでもかと広げたいがための行為だ。

 蛇口は感激した。腹の底では、しめしめ、とか、早くそう言え、とかそのくらいは思っていてもおかしくはないが、自分の策の第一段階であっただけに、やはり感激したといえる。


「恩にきる。お前あっての俺だなあ」

「それで、見返りは何かしら?」


 さらりとそう言った。己の職務を省みて適切な言動かどうかに自信がなかったので、かなり冗談めかしている。


「おお、なんでもいい。だが頼みを反故とせよ、なんてのはやめてくれ」


 ことが過ぎればとことん明るく機嫌のいい蛇口である、先ほどまでのしょげた犬の姿はもうどこにもなく、芝居だったのかと指摘されてもきっとどこ吹く風なのだろう。


「じゃ、じゃあ」


 手を繋いでもらおうか、それではむしろ生々しい。

 抱きしめてもらうのも、それはどうなのだろう、いかがわしくはないだろうか。

 陸は茹だり、彼我の立場に翻弄され、少女のようにもじもじと、考え抜いた末の願いを発した。


「キスしてくれない、なんちゃって」


 一足飛びのお願いに、蛇口はちょっと真顔になった。

 陸の思惑はこうである。二人の親密さに不足がないと疑わなければ、冗談ですむ。さらに実現すればこれほど喜ばしいこともない。拒否されればそれまでだが、豪放磊落といった蛇口であればもしかすると。

 そんな魂胆である。言ったそばから「なんちゃって」とごまかしたのも、これはあくまでも大人が子どもをからかっているのだと暗に示したかったのだが、どうにも発汗と火照りが止まらず、顔から火が出そうなほどに己を恥じている。


「あはは、ごめんね。からかったりして」


 羞恥で泣き出しそうなほどである。これが普段、優しさと知性を兼ね備えた保健医だと誰が思うだろうか、その心境は蛇口たちの年代のそれと、脆い純情とさほど変わりない。

 蛇口は片方の眉を器用に持ち上げた。ついでに犬歯が望める程度に微笑み、真っ赤になった陸の頬をひっつかんだ。

 陸は我を忘れた。突然の熱き唇の柔らかさと、女子高生にあるまじき蛇のように這う舌に、三十路をとうに超えた身に起きた悦楽の数秒間を、このまま死ねばどれほど素晴らしい一生だろうかと思う間すら惜しんだ。

 交わる吐息。乱れる思考。甘噛みされる己の口唇に、陸は本気で嫉妬した。

 するりと背に手が回る。白衣の下のシャツがもぞもぞと動き、胸元に、己の熱が移った指が触れた。


「ん」


 それなりな青春を送ってきた陸ではあるが、この立場も年齢も大きく異なる存在がとろうとする行動に、驚きと背徳感と凄まじい興奮を覚えた。それはたった一度の軽度の肉体的接触ですらそうなのだから。その先を考えるだけで腰が砕け、蛇口に寄りかかってしまう。

 だが、陸がどう思おうと蛇口の目的はそれではない。抱きしめたくせに抱きしめられることは拒んだ蛇口はようやく唇を外した。


「お前の尻は、そんなに軽そうには見えないが」


 望まれたこと以上を自分から進んでしたくせに、まるで迫られて、しかしこちらには気のないような、そういう台詞で終わらせた。


「あ、あの、私」


 惚けたままの陸はうまく言葉を探せないでいる。彼女は体に渦巻く寂しさを埋めるにはどうすればいいかとそればかりを考え蛇口を見つめた。


「これでよかったのか? 俺の感謝の意を表するには、まだ足りないが」


 お前が良しとするなら、仕方がない。

 などと言って名残惜しそうにするものだから、陸としても期待せずにはいられない。


「た、足りないって」

「お前は心が広いから、俺の願いにこれくらいで良しとしたのだろう?」


 違う、とはとても言えなかった。


「だからお前に頼むのだ」


 そっと肩に置かれた手を、陸は自分の胸元にもっていき、両手で握った。さっきまで自分の肌に触れていたこれを、口に含みたくなる衝動が、口元から雫を落とさせた。


(あ、やりすぎたかもしれん)


 そっと手を離し、それでも蛇口は雫を拭うことはしなかった。


「またなにか困ったことがあったら、来てくれるかしら」


 陸から会いに行くには彼女の勇気の総量が足りない。要件がなければ接点はなく、ましてや医師として医務室を空けておくわけにも行かない。ドアの前に不在の札をかけているのであまり関係なさそうなものだが、彼女の職に対するプライドとして医務室には居たいのである。


「用など、でっちあげればいいだけだ。腹なんてしょっちゅう痛くなるものだろう」


 無論、用がなければ来るつもりはない。陸が垂涎したときの、おぞけというほどでもないが、それに近い妙な感覚をしばらくは忘れないだろう。


(しかしここに来るには、その度に酒を絶たねばならんな)


 どう美琴に言いきかせるか。それもすぐに頭から離れ、医務室であったほのかな情事もすっかり忘れ、明日からの山暮潰しに全身が燃えるようであった。戦闘への情熱は、悲しいかな、陸との関係性よりもずっとよく炎を巻き上げている。

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