神のお墨付き


「巡ィ、遅刻なんかするなよ」


 火素は別れ際に頭を撫でた。妹がいるらしく、背丈が同じくらいで姿が重なるらしい。

 クラスメイトは懇親会のためどこかに消えたが、黒辻と火素は用事があるとそそくさと帰った。

 自然、蛇口と巡も帰ることになる。よく知りもしない相手と騒ぎ気にはなれないし、


「水では酔えない」


 ということが本当の理由だった。

 学園から十分も歩けばアパートに着くので、二人は一度帰宅し荷物を下ろした。薄っぺらい鞄だが、両者とも移動には手ぶらがいいと意見が合致した。


「美琴」


 昨晩と今朝に足りないと気がついた日用品と、食事の支度を買い出しに行くことにした。

 並んで歩く制服の、やや背の高い方、蛇口はゴミ捨て場から拾ったスニーカーの底を擦って歩いている。


「なんだ」


 昨晩にみた大きなアーチはなんだと気になり、商店街があるのだとその存在を火素に教えてもらった。どんなものかと買い物ついでに見物に行くのである。


「俺のザマを見たか」


 こいつは一体どんな顔でこれを言っているのだろう。巡がちょっと見上げると、蛇口はたまたま道を横切った野良猫を眺めている。


「ザマ? 斬られて、燃やされたあのザマのことか」


 猫が通り過ぎると今度はゴミを荒らすカラスに目を移した。


(屍肉もなく、森に餌もないのか)


 巡はあちこち移り気で、蛇口の視線に誘導されているである。


「覚悟はしていた。負ける覚悟だ。しかし同時に自信もあった。この俺が負けるはずがないとな」


 それで、あの通りだ。と感情を込めずに言う。

 蛇口は、有り体にいえばへこんでいた。それが表に出ないだけで、出さないだけで、かなり落ち込んでいる。


「負ければ死ぬのが当たり前で生きてきた俺だ、あれは……堪えるな」


 ルカ・ジカルドとして生きていれば、あれで俺は死んでいた。そう考えると恐ろしく、なんだか腹の底がずきりと痛む。


「これは、なんというべきか。俺はこんな思いをさせていたのだ、八十年間も」


 泣きこそしないがその声は沈痛である。饒舌なのも、もしかすると涙を堪えるための作業かもしれない。

 巡は話もそぞろに商店街のアーチをくぐり、きょろきょろと居並ぶ店に目移りした。頭の片隅、視界の端、なんとなく蛇口を収めている。


「だがな、誰の目にも俺の負けとは映らんだろう。勝敗とは己の決め事であると同時に、他者の判定でもある。美琴、あれは俺の勝利に見えただろう」

「そうだなあ。はっきりと負けたとは思わんなあ。魚に野菜か、肉もある。へえ、出来合いがあるのは便利だな」


 巡は蛇口が敗北し、苦しみながら人生を楽しむことをよしとしているので、正直にいえばどうでもよかった。そもそもあの戦闘は検査であって正式な試合ではない。


「よし、神のお墨付きを得た」


 意外と小心者な蛇口で、そのことについては自覚もある。だがそれは用心深さや逃げを選択できる勇気にも繋がっているので、それほど悪くは捉えていない。


「酒場はないのかな」


 夕暮れにさしかかろうとしている時間帯、居酒屋ののれんはかかっているし、気の利いたチェーン店はすでに営業している。


「つまみだけでいい。俺は家で自由に飲みたい」

「入学祝いだ。派手にいきたいじゃないか」

「なら酒屋で買おう。店に行ったところで、愛想振りまく親父とやたらに美人な女なんかに酌はしてもらいたくない」

「何かあったのか?」

「昔にな」


 どうもそういうことがあったらしい。


「快飲していたらなんと盗賊の隠れ蓑だ。酒場は面倒ごとの巣窟だ」


 ぼったくられて、暴れて、店は半壊。そんなことが何度かあって、あまり店で飲むことをしなくなった。

 商店街から少し外れたところに酒屋がある。店主の老人が一人で切り盛りしていた。健康そうで足腰もしっかりしている。割れた眼鏡が、不思議と似合う。

 酒屋の老人は蛇口をどう見たのか、


「へえ、鳥羽伏見にいたかい?」


 と目を丸くした。二人は後で知ることだが、彼は新撰組の生き残りと自称している商店街の有名人だった。


「いいや。俺の祖はいたかもな」

(適当なことを)


 そこでビールを半ダースだけ買った。巡が珍しがったするめと炒った大豆を買い、足早に家に帰った。


「乾杯といこう。そうしよう」


 巡はドタバタと靴を脱ぎ捨て、居間に正座する。出しっぱなしにすることが決まった布団の上、そこにちゃぶ台を乗せている。たった数日の間に、部屋はもう小汚くなっている。


「おう。前途洋々の学園生活に」


 プルタブを押し込み、缶を煽る。アルコールの臭気、舌先の柔らかな痺れ、苦味が喉奥に流れ胃に落ち着き、漏れ出る声を堪えることのなんと困難なことか。


「くあぁああ! 水筒に入れて持ち歩こうじゃないか!」


 蛇口はだんだんと巡を理解しつつある。悪ノリすると、彼女は本当にやりそうで、


「それもいいが、まあ最初は控えておけ。慣れてきたらそうしよう」


 と、宥めすぐに話題を変えた。


「しかし陽の落ちきらぬうちから、これは贅沢だ」


 移り気な神はすぐに「そうだ」と声を荒らげる。顔にはすでに赤みがあった。


「まったく、コレがあれば他には何もいらんなぁ」


 巡はちょっと酒乱である。飲み進めるうちに制服を脱ぎ散らかし、下着だけになった。


「服は着ておけ」


 彼女は男というものがよくわかっていない。男の象徴の一つである刀剣を見ることも躊躇われる初な神なのだ。それなのに、どうも蛇口に対しては年上というか、教師というか、年長ぶりたい。その余裕を見せつけるように、やや挑発的に舌を出す。


「ふん、襲うつもりか」


 からかう巡だが、蛇口の食指は動かない。「それは俺が決めるんじゃない。だから、襲わない」


「ん? そういえばお前、その、アレをどうやってしまっているんだ。そもそも下着は女物か?」


 あぐらをかくその股間に、巡は視線をやった。まるっきり女のそれだが、しかし確実にそれはあるのだ。


「無論、はみ出ている」


 お互い同時に吹き出した。とても少女が発するような笑声ではなく、壮年のような、ガハハと老若を超越した声である。


「男ものの下着を履いてるよ。それに、えーと、なんだったか。火素が履いていた下着の上から履く薄い着物? みたいなあれを履いている」

「スパッツか」

「それだ」


 蛇口と名のつく以前から、この体はそれを着用していた。蛇口になってからは半分ほど性が変わったが、純然な女性である時からこれであると記憶がある。


「へえ、じゃあ無事に収まっているわけだ」

「見たいか?」

「ふん、噛みちぎられても文句を言うなよ」

「お前のその小さな口では咥えることもできないよ」

「横咥えにしてやる。串に刺さった肉よろしくな」

「ようし、そこまでいうなら」


 酔った勢いで立ち上がり、下着に手をかけた。


「バカ! よせ、目が汚れる!」

「運命の神ならば、人の営みを知らぬとは言わせねえ」


 にじり寄る蛇口、後退る巡、どちらも血走った目を見開いた。

 さらに、血走っているのは目だけではない。赤黒い血管を浮き上がらせた、蛇口の化身が、彼女が物干し竿には足りないと悔しがったそれが、鼻先十センチメートルに迫っている。

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