三人


「戻った」


 蛇口が帰宅すると、巡は布団の上で寝息を立てている。卓上のビールの缶を持ち上げると、まだ中身が残っていた。

 それを口につけようとして、陸との約束を思い出した。思い出したがこの女、実は約束をしたその日から飲んでいるのである。


(こればっかりは、仕方がない)


 許せよ、と飲み干した。巡の隣に座り、片手で彼女のソックスを脱がした。


(臭うな)


 自分のも脱いで、


(はは、臭うわ)


 と、妙な行動だが彼女なりの洗濯をしようという意気込みの噴出である。服を脱がせ、服を脱ぎ、そうしてから自分はジャージを着た。


「おい美琴。飯の用意だ。起きろ」


 脱がせてからかける言葉ではないが、ともかく巡は目を覚まし、下着姿の己にどんな関心も抱かずジャージを着た。


「首尾は?」

「黒辻と同じようなことを言う。だから俺も似たような答えしか出ない。明日になればわかる」

「なんだ、お前にもわからんのか」


 言い当てられ、困ったように眉を下げた。


「バレたか」


 笑い飛ばし、下駄を履いた。スニーカーと使い分けようとしているらしいが、適当な彼女なので気分次第で変わる。


「腕利きの医者なら一ヶ月。それくらいにはやった。俺ならまあ三日だな」

「十分だろう」


 蛇口は自分の耐久性能を経験から知っている。それを尺度にすれば、骨が折れることなどそれほど重傷でもなかった。彼女には、加護がある。


「奴に龍の加護があれば、俺は今夜、寝首をかかれるかもしれんぞ」


 赤銅色の鱗を持ち、大空を自由に駆け、岩をも溶かす炎を吹く、全長十メートルは軽く超える大きな蜥蜴、それが蛇口の出会ってきた龍である。それほどのこの世界のイメージとは食い違っていない。

 前生、とある国からの依頼でこの龍を討伐する任を受けた。

 七日間に及ぶ死闘の末に、龍は彼の実力を認め、自らの死をもって加護を授けた。


「まさか傷が一瞬で治るとか」

「似たようなものだ。すぐに治る、とはいかないが、言っただろう、三日もあれば治る。それに龍の言葉もわかるし、あとは手品をいくつか」

「タネを教えてはくれないのか」

「お前になら、俺のタネの味を教えてもいい」


 巡はその意味を買い物が終わるまで気がつかず、ふと晩酌の時になって理解して、


「くっだらないことを二度と言うな」


 と、絶叫した。




「いい度胸じゃない」


 一年六組は突然の侵入者に騒然とし、その言葉に込められた怨念のような禍々しさに戦慄した。


「あんたでしょ、田町くんをやったのは」


 一時限目の途中で、社会科教師は注意もできずにいる。それほどの剣幕だ。


「ほんとたいしたご挨拶だわ」


 山暮良美は班員の田町に降り注いだ不幸を担任から聞き、怒髪天を突く勢いでその犯人のもとへやってきたのだ。

 蛇口が犯人である。それを知っているのは黒辻班だけで、山暮はそれを知らない。これは彼女の決めつけだが、的中している。


「田町? お前の仲間か、奴がどうかしたのか」

(そりゃあとぼけるだろうが)


 黒辻は様子を伺いながら、ぞっとする思いである。開き直ったところでどうにもならないし、闇討ちにはどうしても卑劣なイメージが付きまとう。実際に事実もそうであるため隠すのは当然である。

 それにしても、あまりに堂に入ったとぼけ方だ。


(何かあれば)


 黒辻は火素と視線だけで示し合わせた。巡は寝ている。深酒のためだ。


「しらばっくれるな!」


 感情のまま机を思い切り叩いた。巡はビクリと体を震わせるが、眠りこけたままだ。


「あんたがやったんでしょこの卑怯者。田町くんね、大怪我したのよ、意識不明で会話もできないんだから!」

「何を言おうが納得しないのだろうが、俺はやっていない。それに今は授業中だ。話なら放課後にしないか」


 蛇口の頬から乾いた音がする。平手打ち、山暮は真っ赤になった手のひらを握りしめ、行き場のないモヤモヤを舌打ちに変えて出ていった。


「先生、続けてくれ。古代の連中は本当にみんな木の実ばかり食っていたのか?」

「え、いや、狩猟もしていた。落とし穴の痕跡も発掘されている。教科書の次のページに」


 授業は進む。教師は淡々としているが、生徒たちは野次馬根性丸出しで、蛇口を横目で見たりした。

 放課後である。黒辻は仲間を従えて、山暮の待つであろう教室へ向かった。


「失礼します」


 先ほどとはうって変わって、落ち着いた山暮がいる。静かに、しかし燃えたぎる敵意を放ちながら。


「宣戦布告は受け取ったわ」


 その視線を、蛇口はよく知っている。前生では数限りなく浴びた視線だ。山暮は敵討ちを決意していた。


「状況的に犯人は私たちしかありえないだろうが、本当に違うんだ」


 黒辻は真っ正面から嘘をついた。騙せるとも思ってはいないが、しらをきれと蛇口から厳命されている。


「じゃあ誰が? こんなことをして誰が得をするの? 彼は怨みを買うような人じゃないし、あなたたちが挨拶にきた直後なのよ」


 一年一組は事件に対しての意見をほぼ二分化させている。

 卑怯である、堂々と勝負せよ、というのが半分。山暮にかなり同情的で、そのグループが彼女の意見にヒソヒソと賛成した。

 やられる方が悪い。これがもう半分なのだが、この場でしゃしゃり出ても旗色わるしと黙ったまま俯いて、ほとんどが教室から出ていった。


「本来なら喜ぶべきだろう。私とお前たちは敵同士で、討つべき頭数が減ったのだから。明らかにこちらの有利だ。だが」


 黒辻は噛みしめるように、今にも泣き出さんばかりに、悔やんでも悔やみきれないといった様子だ。肩を落とし、拳をも震わせている。


「昨日の蛇口の挨拶は本当なんだ。私たち黒辻班は正々堂々と真剣勝負がしたかったんだ。それだけはわかってくれ。頼む、それだけは」


 顔を伏せ、火素に肩を抱き寄せられて教室を後にした。同情的だった野次馬は言葉もなく、黒辻の後を追うように出ていく。


(これをされると、自分が悪いと錯覚してこないか? 山暮よう)


 神妙な顔つきのまま、蛇口は内心でほくそ笑む。すると凛とした威勢がその下心を粉砕した。


「お芝居はやめてください」


 浜野春香が声を張った。長い黒髪は日本人形のようでおしとやかのお手本のような彼女だが、得意とする槍の穂先を蛇口の喉元に突きつけた。見た目よりずっと肝が太く、激しい。


(短い槍だ。一メートルほどか)


 槍というよりも、先端に刃が備わった杖といえるその武器は、槍よりも小回りが利き刀よりも間合いが広い。狭い場所では無類に威力を発揮するだろうが、それをするには教室は少し広すぎる。

 本格的な戦闘行動というよりも威嚇の意味合いが強い。

 この威嚇に蛇口は驚いて身をのけぞらせ尻餅をついた。支えにしようと巡の服を引っ張ってしまい、二人して倒れた。

 ひっ、と小さく悲鳴をあげ、怯えた瞳を覗かれるのを恐れたのか両手をバタつかせ逃げ出した。


「ま、待て、置いていくな!」


 それに続いて巡も脱兎のごとく逃げ出した。


「これくらいの脅しで逃げ出すのね」

(あんなやつらに田町くんは負けたの?)


 犯人は蛇口に、もしくは黒辻班の誰かに間違いない。間違いないのだが、それにしては気骨がない。黒辻のしおらしさを見るにどうやら彼女ではないように思う。

 噂を聞く限り、火素は正義の気が強いらしいので除外するとして、あの蛇口の金魚の糞だろうか。


(いいや、絶対に蛇口なんだ)


 だが、そうなれば、あの腰の砕けた女に、脅せば仲間を捨てて逃げるような女に私の仲間は負けたのか。

 それだけは許しがたく、しかしそうでなければ誰がやったのだ。

 山暮は犯人を確信したのにもかかわらず、それを否定したいような心地でいる。


「良美ちゃん」


 浜野はそういう心の内を察した。彼女自身も似たような気分だった。


「春香、園田くん、二人とも用心しましょう」


 慮られ、これではいけないと改めて蛇口への不信感を強めた。確信はしたのだが、どうにもそれが揺らぎそうで、


「あんなやつらには絶対に負けないよ」


 と、声を張った。


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