危うし
「あ、戻って来た」
「赤毛、これで安心だ。奇異の目で見られることはおそらくない」
「まーた変なことを言ってからに。もう見られてるから関係ないって」
上機嫌な蛇口である。それは不気味なほどで、さっきまで何かに取り憑かれていたのではないかと思われるほどだ。
「おい黒辻、あの陸という医者はいいやつだ。世話になることもあるだろうから、挨拶くらいしておけ」
蛇口と入れ違いで一組が測定をしている。六組はもうしばらく待機だ。
「わざわざ行って来たのか? 理解できん」
「なぁに、俺にとっては重要なことだ」
「なあなあ、太ったのか?」
「おう。尻がな。成長期だから誤差だと言われたよ」
問題がなくなればご機嫌で、こうなるとこの世の全てが思い通りな気分でいる蛇口だ、行動理由を周囲の予想に合わせて捻じ曲げた。
「美琴、案ずるな。成長期だからな、はっはっは」
「あれ、巡も? なんだ、気にすることないって。私なんかいっぺんだって落ち込んだことないぜ」
(この太平楽どもめ)
黒辻は浮かれる班員に舌打ちでもしそうだ。
「そろそろだ。宝さんが、ほら、引率したがっている」
教師としてそれほど経験を積んでいる訳ではない宝は、行事という行事に興奮する。
「みんな注目! 移動しますよー!」
ぞろぞろと列をなし、その最中も蛇口はずっとニヤケが止まらない。不審である。
「いい天気だ。酒が欲しくなる」
「蛇口、いい加減にしろよ」
ややナーバスな巡である。そもそも発言もおかしいが、なによりこの能天気さが一層不安を掻き立てる。
「青筋立てるな。スジを立てるのは俺の専売よ」
「貴様ァ! それをやめろと言っているのだ!」
なんのことかわからないが、その陽気に火素も浮かれた。喧騒に弟妹たちを思っているらしい。
「順番に班ごとでお願いします」
廊下に待機させられ、集団を強調させるためであろう、一班のリーダーから医務室へ。さらについたての奥に進んでいく。
「黒辻、蛇口が世話になるとくれぐれも伝えてくれ」
「理由はわからないが、お前の交友関係のためだものなあ」
ウインクする問題児に、やや甘やかしたようにわかったと言った。
「次の方」
他に数名の白衣がいたが、陸が手を挙げて呼んだ。
「黒辻飾さんね」
確認する間にも身長や体重を計っていく。魔力でそれを計り、カルテへ記入していく。
「私の、ええと、身内がご迷惑をおかけしまして」
「身内?」
ふと顔をあげる。黒辻はばつが悪そうだ。
「先ほど騒がしくはありませんでしたか? 蛇口という粗忽者が、お邪魔を」
「ああ! あの子、あなたの班なのね」
きゃっきゃと喜ぶ陸はまるで少女のようである。
「あなたによろしくと、これから奴も来るでしょうけど」
黒辻はカルテから自分のスリーサイズを覗き、少し微笑んだ。「ご用件はなんだったのですか?」
「スタイルに不安があるみたいよ?」
「ああ、尻がどうとか。そんなことを気にする女ではないと思っていましたが」
「豪快な人ほど繊細なものよ」
はい、おしまい。陸は話を打ち切って、
「次の人をよこしてちょうだい。お疲れ様」
次は火素だ。もちろん、しつこく蛇口から言い含められている。
「あんたが陸せんせー? あいつのことうまく手懐けたなあ」
蛇口に負けないほどの態度だ。
(黒辻さんは苦労しそうね)
「どう? 体重どう?」
「おかしいわね、なんだか重すぎるみたい」
火素の体重は成人男性、それも肥満体型のそれである。よほど特殊な鍛え方をしているのだろう、この細身の肢体には、その原因を突き止めることができない。
「ウェイトがないと強いパンチが打てないからね。みんなどうして痩せて喜ぶのかわからないなあ」
太る、ということが頭にない。女子たちが聞けば卒倒しそうなことを言う。
「羨ましいわ。次」
その卒倒しかける女子には陸も含まれている。スタイル維持に必死な三十半ばには火素の肢体は眩しすぎた。
「黒辻班の巡だ。よろしく」
「あら、彼女は最後なのね」
事情の裏も表も知っている巡だから、仲良くしておいて損はない、それどころか懇意にしなければならないと、彼女もまた張り切っている。機嫌を損ねれば、蛇口が不利になる。もし弱みとしてこの隠し事を知られれば学園での立場や生き方が陸の一存次第になる。
「奴がおかしなことを言ったと思うが、あれはあれで一生懸命なんだ」
「伝わったわ」
「でも奴は物事を深く考えないところがあるから、これはいい経験だったかもしれないな」
(この子、すごい上から目線ね)
苦笑するも、微笑ましい威張り方である。巡は陸の手を取った。
「陸、何か言おうかと思ったが言葉が見つからなかった」
握った手を振って、そのまま帰ってしまう。ひょっとすると、蛇口よりも問題児なのはこの神秘の少女かもしれない。
「先に戻る。幸運を」
廊下では蛇口が、さっきまでの上機嫌はどこへいったのか、
「よろしく伝えたか」
と、黒辻たちにも確認しているがどの返答も同じだった。首を縦に振って「うん。伝えた」とそれだけである。蛇口の気持ちを知っているのは巡しかいないため、ろくな返事をもらっていないことが彼女を不安にさせている。
「気持ちは伝えた」
「美琴、困るのは俺だぞ」
「脅しにもなっていない。自分で頑張れ」
(けっ、端からあてになんかしてなかったんだ)
蛇口は腹を括った。
「俺だ! 蛇口だ!」
力任せにドアを開けた。ズカズカと陸へ歩み寄り、
「他の連中は、悪いが出てくれ」
と、言葉鋭く言い放つ。陸が目で合図すると、渋々廊下に出てくれた。
「約束の通り、やってくれ」
たかだか尻のサイズでこの子はどうしてここまで。陸はもはや怯えている。
「ええ。機械のように、ね」
制服の裾から入り込む聴診器、その鼓動は早い。魔力の紐がするりと頭のてっぺんから床に降り、陸のボールペンが動く。
紐が胸を取り囲むと、当然陸の視線もそこに移動する。
(近頃の子は、発育がいいのねえ)
「陸、早いとこ、終わらせてくれ」
仁王立ちする蛇口、視線は腰へ、そして尻へ。
(幻術はやめた。信じるぜ、陸南)
胸を囲う魔力が、腰へ、そして。
「ん?」
約束を交わしたはずの陸のつぶやきに、蛇口は唾を飲んだ。
(こっちの機械ってのは意思を持たないはずだよな)
蛇口はジカルドであった頃、地下帝国の内乱に参加したことがある。そこではロストテクノロジーと呼ばれる生体兵器が主武装であった。これは意思を持つ機械のことである。それを思い出したのだが、もちろん陸はそうではない。
機械のごとくにやれ。そう念を押したかったが、己がまず疑うことをやめなければ、その約束が壊れてしまう気がして必死に黙った。
(別に、お尻には何もないけど)
魔法の触診でそれがわかった。やはり気にしすぎなのだと微笑みで伝えようとしたが、そのやや低い鼻に、かおるものがある。
「この匂いって」
背に走る冷たい汗。震える拳を腕組みでごまかし、視線をやや前方に彷徨わせた。背筋を伸ばし仁王立ちすることしかできず、言い訳もない。男特有の匂いだろうか、前日に滾りを沈めたわけでもないが、陸は鼻をひくつかせる。
(陸ァ! 機械の分際で人間のような真似をするなァ!)
蛇口は研がれたような犬歯を、軽い微笑みでそれとなく隠した。「もういいか?」
「ちょっと聞きたいんだけど」
だめだ。とは言えない。幻術だ、いや、いっそのこと。野性が理性を上回ろうかとしていた。
「な、なんでも聞いてくれ」
これは理性の最後の防衛ラインに乗っかった、蛇口が獣へと変貌するかどうかのギリギリを保った魂の一声である。
(答えはしない。そして、聞けば殺す)
彼女の魂は、蛮なる男のままである。
「この匂い、あなた」
(剣はないが、その細っ首へし折るくらいは造作もないぞ)
「もしかして、お酒とか飲んでる?」
密かに両手を自由にさせ、反射的に飛び出せるほどに達した過敏な神経は、その行き場を失って、ちょっと前傾になって固まってしまった。奇しくも不意の場でモノがそびえ立つがごとくである。
「アルコールの匂いには敏感なのよ。これは消毒液じゃないから、ひょっとしたらと思ったんだけど」
前日は酒を断っているが、部屋にあればいくらか匂いは移る。それを咎められ、むしろそれが咎められたことに、蛇口は激しく喜んだ。
「ああ飲んでいるとも! そうだ、その匂いがな、誰かに気がつかれてはまずいと思ってな!」
実は巡の触診の際も感じていた違和感だが、気のせいだと自分を誤魔化している。
やれやれと頭を振る陸はその両手で蛇口の頬に触れた。
「堂々と言うことじゃないでしょう。もう飲むのはやめなさい。もっと将来を考えてちょうだい」
これでわかった。妙な理由をつけてここにきた理由が。
班員にも頼み込んでまでして飲酒を隠そうとしたのだ。しかし出来物ができたとは妙な理由には違いなく、しかもそれで飲酒を隠そうとは無謀というか馬鹿というか、物事をより大きな物事で隠そうとする幼さが蛇口の口調や態度には確かに似合う。
「すまん! 俺が馬鹿だった」
隠そうとしたかと思えば、バレるとすぐに謝るところは狡猾である。それがまかり通ると思っていそうで、陸は彼女の将来を真剣に心配した。たったこれだけのことで蛇口の将来が悲惨なものになると予想した。
「次にお前に会うときには、その鼻をひくつかせることのないようにする」
飲まない、とは言わない。言い訳とその場しのぎに年季がある。
それとは気がつかず、生徒を信じきる陸である。坂々の医者とはいえ根っからの子ども好きのようで、この改心っぷりにほろりときそうだった。
それほどに、そうさせてしまうほどに蛇口の人相は甘かった。人を絆す何かがあった。これはジカルドに少し似た口元のせいか、それとも人間としての抜けのある性格のせいかはわからないが、ともかく陸はまたしても古い傷心を、今度は柔らかく撫でられた思いがした。
「それは私とあなたの、人間としての約束?」
この女、三十も半ばだというのに少女のような初さがある。それも蛇口にとって幸いした。
「おう。お前は約束を守ってくれた。ありがとう、陸。お前のような者は世に二人といないだろう。約束を守れる者は極めて少なく、嘘偽りだけが俺の知る世界だったが、お前だけは違う。俺もそうありたいと腹の底から思う。次は俺からせがむように匂いを嗅いでもらおうかしらん」
下手な詐欺師のような文句だが、この陸には、効いた。脳が揺れる心地になって、童心が蘇りそうである。
「では、失礼する」
一安心と蛇口はさっと身を翻す。ひたいの冷や汗を拭うと、袖に大きなシミができた。
「待って」
ぞくり。それは死神のような響きで蛇口に届いたが、もし他に人がいれば正反対のものに聞こえただろう。
声も出せずに振り返る。両手を包み胸に当てしおらしく佇む死神は、跪けと言われれば従ってしまうような、ちょっと蠱惑的な雰囲気だ。
「陸、南よ」
それは己を特別な者であると証明したいがための精一杯の愛情表現だっただろう。生徒と教師の立場、歳の差、同性、そういった障害や困難に絡まった、精一杯である。
八十の老人は敏感にそれを察知した。
「おう。すぐに会えるさ、南」
軽く手を振って蛇口は廊下に出た。時間にすれば大したことはなかったが、測定にしては遅すぎる。出てきた女は汗だくだし、追い出されていた医師と次の生徒がどんな不届きが行われたのかと邪推しながら入ると、女子陸南が「はぅ」と艶かしい吐息を漏らしている。
「さっきの彼女が、なにか失礼を?」
おずおずと同僚に声をかけられると、ゆっくり首を左右に、
「いいえ。ちょっと相談を受けただけ」
と、慎ましく答えた。そして、
「あと、彼女って響きは私だけが使えるものよ?」
と、爛漫にはにかんだ。
(絶対なにかあったでしょ)
同僚との関係性に確実にヒビが入った陸女医だが、そんなことはどうでもいいらしい。
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